江戸幕府が鎖国を止めて開国にしたとき活躍したのがジョン万次郎。
彼は14歳の時捕鯨船に乗って嵐にあい遭難してアメリカ人のホイット・フィールド船長に助けられます。
当時の日本は鎖国状態このまま帰ると罪に問われるかもとアメリカに渡ります。
そこで彼は英語だけでなくアメリカのいろんなものを吸収し学びます。
アメリカの生活にも慣れてきたときに外人が日本に漂流したら対応が悪いと言われます。
この時彼の心に日本を開国させたいという気持ちが生まれます。
今ならあらゆる情報があるのでこの国はこんなところと知識があります。
当時14歳でいきなり全く知らない言葉も通じないところで生きていくというのがすごいなあと思います。
とても自分ならできないでもそうしなければ生きて行けないとなったらできるのでしょうか?
18~19世紀の間に記録に残っているだけで日本の船が遭難して外国の船に助けられたというのが30件、その中でジョン万次郎以外で有名なのが浜田彦蔵(のちの日本初の新聞を作った人)ロシアに渡った大黒屋光太夫など一般の人たちです。
日本に帰りたくなった万次郎、まず琉球にたどり着きます、そこでいろいろお上から取り調べられ、次に薩摩、長崎とでようやく土佐に着いたのが琉球上陸してから1年後、いかに幕府が密航した者に対して厳しかったのかがわかります。
帰国した万次郎は地元で英語を教えたり、アメリカでのことを書物にまとめます、それを読んで影響を受けたのが坂本竜馬で船中八策もこれを参考にしたと言われています。
そして万次郎が活躍するときがやってきます。
ペリーが浦賀沖に黒船4隻でやってきて日本に開国を迫ります。
回答を1年後にと日本を後にしたペリー、幕府は開国するかしないかで意見は分かれ、アメリカについて何の情報もないのでいい案は浮かびません。
そこへジョン万次郎を推薦する話がでてきて江戸に呼ばれます。
万次郎は老中阿部正弘に「アメリカは我が国とのよしみを結びたいのだ」と開国の必要を説きます。
ここで交渉時の通訳として幕臣にとなるはずが、水戸の徳川斉昭によってそれはかなわぬこととなります。
万次郎がアメリカに恩義を感じているのでアメリカに有利なように通訳するのではないかというのが言い分です。
けれどアメリカの記録には交渉中万次郎は姿を見せず隠れて通訳していたと書かれていたそうです。
開国するしないと右往左往しているのが今と似ていなくもなく、幕府はとりあえずこの問題を不平等な条約ではあるけれど結んだわけです。
こうして結ばれた日米和親条約、漂流民の保護、捕鯨船の補給のための港を開くなど万次郎が願っていた開国が実現されました。
ここまでは教科書に載っていたり、幕末の大河ドラマならよくあることで皆さんも知っているのですが、明治になって万次郎はアメリカにわたりお世話になったホイット・フィールド船長に逢いに行きます。
そして子供、孫と交流は続きます。
それが太平洋戦争で中断しますが、終戦後万次郎の子孫のところへホイット・フィールド家の使者が無事を確認しに訪れてまた交流が復活し現在も続いているそうです。
こちらではジョン万次郎というのは遭難してアメリカに渡った人というぐらいですが、向こうでは図書館に彼の本が置かれているぐらいポピュラーなのだそうです。
14歳で異国の地でたった一人で生きてきたその生き様が子供たちの心をとらえたのですね。
逆輸入という形で入ってきて、彼についてもっと考えてもいいかもしれませんね。
彼は14歳の時捕鯨船に乗って嵐にあい遭難してアメリカ人のホイット・フィールド船長に助けられます。
当時の日本は鎖国状態このまま帰ると罪に問われるかもとアメリカに渡ります。
そこで彼は英語だけでなくアメリカのいろんなものを吸収し学びます。
アメリカの生活にも慣れてきたときに外人が日本に漂流したら対応が悪いと言われます。
この時彼の心に日本を開国させたいという気持ちが生まれます。
今ならあらゆる情報があるのでこの国はこんなところと知識があります。
当時14歳でいきなり全く知らない言葉も通じないところで生きていくというのがすごいなあと思います。
とても自分ならできないでもそうしなければ生きて行けないとなったらできるのでしょうか?
18~19世紀の間に記録に残っているだけで日本の船が遭難して外国の船に助けられたというのが30件、その中でジョン万次郎以外で有名なのが浜田彦蔵(のちの日本初の新聞を作った人)ロシアに渡った大黒屋光太夫など一般の人たちです。
日本に帰りたくなった万次郎、まず琉球にたどり着きます、そこでいろいろお上から取り調べられ、次に薩摩、長崎とでようやく土佐に着いたのが琉球上陸してから1年後、いかに幕府が密航した者に対して厳しかったのかがわかります。
帰国した万次郎は地元で英語を教えたり、アメリカでのことを書物にまとめます、それを読んで影響を受けたのが坂本竜馬で船中八策もこれを参考にしたと言われています。
そして万次郎が活躍するときがやってきます。
ペリーが浦賀沖に黒船4隻でやってきて日本に開国を迫ります。
回答を1年後にと日本を後にしたペリー、幕府は開国するかしないかで意見は分かれ、アメリカについて何の情報もないのでいい案は浮かびません。
そこへジョン万次郎を推薦する話がでてきて江戸に呼ばれます。
万次郎は老中阿部正弘に「アメリカは我が国とのよしみを結びたいのだ」と開国の必要を説きます。
ここで交渉時の通訳として幕臣にとなるはずが、水戸の徳川斉昭によってそれはかなわぬこととなります。
万次郎がアメリカに恩義を感じているのでアメリカに有利なように通訳するのではないかというのが言い分です。
けれどアメリカの記録には交渉中万次郎は姿を見せず隠れて通訳していたと書かれていたそうです。
開国するしないと右往左往しているのが今と似ていなくもなく、幕府はとりあえずこの問題を不平等な条約ではあるけれど結んだわけです。
こうして結ばれた日米和親条約、漂流民の保護、捕鯨船の補給のための港を開くなど万次郎が願っていた開国が実現されました。
ここまでは教科書に載っていたり、幕末の大河ドラマならよくあることで皆さんも知っているのですが、明治になって万次郎はアメリカにわたりお世話になったホイット・フィールド船長に逢いに行きます。
そして子供、孫と交流は続きます。
それが太平洋戦争で中断しますが、終戦後万次郎の子孫のところへホイット・フィールド家の使者が無事を確認しに訪れてまた交流が復活し現在も続いているそうです。
こちらではジョン万次郎というのは遭難してアメリカに渡った人というぐらいですが、向こうでは図書館に彼の本が置かれているぐらいポピュラーなのだそうです。
14歳で異国の地でたった一人で生きてきたその生き様が子供たちの心をとらえたのですね。
逆輸入という形で入ってきて、彼についてもっと考えてもいいかもしれませんね。
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