カエデの紅葉もいいが、今年は桜の紅葉が気になっている。真っ赤な葉は、その光沢も見事である。

蜘蛛が日向ぼっこしている。

この寺が渡海する基地となる。即ち、生前の最後の姿を見られる寺である。

普通は、熊野三山巡りと、この補陀洛山寺をそれに加える。案内図の右上に国道42号線を行けば新宮速玉大社であり、左下の中辺路街道を左に進めば熊野那智大社である。
今回の南紀の旅も、この補陀洛山寺で渡海の船が再現されたと聞いていながら、いつも素通りをしていたし、少し車で入りにくい南側の参道を見逃してしまっていた。それで、今回はゆっくりと拝見しようとした。
ここに着いてみると、今回は何と車で入りやすい、しかも立派な駐車場まで完備されていた。

左:道しるべの石碑、「左ほだらく山」とある。
寺の境内におばあさんがベンチに坐っていた。そして話し始めた。昔、この石の姿がよいと言って、家に石を持って帰った人がいたと言う。その後、家に良くない事が続き、自分も病気になったという。それで、石をこの位置に戻すと病は治ったという。
よく喋るおばあさんであった。
右:中辺路街道沿いにある案内板。以前は確かこの辺は崖であったような気がする。

本堂には、西洋の外人の坊さんがいた。いい日本語で親切だった。

平成5年に、曼荼羅図にあった絵から、渡海船を再現したものである。こんな船に乗って海に出て行き、浄土への旅についた。僅かな水と僅かな食料を持って大海原に出て行った。捨身の思想である。即身仏と共通していると思う。
四方に鳥居をつけ、中に自分がいて経文を読む。南海の浄土に着く為でもあっただろう。
平家物語では、平維盛(これもり)が渡海をしている。平清盛の直系の孫である。
彼は、富士川の合戦・倶利伽羅峠の合戦では総大将として敗軍の将となっている。
また、木曾義仲に追われて都落ちをするときに、都に残る妻子との別れに維盛は時間がかかり、他の兄弟たちに出発を催促されている。心が優しいのである。
西国落ちした平家が屋島から福原にまで上ってきて、一の谷の合戦の時は、屋島からの出発が遅れ、須磨までは来る事がなかった。
彼は合戦を厭い、屋島を抜け出し、高野山に上がり、滝口入道の導きを受け、やがて南紀勝浦に向かい、ここ補陀洛山寺から渡海をしたのである。
滝口入道は出家する前には、横笛と言う娘と話題を作った斎藤時頼である。

左:船のともから見ると、奥の板の間で横になる。
右:補陀洛山寺の隣りには神社がある。神仏混淆の名残りである。「くまのさんしょだいじんしゃ」と言う。

ここは熊野古道に沿っており、浜の宮王子というが、境内に巨大な楠木がある。幹が2本に見えるが、実は一本である。これまで見たのでは最大のものでした。

祭神のトップは「けつみのみこおおかみ」でスサノオノミコトのことである。

「ははそ」モミジである。

蜘蛛が日向ぼっこしている。

この寺が渡海する基地となる。即ち、生前の最後の姿を見られる寺である。

普通は、熊野三山巡りと、この補陀洛山寺をそれに加える。案内図の右上に国道42号線を行けば新宮速玉大社であり、左下の中辺路街道を左に進めば熊野那智大社である。
今回の南紀の旅も、この補陀洛山寺で渡海の船が再現されたと聞いていながら、いつも素通りをしていたし、少し車で入りにくい南側の参道を見逃してしまっていた。それで、今回はゆっくりと拝見しようとした。
ここに着いてみると、今回は何と車で入りやすい、しかも立派な駐車場まで完備されていた。


左:道しるべの石碑、「左ほだらく山」とある。
寺の境内におばあさんがベンチに坐っていた。そして話し始めた。昔、この石の姿がよいと言って、家に石を持って帰った人がいたと言う。その後、家に良くない事が続き、自分も病気になったという。それで、石をこの位置に戻すと病は治ったという。
よく喋るおばあさんであった。
右:中辺路街道沿いにある案内板。以前は確かこの辺は崖であったような気がする。


本堂には、西洋の外人の坊さんがいた。いい日本語で親切だった。

平成5年に、曼荼羅図にあった絵から、渡海船を再現したものである。こんな船に乗って海に出て行き、浄土への旅についた。僅かな水と僅かな食料を持って大海原に出て行った。捨身の思想である。即身仏と共通していると思う。
四方に鳥居をつけ、中に自分がいて経文を読む。南海の浄土に着く為でもあっただろう。
平家物語では、平維盛(これもり)が渡海をしている。平清盛の直系の孫である。
彼は、富士川の合戦・倶利伽羅峠の合戦では総大将として敗軍の将となっている。
また、木曾義仲に追われて都落ちをするときに、都に残る妻子との別れに維盛は時間がかかり、他の兄弟たちに出発を催促されている。心が優しいのである。
西国落ちした平家が屋島から福原にまで上ってきて、一の谷の合戦の時は、屋島からの出発が遅れ、須磨までは来る事がなかった。
彼は合戦を厭い、屋島を抜け出し、高野山に上がり、滝口入道の導きを受け、やがて南紀勝浦に向かい、ここ補陀洛山寺から渡海をしたのである。
滝口入道は出家する前には、横笛と言う娘と話題を作った斎藤時頼である。


左:船のともから見ると、奥の板の間で横になる。
右:補陀洛山寺の隣りには神社がある。神仏混淆の名残りである。「くまのさんしょだいじんしゃ」と言う。


ここは熊野古道に沿っており、浜の宮王子というが、境内に巨大な楠木がある。幹が2本に見えるが、実は一本である。これまで見たのでは最大のものでした。

祭神のトップは「けつみのみこおおかみ」でスサノオノミコトのことである。

「ははそ」モミジである。