一昨日、夢の中でブログのことを考えている自分がおかしいと書きましたが、こんなこともありました。夢の中で完全にブログの文章を考えているのです、いや、夢ではなくて寝ているのに考えているのです。はっとして起きてしまうとそこから、なんやかんや、あれやこれやと考えが続いていくので眠れないのです。これは目をつぶっているからなのか・・・目を開けていては、何処までも考えが纏まらないし、考え続けることが苦手な自分ですから、自分ではない私が考えているようなものです。こんなに追い詰められているのかと思うと、ストレスが溜まっているのかと思うようになり、鬱になりはしないかと、そこまでして拘束されたくないなぁと思いだしている今日この頃、この『ぼんくら放浪記』が終焉を迎えるのも時間の問題なのかも知れません。でも追い詰められているのも、ストレスが溜まっているのも、鬱になりはしないかなどは私が思っているだけ、実際にはネタは豊富では無いにしても、困らない現状であり、読んで下さっている後輩共に伝えなくてはならないことも残っています。
境内を拝観し終わったので今度は観音堂の奥にあるという見晴らし台へ行ってみることにしました。西側を展望したのが1枚目の写真です。天候を省けば四條畷神社へ行った時に撮ったものとよく似ていると思います。上に向かってハイキングコースがあり、石造九重層塔があるというのでもう少し登ってみることにすると、何と書いてあるのか分からない句碑であろうと思われる石、調べてみると芭蕉のものらしいのですが、句については何も記されていませんでした。
石組のあるこのような所にも出くわし、城の跡のような雰囲気です。1565年に信貴山城主の松永久秀と三好三人衆連合による永禄の変(将軍・足利義満暗殺)での兵禍により本尊を除いて全焼したとありますから、この地でもこの寺の僧兵が寺を守るのに立ちはだかったのかも知れません。
これが石造九重層塔です。慈眼寺のホームページにもこの層塔に及んでいる記事がありますが、そこでは昭和初期に最上層が失われ八層になっていると書かれています。しかしこの塔の前では昭和9年の室戸台風で倒壊、屋根石を失い八層に組み直されたが、昭和59年に地元の中学生二人が屋根石を発見して傍らに置いてあったそうで、平成17年に組み直したとされています。中学生が発見してから組み直すまでに放置した期間の長さも問題ですが、ホームページを作ったのが何時なのか(2008~のざき観音 all right reserved)という記述がありますから、組み直した時の方が早い筈、訂正すると言うより最初から間違った記述をして放置しているのですね。
この層塔ですが、礎石に刻まれた金石文によると“永仁2(1294)年に沙弥八蓮と秦氏によって造立された”とあり、北河内最古の層塔であるという、発見したという中学生は当時14歳だったとしても今や四十代半ば、こんな貴重なものを見つけたのですから、名前を残しておいて欲しいものです。
ここから上へとハイキングコースがありましたが、何処に着くのかよく分からなかったし、右側に吊り橋という案内があったのでそちらを選択、こちらも何処へ辿り着くかは分かりませんでしたが、下っていくので遠くには行かないだろうという想像です。案の定、慈眼寺内の墓場からお染久松の塚に到着したのでした。
こちらは南西方向、ずっと晴天が続いていたのにこの日はあいにくの曇り空、次の日も晴天だったので、私の行動した日は天気が芳しくないという傾向が正月から出ていますが、去年は雨が多かったので、それよりはマシかと思っています。
こんな風に写っている風景も晴天に写ることが可能になるデジカメがあるらしい。しかしそんな機能が要るものだろうか、曇りは曇り、晴れは晴れでいいではないですかと私は思うのです。決しておカネが無いから強がりを言っているのではありません。
慈眼寺の遠景、左から本堂、江口堂、羅漢堂と並んでいます。正月なのに参拝客はあまり居ません。野崎詣りというのは5月初旬の頃のこと、東海林太郎という人が歌った野崎小唄には“野崎詣りは屋形船でまいろ 何処を向いても菜の花ざかり・・・”という詩がよく表しています。直立不動で歌っていた太郎さんを昭和の頃はテレビでちょくちょく見たことがあり、その姿に誠実そうだと思っていたのですが、実は喰わせ者かも知れません。『麦と兵隊』『愛国行進曲』『起源2600年』知らないところでは『戦場初舞台』『軍国舞扇』こんな歌を歌っていたのです。軍の命令か要請かは知りませんし、どのような歌なのかもよく知りませんが、タイトルを見ただけで戦争を美化し戦場に駆り立てるような歌ばかりではありませんか。こんな歌を歌わされるくらいなら歌手など辞めてしまうほどの気概が必要だったのではないでしょうか。
5月の野崎詣りのシーズンになると駅からの参道がテキヤで埋まるような賑わいを見せ、サクラは終わっているものの、ツツジやフジの花が咲き乱れるそうです。
境内を回って門を潜り、外へ出ます。駅からのまっすぐな坂道を登り、階段を上がって、私のように小さな階段を上がらずに(南條神社へは向かわず)進むとこの門に辿り着くのです。これが正門なのかどうかは分かりません。もう一つ変わった形の門があったので、その門を観に行きます。
途中スイセンの花が咲いており、樫野埼の灯台を思い出しました。
これがもう一つの門、慈眼寺には門が二つあり、先のが正門ならこちらは楼門ということになります。ここでも左側通行ですが、私は右側を登りました。上まで行かずに途中で降りてこようと思っていたから。
でも結構上まで登らなければなりませんでした。何故なら、何処かに飾ってあった絵にこの門から慈眼寺の本堂が見えるようになっていたから、それを見たかったのですが・・・残念、本堂の全体像は見ることは出来ません。絵は作者のイメージで描くことが出来ますが、写真は見える範囲しか写せません。