ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

12月24日の釣り

2013-01-17 05:00:00 | 田舎

三連休の最終日、つまりY下君が帰る日、何処で釣ろうかと前日の夜から論議、大島港は人でいっぱいだろうし釣れない、ならばと以前大きなガシラをゲットした樫野の地磯、それも灯台下ではなく手前の比較的降り易い磯に行こうと決めたのでした。9時ごろに家を出て、9時20分には樫野の駐車場に到着、釣り場に向かって歩き出したのですが、途中でY下君が空を指差し「ピューピュー言うてんで」と言い出します。歩いていると両側の防風林に遮られて気付かなかった風が、確かに北の方から強烈に吹いているのが分かります。釣座を考えると前から風が強烈に吹いてくる感じ、これは前日より大変だと判断し、何処に行こうかと迷います。

             
                  朝、睡蓮鉢には薄い氷が張っていました

このような北西風なら風裏にあたる海金剛側は良いだろうと思い、阿野木漁港の地磯へ行こうと決めました。同じ樫野地域なのでそんなに時間はかかりません。入り口の鎖を外して海辺まで車で降りていきました。

             
                  海面が自分たちより上にあるように見える坂を下っていくところ

ところが今度は風は無いものの、干潮時にあたったのか水深がありません。もともと浅い所なので海を見て、釣る気が失われてしまいました。

             
                  海を見て途方に暮れていたのが10時半ごろ

Y下君も昼を過ぎれば帰途につかねばならず、あまり遠い所へは行けませんから、釣り客でいっぱいなんやろうなと思いながらも大島漁港へと車を走らせます。

             

ところが着いてみると・・・人っ子一人として釣りをしていません。ただ前方や右横からの風が気にかかり、投げた撒き餌も身にかかります。

             

相変わらずヒョコッとするアタリでエサが無くなります。去年はヒョコ・ヒョコッと一度にはエサは無くならなかったので、一度アタリがあれば糸を張れば何がしかの魚が釣れたのですが、ヒョコッとしたアタリ一発でエサが無くなりますから合わせようがないのです。前日の安指で残った撒き餌を手前に打ち、雑魚を手前に寄せておいて少し沖目を狙うのですが、仕掛けを入れる度に雑魚共はそちらに向かっていくのです。魚たちはエサの臭いや形状に寄せられるのではなく、何かの着水音の方に向かう習性でもあるのかと思ってしまうほどです。

             

風は強く吹いてはいるものの風波はそう強く立ってなく、陽が差すと暖かでしたが、雲に遮られて陽が差さないと寒く感じる日でした。

             

付けるエサはペレットなので大きさを変えて投入することが出来ますが、直径1cmぐらいで釣っていたのですが、それを一口で喰う魚と言うのはそんなに小さい魚ではないと思うのですが、魚と言うのは外で見るより案外口が大きいのかも知れません。その半分ぐらいの大きさにするとアタリも無しにエサを取られてしまっています。おそらくタナに到着するまでに齧られているのでしょうが、そうだとすれば大きなエサも途中で齧られているのであり、タナに着いたころには一口サイズになっていたのかも知れません。

グレのアタリがあれば、こんなサイズのコッパばっかり、釣り人が来ないのは、師走の忙しさや寒さだけではなさそうですね。

             

結局2時には切り上げて、2012年の釣りはお仕舞い、釣座を去った後は風でこぼれたオキアミをトンビやカラスが掃除してくれていました。

これで去年の出来事の記事がやっと終わりました。今日は18年前に阪神大震災が起きた日、困難を排して職場に行ったことを思い出します。

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12月23日の釣り

2013-01-16 05:00:00 | 田舎

今日のタイトルの一部に12月23日とありますが、この日は今盛んにニュースで流れている大阪市立桜宮高校のバスケットボール部のキャプテンが顧問教諭の体罰を苦にして自殺した日でした。そんな事とは露にも知らない私は呑気に釣りなどしていたのですが、殆んどの方がこの事を知ったのは年が明けて先週のこと、私が安穏としていたからと言ってとりわけ責められることもありますまい。しかし42年も前の事とはいえ、府立と市立、サッカーとバスケの違いこそあれ、大阪市内の公立高校で体育会系のクラブに所属していたのですから、気にならないわけはありません。私の所属したクラブの顧問といえば、部として存続させるために誰でもいいから先生の名前が必要だったので、名前を貸してくれた社会科の教師でした。なので練習にも試合にも全く無関心であり、私は顧問から体罰を受けようにも受けたことはありません。かと言って体罰を受けたことが無いこともないのです。いつの日か通学に利用していた電車がいつも満員で遅れることもしばしば、始業時間に間に合わず怒られたと綴ったことがありました。門前で待ち構えていた他のクラブの顧問の体育教師に呼び止められ、ビンタを喰らったことがあるのです(勿論その電車に乗っていた私たちの学校の生徒全員がです)。試合に負けたからと言って先輩に運動場を何十周も走らされることもよくありました。要するに体罰なんて理不尽なもの、そういう風に感じていた3年間、そして卒業してからも私は後輩に対して一度も手を上げたことはありませんし、殊更厳しい練習を強要したこともありません。

             

私が高校を卒業したのは1970年、ベトナム戦争反対や安保条約反対の機運の高い時期であり、東京で革新都政が、大阪で革新府政が、福岡で革新県政が誕生したのもこの頃でしたが、そういう政治的な課題には無頓着だった私も人権を尊重するという風潮に染まっていったのでしょう。社会人になっても当時関西社会人リーグ所属の会社のサッカーのクラブチームに入部しましたが、練習は厳しかったし、怖い先輩もいましたが、体罰などはありませんでした。体育会系のクラブで体罰なんてあってはならないとは思っていましたが、だからと言って皆無であるとは思っていませんでした。私なら体罰があり苦痛に感じたならさっさとそのクラブを辞めますが、このバスケの生徒は死ぬことを選んだのですね、バスケが余程好きだったのでしょうが、バスケが出来るのは何も高校のクラブだけではありません。バスケにもプロのチームがありますから、バスケを続けたいならそのチームの養成クラブに入れば良かったのに。

私は体罰=暴力だと思っています。指導者による独裁体制を保持することが目的だと思っていますが、決して選手は監督の奴隷ではありません。選手たちがどうしたら強くなれるのか、どうしたら強豪チームに勝てるのか、そういうことを自主的に考える力を削いでいる結果になっていると思います。現にサッカーなどは私がプレーしていた頃とは全く違ったフォーメーション、いろんな戦術で成り立っています。個人技の高い選手にボールを集める方式だけでは絶対に勝てない、ゲームでは点を取らないと勝てないのですから、ワンマンではなくツーマン・スリーマンぐらいでないと厚い壁をなかなか突破できないのに、そうすることによっていとも簡単に点が取れてしまうケースをよく見かけます。自分たち同士で考え、練習を積み重ねる努力が如何に必要か物語っていると思うのです。

             

橋下大阪市長が遺族に面会して謝罪の上で、自らが「体罰を容認していた考えを反省し、考え方を改めなければならない」と述べたと聞いています。でもそれはスポーツでの指導の場合に限ってのことらしい、「手を上げる指導は、認める意味や効果がないと感じている」と言うのです。如何にも効率、成果のみを追求する新自由主義者の考え方そのものですが、それでも体罰を否定する立場を表明しました。しかしそれだけではアカンと思う、子供の人権を尊重するという視点が欠落しているし、そう思っていても発言していないとすれば、どのような人にも人権は存在することを容認することであり、今までの自らの行為や発言を否定することに繋がるからなのかと勘繰ったりもしてしまうのです。体罰を否定するのは上達したり、ゲームに勝つためだけではなく、人権を尊重するという立場が欠落してはならないと考えます。

釣りの話ではない話を長々と綴ってしまいました。これで私の体罰に関して考えていることを全て書き切れたとは思っていませんが、そろそろ本題に。

             

場所は安指の地磯、日曜日なので大島港はいっぱいだろうと言う想像で、安指に行くことを決めたのですが、到着は10時半ごろでした。いつもより潮位が高く、平らなところは濡れているので、Y下君は前に来た時の釣座、私は左の小山を越えたところに釣座を構えました。

やはり三連休の中日なので若い人たちが幾人も釣りに来ています。

             

私の釣座は右横からの風が物凄く、釣りをしていられません。Y下君の方は右手に大きなテトラがあるので、少しは風除けになっていたようで、以前と同じようにイズスミが釣れたと言っていました。私は大きなアタリがあったのに10cmにも満たないそれこそホンマの木っ端グレが1匹だけ、ネコもサギも居ないのですぐに海に帰してあげました。結局ウロウロしたのを含めて、2時間ぐらいで釣りは切り上げたのでしした。

             

釣座近くの水溜りに何か動いてると思ったら、20cmぐらいのサンノジが入っていましたが、いくら大潮の満潮になってもこの魚が海に帰れることはないでしょう。オキアミを入れてあげても食べる様子も無く、この小さな水たまりで衰弱死するのでしょうね、ナンマイダ・ナンマイダ・南無阿弥陀仏。

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イセエビ鍋

2013-01-15 05:00:00 | 田舎

12月22日にY下君がやってきました。この頃は当日の朝、大阪を出発して昼ごろの到着ですが、若い頃は仕事が終わってから車を走らせ、夜中に着いて、翌朝早くから渡船に乗ってあちらこちらの磯に上がっていたものでした。今は波止場や地磯で釣りを楽しんでいますから、渡船の時間に間に合わなくてもいいので、ゆっくり起きてゆっくり用意して、ぼつぼつ行こかというような悠長な釣りをしています。この日は天気も良くそんなに寒くもなかったので、何処かへ竿を出そうと大島港へ行ってみたのでした。

             

2時ごろに着いてみると土曜日なのに誰も釣りなどしていません。やはり師走、皆さん何かとお忙しいのでしょうか。そう思うと釣りなどしている場合ではありませんが、まぁとりたててすることもないので、竿を出してみます。三連休の最初の日だったのに釣り客が少なかったのは、前夜は少し雨が降ったせいかも知れません。好ポイントは前夜の雨水が溜まって濡れています。釣りをしているのはY下君、他の釣り人ではありません。

             

4時ごろまで釣りをしましたが、こんなサイズが2枚釣れただけ。釣況は少しも良くなっていません。一昨年の12月の方が良かったですね、アタリ自体が前年のものとは違うのです。

             

4時を過ぎたので釣りを止め、ホテル浦島の温泉に入り、6時11分紀伊姫発の電車に乗って、串本の古谷魚店へイセエビ鍋を賞味しに行ったのでした。1kgはあるというイセエビ、10月の解禁当初キロ5000円で売っていましたから、仕入れはもっと安かったのでしょうが、今はどれぐらいの値段が付いているかよく分かりませんが、白浜のとれとれ市場へ寄った時にはキロ7500円で売っていました。年末でしたから価格は上がっていたかも知れません。

先ずは刺身でプリプリ感を味わいました。何とも言えない甘さが美味しい。

             

豪快にぶつ切りにしています。煮ると殻と身がポコッと外れて食べ易いのです。私は足を食べるのが苦手、身を外す時に殻を持つ手が痛いから、その割には美味しいと満足できません。でもY下君は足でも上手に食べます。

             

2回目を炊き始めて、ぶつ切り(八つ裂き)にされても未だ生きていたイセエビのもがき苦しんでいる様を動画で撮ってみました。

          


こうやって後から見ると生きていて熱さに苦しんでいるのか、温度差で動いていて熱がっているように見えるのか、よく分かりません。熱がってるのに次々に足を継ぎ足しているのは私ではありませんよ、この足を食べるのが上手な人です。

       

身の一番多い部分は半分をお刺身用、半分は鍋用にしてくれていましたが、茹で上がると身は簡単に外れるでしょ。カニを食べるより簡単です。食べていると「余は満足じゃ」と言いたくなります。

             

最後に雑炊、これもエビのミソが効いていて美味しいです。でも最後がいけません。値段を聞いてビックリ、「8500円」だと寝呆けながら言います。二人分の値なのかと思ったけど一人分らしい、これには驚きです。殻が付いているからとは言え、1kgもあれば二人で食べて満腹、それ以上重いイセエビであろう筈もありません。たかが1kgのイセエビを鍋にして17000円は取り過ぎ、原価は絶対に5000円もしていないに違いありません。原価率3割という原則を完全に逸脱しています。“正直者には福宿る”としている店訓はどうなったのか、「Y下君、おいで~よ」といつも電話しているのは何だったのかと、酔っていた(古谷のオヤジが)としても許容範囲を逸脱した値段でした。最近は労働で得る収入が無くなったので、法外な料金を得ようとする輩は嫌いになってしまうのです。まぁ、この日の価格は6月に買った中古車52万円よりは、少しは許せる範囲です。

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大辺路(田子) Ⅱ

2013-01-11 05:00:00 | 田舎

イギリスの『エコノミスト』誌は日本国の新しい内閣に対して“恐ろしいほどの右寄りの閣僚選びはアジア地域にとって悪い予兆だ”と題した論評記事を載せています。その中で「新政権の真の性質は保守ではなく、過激な国粋主義者たちによる内閣だ」と述べ、閣僚の多くが「戦争時の日本の残虐さをほとんど否定している」と強調、新しい総理大臣については「愛国心を軽視してきた教育法や憲法や戦後日本の平和主義を修正したいと望んできた」と紹介、「安倍氏自身の国粋主義者としての本能や自民党内の過去の亡霊を抑えることは難しい」と、参院選後の本性の剥き出しに警戒していますが、日本のジャーナリズムはどうしてこういう論調を書けないのか、そこが日本国民である私の不満なのです。

             

広い道とはすぐに分かれて(広い方も大辺路との表示はあった)、また山道に入ります。突然ブロック塀に窓らしきものがある、何に利用していたのか分からないような建物が現れましたが、結局何なのか分かりません。間違いないのは大辺路を歩く人に飲み物などを売るような施設でないことは確かです。

             

広い道から10分ほど歩いて1枚目の写真の海が見える場所に到着、天気が悪く海が灰色に写っているのが残念です。そこからすぐに紀勢線の線路に出くわしますが、線路を渡ってはいけないと書かれていました。丁度特急が通った後だったので、単線であるこの辺りではすぐには電車はやってきませんが、渡らずに指示通り危なっかしい土手に付いた斜面を降りました。

                       

一応滑り止めのための階段状の物を作ってくれていますが、高さや広さが違うので歩き難いです。

             

降りると湿地帯、最初に着いた時と同じく小さなトンネルがありました。ただ中は真っ暗、両方水が流れていて、足を踏み外さないか心配です。ここはライトが要りますよ。

             

出てきたところ、奥は暗くて見えません。最初のトンネルと違って立ったまま歩けますが、距離が長いので暗いのです。栗の木谷橋梁と書かれています。

             

出てきた側も湿地帯です。その上に紀勢線が走っていることになり、少々危なさを感じます。遠くにサンワの看板が、こんな所に出てくるんですね。

             

シーサイドサンワの裏側、一度使われなくなったらもう後は荒れ放題、寂れる一方です、誰か買い取る人はいるのでしょうか。

             

左側に沢山置いてあったダイビング用のボンベ、時々ダイビングの人を見かけるので、ここは未だ使われているのでしょうが、何だか荒れた感じがして、このままでは誰も来なくなるのではないかと思ってしまうような放置状態です。

             

ここからは42号線を平見下まで歩いて帰ります。問題に思っているのは中辺路にしても大辺路にしても車で行くと(車で行くしか方法はないのですが)停めたところまで戻らなければならないこと、誰かとコンビで行くなら戻ることを考えなくていいので、探索する距離も増える筈なのですが・・・

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大辺路(田子)

2013-01-10 05:00:00 | 田舎

正月早々、安倍内閣総理大臣がアメリカの某紙に日本の右翼が載せた意見広告に賛同者として名前を連ねていたという新聞記事を見ました。意見広告というのは、先の大戦時に朝鮮からの従軍慰安婦問題、「女性がその意思に反して日本軍に売春を強要されていたとする歴史文書は発見されていない」「慰安婦は性的奴隷ではない。彼女らは当時世界中のどこにでもある公娼制度の下で働いていた」というもの、だからどうだと言うのだ!?歴史的文書が発見されていないのは隠蔽してしまったのかも知れないし、公娼制度を当然視すること自体女性を性の対象としてしか見ていないということ。慰安婦が居ること自体問題なのに、彼女たちを戦場に連れて行くことこそもおかしいでしょ、それも他国家の女性ですよ。ことはそれだけではありません、現内閣総理大臣は河野洋平官房長官(1993年当時)が慰安婦問題で政府として“おわびと反省”の意を発表した談話を見直すことすら示唆しているのです。今度の参議院議員選挙まではボロを出さぬと肝に銘じたようにしている発言を何度も聞いていますが、意見広告に賛同したのは昨年の総選挙の前のことですから、ボロを出すまいとする以前のこと、マスコミはこのことを一切スクープしていません。ということは自民党のボロを出さないという意図は自制ではなく、マスコミに対しての脅しなのでしょうか。

             

和深での大辺路があまりにもショボかったので、翌日は曇りでもあったし昼から田子周辺の大辺路を探索しようと、前日見つけた掲示板の写真を眺めて、地図の左の方へ行ってみようと思ったのでした。目印にしていた『平見下』のバス停、田子駅を過ぎ、安指の港まで走っても見つけられません。行き過ぎたと思い引き返すとこの停留所を見つけることが出来ました(大辺路の標識も見受けられます)。大阪方面への車線をずっと見ますが、そちらの方ではこの『平見下』のバス停を見つけることが出来ません。だから通り過ぎてしまったのか、もう一つ目印にしていた富山トンネルを大幅に通り過ぎたと言うのに・・・

             

ここは42号線を走っていると山手に造船所が見えるところ、こんなところに造船所があるなんて、儲かってるのかといつも疑問に思っているところです。この造船所と川の間のコンクリートの道を通って行くらしいのですが、初めは間違っているのかと思いましたよ。

             

コンクリートの道の終わるところで小さなトンネル、独りで歩くとホンマにこの道でエエんやろか?と思ってしまいます。腰をかがめて歩かねばなりません。トンネルを抜けると最初の写真のところに出ます。案内板には石畳の道について書かれてありました。

             

この案内板の考察はなかなかのもの、造られたのは近世だと思われるが、補修が行われているので今のものはその補修が行われた当時のものであり、石畳の目的は多雨地帯において土砂の流出と草の繁茂を防止するものだとか、大辺路でも石畳が残っているのはごく僅かだとか、当時の排水を考慮した道を知る上で貴重なものなのだそうです。

             

こういう道を歩いていると大辺路を歩いているなぁと思うのですが、古座辺りの大辺路と比べると暗いのが難点、独りで歩いていると怖いのです。

             

歩き始めてから10分程度で平らなところに出ると、こんなところに家が建っていました。誰も住んでないのかと思ったけど、こぎれいにしてあり、きっとどなたかが住んでおられます。

             

進んでいくと道は木で補修されていました。こんな山の中で一軒だけ家があるなんて、寂しくはないのか、不便じゃないのかと思ってしまいます。だって私が通ってきた道が生活道路じゃ物を運ぶのも大変でしょう。

             

でも細い道を抜けると広い道が、広いと言っても車が行き交うには少々狭いのですが、一応舗装もしてあります。このような道が無ければ現代の人は生活出来ませんよね。

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大辺路(和深)

2013-01-09 05:00:00 | 田舎

一昨日は全国高校ラグビーの決勝戦が花園ラグビー場でありました。長男が観に行こうと誘ってくれていたのですが、4日、5日と長時間の飲酒が続き、6日も親類の新年会が奈良であり、その新年会では体調が最悪状態、現役時代でも2日間調子に乗って飲んでると3日目はしんどかったのに、もう酒も弱くなってきたと自覚も芽生えてきた今日この頃、なかなか調子が戻りません。昼からあった新年会、結局夜は何も喉を通ることなく帰って寝たのでしたが、翌日になっても体調が良くならず、ラグビー観戦は家のテレビでという羽目になってしまいました。今回はK川君から入場券も貰ってなかったし、絶対に行かなアカンということもありませんでした。試合は大阪の常翔学園(旧大阪工大高校)vs奈良の御所実業、近畿それも隣の県同士の試合なので盛り上がりに欠けたかも知れませんが、テレビで観戦している限り面白い試合でした。大阪に住んでいるので常翔学園の応援をしたかったのですが、先発メンバーを見ると御所実業側に私と同じ姓の選手がいたので、どちらが勝っても良いぐらいに位置付けて観ていました。でも試合の途中でコマーシャルが入る、サッカーなら試合途中でコマーシャルが入ることはありません。ラグビーも興行面で何処かでサッカーとの違いを模索しているように見えるのですが、試合中にコマーシャルを入れるのは感心したものではありません。その辺りが実際に試合場に足を運ぶのとの違いですね。

             

車を停めた広場から200m程度で海、戻って和深の駅周辺にはこの『大辺路』の標識が目につきます。海から戻りる途中トンネルを超えて左に曲がり坂道を上がると和深駅、その坂道が大辺路です。古座側では袋港~姫川~橋杭岩虫喰岩から田原方面への道を紹介したことがあります。和深駅周辺にも大辺路があるなら、ここは歩いておくに越したことはありません。

駅から坂を下りてトンネル前に、こちら側からも写しておこうとカメラを構えます。浜に行くにはこの幅の狭いトンネルを潜らなければ他に道は無いと思いますが、この先には家は4~5軒しかなく、住民の他に通るのは地磯で釣りをする人か、荒れた日にサーフィンをする人ぐらいではないかと思います。たまに私のように探索する人が来るのかも知れません。

             

和深川を渡る橋を越え、串本方向へ歩いていきます。

             

何処かの塀にマップが貼られてありました。古座町が載っていますから最近のものではありませんが、色はきれいです。一番右が和深駅、そこからスタートして田子を超え、潰れたシーサイドサンワまでの道のりが示してあります。いくらなんでもその距離を往復するのは大変ですから、今回は行けるところまで行ってみようと思ったのでした。

             

和深駅の串本方向にあった歩道橋を渡っていると電車が来たのでカメラに納めようとしましたが、橋の上は外観が見られないよう壁を施してあり、急いで階段まで戻ったのでした。

             

歩道橋を渡り終えると坂道、こういう道なら昔の人も歩いたんだろうなぁと思うことが出来ます。

             

しかし一旦山を越えると閑静な住宅街、ここでも大辺路の標識を見るので道は間違っていませんが、少々期待外れです。狭い道を車も通るし、途中犬に吠えられながら20分ほど歩きました。大辺路だからと言ってここを歩く人は少ないのか、出逢う人からはアブナイ人のように見られているような気がしてなりません。

             

そして船並港が一望できるところまで歩き、この先は42号線を渡らなければならないので、ここから引き返したのでした。往復40分、大辺路を歩いたという気分にはなれない行程でした。

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和深駅

2013-01-08 05:00:00 | 田舎

賃労働をしなくなって3/4年が経ちましたが、ブログは未だに仕事をしていた時と同様の日程で綴っています。それでいいのか、もっといくらでも書けるだろうと叱咤激励しながら積んでいけばいいのか、あまりネタも無くなってきたのでペースを落としても良いのか、それは分かりませんが、今年の年初はとても楽なスタートになりました。元日から三日間はいつも通り休み4日の分だけ綴ればまた二日間休みだったから、来年も5日まで休みですもんね。でも来年までこのブログを綴り続けているかどうかも分かりません。

             

和深駅で一度も降りたことが無かったので、一度訪れてみようと思って戻り始めました。海に向かって左側の奥から流れてくる和深川、小さな川でした。

             

車を停めて歩き出した時に通ったトンネル、この上に紀勢線が走っているのでしょう。やけに釣鐘型を強調したトンネルです。何処に駅があるのか分からなかったので、トンネルを抜けて左に曲がりました。

             

駅には乗客らしき人は皆無、串本町の中では一番西の端にある駅なのですが、田子駅よりは大きいので、この地区には人口は多いと思われます。かと言って田子駅で降りたことも、周辺を歩いたこともありません。串本方面のホーム、この先に古くなった歩道橋が見えています。この歩道橋は浜からも見えていましたから、その辺りが駅かと思っていました。

             

こちらが大阪方面、駅を跨いで向かいのホームへ渡る橋はこちらでした。

             

跨線橋の上から海を見渡した写真、電車の窓からではこのようには見えず、一部しか見ることが出来ません。昨日見つけた釣り人が見えています。

             

思ったより海は荒れていて、危なそうなところで釣りをしています。

                       

駅のホームで見たポスター、今月26日の潮岬・望楼の芝の火祭りです。今年は見物することが出来るかも知れません。姫からは車で行くしかないのが残念です、飲めませんからね。何処から観るのが一番見易いのでしょうか、観光タワーには当日は登れるのか、あまり早くから行っても時間を持て余すような気もするのですが・・・

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和深の地磯

2013-01-07 05:00:00 | 田舎

昨年末は11日から25日までの2週間をを姫の家で過ごしましたが、着いた11日はとても寒く感じたものの、以降は寒さも和らいだし、雨が降ったのは富田に行った15日の朝方だけ、晴天の日も多く概ね過ごし易い日々を送りました。天気が良いからと言って毎日釣りをしていたわけではありません。電車に乗る度に気になっていた和深の駅から見えている浜がどんなところなのかと、行ってみることにしました。

             

電車で行くとまたまた帰りの電車の時間が気になるので車で行ったのですが、和深というところは串本町の西端、今でこそ串本町になっていますが、姫は旧古座町の西端であり、串本町を横断したと思うと随分走った気になります。愚車で行ったし、大阪まで帰るのではありませんから、前の車がゆっくり走っていても平気です。

42号線を大阪方面へ走り、和深の信号を左折しました。右折すると和深の集落を抜けて和深の大滝へ行ったことがあります。この信号では和深駅の表示はありません。和深駅への標識はもう少し大阪寄りで右折するように、駅は国道より海側にあるのに矢印は山側を示しています。だから私は和深の信号を海側(左折)へ向かったのでした。

             

細い道を少し行くと広場があったのでそこに車を置いて、その先がどうなっているのか分からなかったので歩きました。実際には浜の傍まで車で行けたようです。浜へ下りる階段はきれいに整備されていて、入り口には海に向かって碑が置かれています。“海に辿り着きし者は 静かに包みたまえ 僕たちの内なる海よ”おかしくないですか?辿り着きし者は何をする、それとも思うのでしょう?静かに包まれるのは明らかに辿り着きし者であり、海に対して包んでほしいと願っています。“海に辿り着きし者を・・・”にしなければ文として成り立ちません。彫った時に間違ったのかな?

             

海に向かって左側にいくつかの大きな岩があり、その下を地磯が広がっています。運動靴で行けるところまで行ってみようと、濡れてない岩を選んで歩いていきます。

             

途中先端で二人が釣りをしているのが見えました。どうにかして二人のところまで行って何を釣っているのか、釣れているのか確認したかったのですが・・・

             

何処にも繋がったところは無く、どうやらこの場所の岩を渡るようなのですが、大きな波がすぐにやってくるし、常に濡れているので運動靴では滑りそうで、渡ることが出来ませんでした。

             

磯の西側の海、高い波がある日など、電車で和深駅に停まると車窓からここでサーフィンらしきことをしているのを見かけます。富田に行った日も見かけました。でも実際に見ると大きな岩が所々に見え、サーフィンをするのは危ないのではないかと思えます。

                       

先には行けないので、帰りかけると浜と磯の合間に東の方へ通れるところがあったので、行ってみることにしました。

             

細い道ではない道を抜け、浜の前方に出てみると、去年の夏に見に行った船並港からの地磯が見えてきました。写真では見えませんが、独りで釣りをしている人が見えます。

             

どの箇所で何を釣っているのか、遠くからでは確認することが出来ませんが、あの磯で釣りをする人が居るのは分かりました。こちらからも向こうからも歩いては相互に歩いていくことは出来ないようです。でも船並港からより、和深の浜からの方が磯場には近いですね。

             

戻ろうと思って海側を見ていたら、岩と岩の間に釣り人がスッポリ入ったので写真を撮っておいてあげました。この写真で見ている限り、海は非常に穏やかなように見えます。

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あけましておめでとうございます

2013-01-04 05:00:00 | 大阪にて
新しい年が明け、今年もまた「1年が過ぎるのが早かったな」と思っているのですが、それは歳を取ったからなのでしょうか、友人も殆どの人がそう言います。それは忙しいからなのか、それとも暇でいるからなのか、いったい何時の頃から1年が経つのが早いと感じていたのか、何才頃、時の発つのは遅いと思っていたのか、皆さんはどう感じておられますか?

             

私は去年の4月からは働かなくてもよくなり(定年になったから働いてないだけですが)、その前の半年間も出勤日数120日の内40日だけ出勤していたので、それでもかなりヒマなのでした。その前までは毎日のように働いていたわけですが、そんなに忙しい職場でもなく、悠々と仕事をこなしてきたのですが、やはり1年は経つのが早かったのです。ところがそれ以前の40歳代のことを考えると、かなり忙しい思いで働いていたことが思い出されます。

             

当時の職場でこれ以上続けて働かされたら病気になるとの思いも、50歳で定年を選ばなかった理由の一つでもあります。何だか普通に読むと、そんなところにおったのなら50歳で定年した方が良かったんじゃないのかと思われそうですが、会社は50歳で定年を選ぶと、賃金は下がりますが今までの職場におれますよ、それも65歳まで働けますよと巧妙な言葉をかけていたのです。私にすればとんでもありません。当時の職場にはおりたくない、賃金も下げて欲しくない、65歳までも働きたくなかったのです。50歳になると誰もが私のように思ってるのだろうと思っていたら、羊の遺伝子ですね、誰もが悩んでいる筈なのに皆さん会社の甘い言葉に定年を選んでしまい騙されてしまった。みんなが私と同じように思い、同じように行動したら、このような制度自体潰れていた筈です。しかも会社が言った「いつまでも同じ職場に居れる」というのは、全くのウソなのでした。

             

これ以上この職場におったら病気になるとまで思えたその忙しい頃も1年経つのは早かったなぁ。学校に通っていた頃は1日、1週間、1ヶ月、一学期、1年が経つのがどうも遅かったような気がしているのですが(春休み・夏休み・冬休みなどは過ぎてしまうのが早かったけど)、就職してからはどうだったのか・・・なかなか思い出せません。

今年の年末は予想以上に長く串本に滞在してしまい、大阪に帰ったのが25日でしたから、年賀状を作るのが遅くなってしまいました。姫の家のパソコンには『筆まめ』というソフトを入れてくれていたので、そこで年賀状を作れば良かったのですが(事実去年の年賀状は住所録を作るために姫の家に持って行っていた)、100枚頼んだ年賀状自体が大阪を出発するまでには手に入らず、ましてプリンターも未だ買ってないので、長大な時間を無駄に費やしてしまったのです。

             

去年は旧のパソコン(壊れたと思ったが壊れてなかった)の『筆ぐるめ』ソフトで年賀状を作ったのを思い出して、そのパソコンを引っ張り出したのですが、どうしたことかパスワードが全く思い出せず、起動できません。家にあるもう一つのパソコンにはバージョンの高い『筆ぐるめ』が入っているので拝借できたのですが、一から住所録を入れ直さねばならず、何年か前の年賀状を引っ張り出してきて、時間をかけて住所を入れ直しました。いつもやり取りしていたのに今年は届かなかった人がたぶん居られると思いますが、そういういきさつがありますので、ご容赦願います。しかし1年使ってないとパスワードを忘れてしまうなんて、メモしてなかったということはごく簡単なパスワードだったと思うのですが、1年は早く経つ感じはしているけど、その割にはものは覚えてられないのですね。

             

写真は元日の7時10分からの10分間に撮ったもの、もう空は明るくなっていますが、太陽だけを撮ると闇の中から太陽が上がって行くようです。私が住んでいるところは古代は海でしたが、少し東へ行くと上町台地があり、おそらく昔の人はその台地から二上山の向こうから上がる太陽を眺めることもあったのでしょう。二上山は今は「にじょうざん」と呼んでいますが、昔は「ふたかみやま」と呼ばれて信仰の対象でした。太陽を左にずらせてその二上山を入れて撮ってみたのでした。

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