ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

孫文記念館

2009-11-18 05:00:00 | 神戸にて
明石海峡大橋の東側にあった孫文記念館、ぐるっと一周すると大橋との2ショットが可能な場所がありました。

孫文は中国辛亥革命の指導者として有名ですが、辛亥革命が勃発したのが1911年ですから、再来年には革命100周年の記念事業がここで開催されるかも知れません。

             

孫文記念館の字の下に(移情閣)とあり、何やら孫文が情熱の移り変わりが激しい人物ででもあったかのような錯覚に陥りそうな命名ですが、この八角の建物の窓から、六甲山や瀬戸内海、淡路島に四国などが、季節の移り変わりと共に見せる風情があるところから名付けられたようです。

                  

辛亥革命というのは、当時東南アジア諸国が欧米の強国に植民地になっていた頃、清と呼ばれていた王朝が欧米列強に干渉され、好き放題にされている、一方では軍閥と呼ばれる豪族が自分たちの勢力を伸ばそうと日本の戦国時代さながらの様相を呈している、そんな祖国を憂う明治の末ごろ日本で留学していた知識人や若い軍人が起こした新国家建設のための運動でした。

孫文や蒋介石などの軍が軍閥を破り、中国の統一が進んでくると、満州の権益を守りたい日本国にとっては一大事たったのです。

                  

日本国は、富国強兵路線で日清・日露戦争に勝利し、明治維新後40年を経て軍事大国にのし上がり、清国から満州の権益を確保すると、多くの日本人を満州に移住させ、ロシアの南下を理由に軍隊を満州に駐留させます。そのことが原因で、中国での反日感情の高まりがあったのだと思うのです。

              

日本軍は満州の権益を守るため、張作霖という軍閥の親玉を手なずけ、中国国民党軍からの攻撃に対し後押しするのですが、そのことによって調子付いた張作霖が目障りになり始め、張作霖を列車もろとも爆破して殺してしまいます。日本国はもちろん日本軍がやったとは一切認めません。

爆薬を仕掛けたのはアヘン中毒の中国人二人だったのですが、その二人も口封じのために殺されます。しかしその二人が前日「でっかいことをやるんだ」と話していたことが判明し、日本国にとって不利な状況は続くのです。
でも日本国は知らぬ存ぜぬで通しました。今となっては書簡などの証拠もあり、誰が指示したか、誰が中国人を使ったのかも判っています。

             

このような状況のもとで日中戦争は始まっていき、日本国の没落が始まるのでした。
あまり孫文や記念館とは関わりの無い文章になってしまいましたね。

             

この碑は私が訪れたときは工事中、立ち去るときは完成していました。

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