龍野城の本城は、背後の山の頂きにあったのだが、平和な江戸時代になって、
この丘に「平城」として存在していたものだった。
正面玄関の広間。
その直ぐ左の部屋は、様式の明治時代を思い出させる会議室。
渡り廊下から見る、手入れの良い庭。
奥の間には、お殿様がいても不思議でない部屋である
解説によれば、花鳥風月の絵画と、城主脇坂老中の時代をが復元されている。
襖額があった。
龍野生まれの三木露風作詞の「赤とんぼ」が街のシンボルになっている。
山田耕筰作曲のメロデイーと共に街のシンボルになっている。
左:中庭の枯山水。 右:茶室があった。
この書院のような、殿様の居る城の外の庭で、茶室の「待合所」を見つけた。
龍野城に関する資料・街のふるさと資産などを集めた展示物が保存されている。
さて、龍野城主を200年務めた殿様「脇坂氏」の略歴が出ていた。
その祖は湖北「賤ヶ岳」で柴田勝家と戦った、豊臣秀吉方の七本槍の一人、脇坂安治であった。
戦国時代、日本各地を転々と移動し、武勲を上げていたのでした。
明治維新まで続いたことも、治世が安定していたのでしょうね。
この丘に「平城」として存在していたものだった。
正面玄関の広間。
その直ぐ左の部屋は、様式の明治時代を思い出させる会議室。
渡り廊下から見る、手入れの良い庭。
奥の間には、お殿様がいても不思議でない部屋である
解説によれば、花鳥風月の絵画と、城主脇坂老中の時代をが復元されている。
襖額があった。
龍野生まれの三木露風作詞の「赤とんぼ」が街のシンボルになっている。
山田耕筰作曲のメロデイーと共に街のシンボルになっている。
左:中庭の枯山水。 右:茶室があった。
この書院のような、殿様の居る城の外の庭で、茶室の「待合所」を見つけた。
龍野城に関する資料・街のふるさと資産などを集めた展示物が保存されている。
さて、龍野城主を200年務めた殿様「脇坂氏」の略歴が出ていた。
その祖は湖北「賤ヶ岳」で柴田勝家と戦った、豊臣秀吉方の七本槍の一人、脇坂安治であった。
戦国時代、日本各地を転々と移動し、武勲を上げていたのでした。
明治維新まで続いたことも、治世が安定していたのでしょうね。
でも様式の部屋にはちょっと驚きました
城の機能が、山上から麓に降りてきて、どこか明治維新の香りがする建築物ですね。