“野崎詣りは屋形船でまいろ”という詩がありますが、野崎観音が再興されたのが1616年、1682年に野崎参りが始まり、元禄・宝永年間(1688~1710年)に盛んになると、陸路だけではなく、水路を利用したお参りも行き来するようになります。当時の地図はどうであったかは分からないのですが、現在では丁度学研都市線が京橋~放出(はなてん)~徳庵~鴻池新田~住道(すみのどう)~野崎と走っており、線に沿うようにして寝屋川が流れています。つまり京橋の先の天満橋の八軒屋から船に乗って野崎まで船に揺られてきたのでしょう。現在ではJR野崎駅より1km西側を寝屋川が流れています。
西国三十三ヶ所巡りの観音さんを一堂に集めて1回で全て巡れるというずるいと言うか、便利な発想の観音堂を超えて本堂の方へ行くことが出来ます。この写真は正式なルートを辿らなかったので一周してきてから撮ったものです。先に南條神社への階段を登らなければ、先にここから拝観出来たのですが、私のように別段信仰心の無い人間はどちらから巡っても自分では関係無いと思っていますし、お寺の方も順番を守らないといけないとは言わないでしょう。門から入れと言うなら階段を登り詰めた所から、もう一つ小さな階段をわざわざ作るようなことをしなければ良いのです。
そもそも野崎観音は居眠り防止のご利益があるとか、何でも西国三十三ヶ所の順番を決める会合で慈眼寺の住職は居眠りをしていたので西国三十三ヶ所の中にも番外にも入れなかったという話が松鶴の得意な落語『野崎詣り』の冒頭で語られます。いやはや何ともユーモラスな発想ですが、天平勝宝年間にインドから来朝した婆羅門僧正が行基に「この地は釈迦が初めて仏法を説いたサールナートに似ている」と語り、行基が白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと言われているらしい、そんなウソみたいな話を紹介したのは、私が名古屋に赴任した時に会社から住まわされたのが名東区のサールナートという名のワンルームマンションだったから、ただそれだけの理由です。
でもサールナートって何?「触るなっ!と」言いたいマンションじゃないでしょうから、自分の住むマンションの名前の由来ぐらいは知っておくべきだと思い、調べてみたら釈迦が最初に仏法を説いたところであることが解ったのですが、それをマンション名にしてどうなるのだという思いがありました。ただそこから仏教との縁が生じたのか、このブログを綴るに当たってもよく神社仏閣を訪ね歩いていることにも表れているようです。未だにキリスト教やイスラム教に縁があったことはありません。世界での状況を見るにつけ好戦的な彼の宗教などと比べると、仏教の方が少しはマシかと思ったりもするのです。
こちらは仮羅漢堂、昭和26年(私の生まれる前年)山崩れで羅漢堂は壊れたとか、その修復のため募金を募っています。釈迦の16人の弟子(16羅漢)を祀ったもので、当地の戯れ歌に“野崎観音十六羅漢 うちの親父は働かん”と歌われているほど有名なのに、60年も仮のお堂に放置されていたことになります。
本堂の右、仮羅漢堂の上にあった江口堂という淀川の対岸・江口の里の長者の娘を祀ったお堂です。こんなお堂は他のお寺にはありません。平安時代末に難病にかかった江口の君がここの観音様にお参りすると治癒したとあり、婦人病にご利益があるとか。
このお堂の前にお染久松の塚があるという立て札があります。
矢印に沿って下って行くとありました。碑文には“・・・お染は思い久松の跡を慕うて野崎村・・・観音様にかこつけて逢いにきたやら南やら・・・”とありますが、お染・久松の浄瑠璃を私はよく知りません。
無料休憩所にはお染の文楽人形が置いてありました。何故久松のものが無いのか・・・それが不思議です。
江口堂の奥にあった薬師堂、お堂の数はこれで終わりですね。後ろには墓場がありますが、この霊場にはお墓があちらこちらにあります。
江口堂と薬師堂の間に合った緑の石の碑『念ずれば 花ひらく』如何にも観念論らしい文句です。
本堂には賓頭慮尊者の像もありました。今まで見てきた賓頭慮像は殆どが真言宗でした。このお寺は参道の途中でも見たように禅寺です。伊丹で見つけた慈眼寺も曹洞宗でした。でもここでは『不許葷酒入山門』の意味を示す文字は見られませんでした。野崎参りではお酒を飲んだ人も参詣しますからですかね。
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