「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・05・11

2005-05-11 06:45:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「選挙前の代議士は、もと代議士と、前代議士の二種に分けられる。私は戯れに、人類を二種に分ける。『もと人類』と『類人類』の二種である。
 もと人類とは、雨にも風にも伝染病にも、生残る人間のことで、類人類とは、雨にも風にも吹けばとぶよな亜人間――人に亜(つ)ぐ人間のことである。天然痘はおろか、はしかにも死ぬ子が新薬のおかげで助かるのは、本人および隣人にとって幸か不幸か、考え直していいのではないか。
 前にも書いたが、たとえば、上り列車が通ったからと、踏切を突っきって、下り列車にひかれたとは、よく聞く事故だが、上りが通過したら、あるいは下りも来るかと、うかがうのがもと人類だろう。
 狼はがつがつ食べながら、常に背後に用心している。うしろからあんぐり、今度は自分が食われるかもしれないからである。
 新薬プラス社会保障やら何やらで、むやみに亜人間を保護するのは、考えものである。会社員であれ労働者であれ、同僚のだれが一人前で、だれが半人前か、あるいはそれ以下の邪魔者か、口には出さぬが知っているはずだ。
 一人前の人間は、今は三人に一人、五人に一人あるかなしである。その一人が、あとの二人を、または四人を支え、脂汗たらして養って、さりとてそれだけの給金がもらえるわけではないのである。むろん、養われているものは、そんなこととは知らない。
 知らないのは、知りたくないからで、悪貨は良貨を駆逐するそうだから、もと人類が結束して、類人類を追っぱらおうとしてもむだである。とうてい衆寡敵しない。
 組合や結社は衆だから、想像力の欠如や無能を理由に、やめさせることはできない。できれば、休まず遅れず働かずを信条とする勤め人のたぐいは解雇され、結社は瓦解してしまうから、よしんば委員長が抜群の人物であったにしても、衆にくみして寡を追うことは明らかである。
 かくて天下は、類人類のものである。」

  (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
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2005・05・10

2005-05-10 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「記憶することと創作することとは、ほとんど関係がない。あっても薄弱で、博覧強記の人、必ずしも創造力ある人ではない。
 本というものは、晩めしの献立と同じで、読んで消化してしまえばいいものである。記憶するには及ばないものである。
 誰が去年の今月今夜の献立を記憶しているだろう。馳走は食べて血となり肉となればたりる。本も同様、食べて忘れ去っていいものだと、勝手ながら私は思っている。
 その能力がないくせに、何もかも記憶しようとするのは欲ばりである。忘れまいとするのはケチである。」

  (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
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2005・05・09

2005-05-09 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「我々が腐敗しないで、官公吏や議員たちが、ひとりで勝手に腐敗するわけはない。彼らは我らの鏡である。同時代人というより、同一の人物である。ひとり片っぽばかりがダラクすることは稀である。双方共にダラクして、ダラクははじめて真のダラクとなる。」

 「マジメ人間というものは、自分のことは棚にあげ、正論を吐くものである。彼らはあたりを見回さない。見回して考えない。考える前に口走る。それはすべて新聞の口まねである。」

 「いついかなる時代でも、この世はウソで固めたところだと、私は思っている。それはそれでいい。けれども、ものにはほどというものがある。こんなにウソで固めた時代は、有史以来なかったのではあるまいか。ここまで固めてはいけないのではないか。
 それもこれも、わが税制のゆえである。これを改めない限り、区々たるモラルは論じてもはじまらない。論じてもむなしい。モラルは税制の結果だとは、すでに言った。個人が法人に変装したのは、国が強いたからである。私は我と我が身をかえりみて、わが半身が法人と化しつつあることを認めないわけにはいかない。
 もとの個人にして返せ、と言いたい。」

   (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
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2005・05・08

2005-05-08 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「たとえば昭和初年、私がまだ子供だったころ、新聞は毎日財界と政界の腐敗を書いたあんまり書くから、読者は信じたいっそ殺してしまったらと、若者たちは井上準之助を、高橋是清を、犬養毅を、その他大勢を殺した
 古いことでお忘れなら、吉田茂首相を思いだして頂く。彼ならまだご記憶だろう。
 彼は歴代宰相のうち、最も評判の悪い人だった。新聞は三百六十五日、彼の悪口を言った。しまいには、犬畜生みたいに言った。カメラマンにコップの水をあびせたと、天下の一大事みたいに騒いだ。捕物帖の愛読者だと、その教養の低きを笑った。ついには角帯をしめ、白足袋をはいて貴族趣味だと、難癖をつけた。不吉なことを言って恐縮だが、当時彼がテロにあわなかったのは僥倖である。
 わが国の新聞は、明治以来野党精神に立脚しているという義のためなら権威に屈しないという自分で言うのだから、眉ツバものだが、読者は反駁するデータを持たないほんとだと思うよりほかない
 けれどもこれは、悪口雑言である。人をほめて面白く読ませるのは至難である。悪く言って面白がらせるのは容易だから、易きについたのだと私は思っている。
 どんな愚かものでも、他人の悪口だけは理解する。だから、柄(え)のないところへ柄をすげて、読者に取入って、それを野党精神だと自らあざむくのである。」

  (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
 
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2005・05・07

2005-05-07 06:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「テレビは巨大なジャーナリズムで、それには当然モラルがある。私はそれを『茶の間の正義』と呼んでいる。眉ツバものの、うさん臭い正義のことである。」

 「すわると場あとる――と、戦前の子供たちはひそひそ笑ったものだ。ふとった中年の婦人のことで、こころは、電車やバスですわると、二人分の席を占めるというほどのことである。このたぐいに、『押すとあん出る』というのがある。大福かあんパンのことかと思う。テレビの朝のショーを見て、久々に私はこれを思い出した。泣くと思うと、はたして泣く。笑うと見ると、はたして笑うから、押すとあん出るを思い出したのである。」

 「我々の創造力は貧しく、モデルがなければ何も出来ない。テレビはラジオを手本にした。ラジオは新聞を手本にした。すなわち、本家本元は新聞で、朝のショーは新聞の紙面そっくりである。
 政財界の腐敗を論じて、説教臭あるお話は「社説」に似ている。当人又は目撃者が登場するニュースは、迫真の社会面である。利息の分離課税についての解説は、さしずめ経済欄である。歌と踊りは演芸欄で、随所に出没するコマーシャルは、広告欄に当ろう。ついに身上相談まである。」

 「人間万事まねの世の中だと、再び言わなければならないのは残念だが、形をまねれば心も似る。テレビが庶民ぶるのは新聞の模倣である。」

 「茶の間の正義、茶の間のウソは新聞がモデルである。」

  (山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
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浮生半日の閑 2005・05・06

2005-05-06 06:30:00 | Weblog
  今日の「お気に入り」は、漢詩を一篇。


  題鶴林寺         鶴林寺に題す   李渉

   終日昏昏醉夢間      終日 昏々として睡夢の間
   忽聞春盡強登山      忽ち春の尽くるを聞き 強って山に登る
   因過竹院逢僧話      竹院を過(よ)ぎるにより僧に逢って話すに
   又得浮生半日閑      又得たり浮生半日の閑


  (現代語訳)

   一日じゅう、酔生夢死の言葉さながら何もせずぼやっと過していたが、

   ふと春はもうおしまいだなという声を聞いて驚き、むりに気をひき立たせて山に登っていった。

   たまたま竹林寺を通りかかったので、立寄って坊さんの話を聞いたところ、

   気持がすっとして、この束の間の人生のなかでひとときのんびりした半日を過したことであった。



  読み下し文、現代語訳ともに、中野孝次さん(1925-2004)の著書「わたしの唐詩選」(文春文庫)からの引用です。

  結句である「又得たり浮生半日の閑」によってこの詩は昔から愛誦され、芭蕉の句「半日は神を友にや年忘レ」や

 蕪村の句「半日の閑を榎やせみの声」は、この李渉の詩を念頭に置いたものだそうです。
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たのしみは 2005・05・05

2005-05-05 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、幕末の歌人 橘曙覧(たちばなあけみ 1812-1868)の歌です。

 「若葉さすころはいづこの山見ても 何の木見ても 麗しきかな」

 「たのしみは 珍らしき書(ふみ) 人にかり 始め一ひら ひろげたる時」

 「たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどひ 頭ならべて 物をくふ時」

 「たのしみは まれに魚煮て 児等皆が うましうましと いひて食ふ時」

 「たのしみは そぞろ読みゆく 書の中に 我とひとしき 人を見し時」

 「たのしみは 意(こころ)にかなふ 山水の あたりしづかに 見てありくとき」

 「たのしみは 書(ふみ)よみ倦める をりしもあれ 声知る人の 門たたく時」

 「たのしみは 客人(まらうど)えたる 折しもあれ 瓢(ふくべ)に酒の ありあへる時」

 「歌よみて 遊ぶ外なし 吾はただ 天(あめ)にありとも 地(つち)にありとも」

 「幽世(かくりよ)に 入るとも吾は 現世(うつしよ)に 在るとひとしく 歌をよむのみ」


 四つ目の歌は、2005年3月10日付け「小泉内閣メールマガジン第179号」の中で小泉首相が引いておられました。
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春曉 2005・05・04

2005-05-04 06:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、孟浩然(689-740)の春眠暁を覚えずの詩と読み下し文です。

   春曉      春暁

    春眠不覺曉   春眠 暁を覚えず
    處處聞啼鳥   処々 啼鳥を聞く
    夜來風雨聲   夜来 風雨の声
    花落知多少   花落つること多少なるを知らんや


 詩人の三好達治(1900-1964)がこの詩に付けた訳があるそうです。

   春の暁

    このもかのもにとりはなき
    はるのあしたはねぶたやな
    よつぴてひどいふりだつた
    いよいよはなもおしまひか


 みずからこの訳詩で失われたものは何かと問い、三好達治は「それはまづ原詩に溢れてゐる豊潤な感覚、色彩感覚」であり、「原詩はいかにもみづみづしく、富麗に、一種なまめかしく出来てゐる」と言ったそうです。作家の中野孝次さん(1925-2004)がその著書「わたしの唐詩選」(文春文庫)の中で紹介されているものです。
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2005・05・03

2005-05-03 06:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「ある晩、私は泣いてみた。もうなん十年も泣かないから、泣き方を忘れていはしまいかと、はじめ私は危ぶんで、ひとり声をしのんで泣いてみた。やがて思い出して、高く低く、次第に真に迫って泣いた。」

  (山本夏彦著「毒言独語」所収)



 「私は夜誰もいないはずのわが家に、思い切って電話をかけてみることがある。まっくらな茶の間で、それはながくむなしく高鳴っている。誰か電話口に出やしまいかと息づまるような一瞬である。そして誰も出ないのに安堵してのろのろと帰るのである。」

  (山本夏彦著「不意のことば」所収)
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2005・05・02

2005-05-02 06:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「江戸時代を私は明治大正時代より、また現代よりよく出来た時代だと思っている。戦後は『平和』が第一で、国家や国民の誇りより平和のほうをとるという説がもっぱらである。江戸時代はその平和が二百なん十年続いた時代で、こんなに長く続いた時代は世界にもないだろう。それだけでも自慢していいのに、江戸時代を暗黒時代のように言うものが多いのは奇怪である。」

 「私は文化の断絶は『明治』におこったとみている。いわゆる文明開化は東洋を捨てて西洋を学ぼうとして、皮相だけを学んで根本に及ばなかったから、その両方を失ったとみている。」

  (山本夏彦著「『戦前』という時代」所収)
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