思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

人生の意味

2005年06月02日 | Weblog
今日は外は雨、気分も沈みがちなので。

人生にどんな意味があるのか、そんなことについて突き詰めて考えてみたことはない。
というより殆ど考えたこともない。
動物はそんなことは考えて生きてはいないだろうし、人間も真剣に考える人は限られているだろう。
どうでも良いことといえばそれまでだが。

そもそも「人生の意味」って一体何のことか。
人は必ず死ぬわけで、僅かの期間生きて消えてしまうことが定められているのだから、どんな生き方をしようと私個にとっては意味などないともいえる。
意味がないと結論付けた人は生きる意味がなくなる。
平凡な人はそんなことを考えないだろうから、余程の苦しみ、悲しみ、絶望の結果生きる意欲を失うのだろう。自殺する人はそんな風に考えた人だろうか。
ネットで自殺志願に応募し集団自殺する人々もいる。
著名な作家でも自殺する。考えすぎた結果、疲れきって楽になりたかったのだろうか。大抵は書くネタがなくなって書けなくなり、世間の評価もがたがたになって絶望するのだろう。

生きることは本能的なもので、大抵の動物はというより生命は偶然とはいえ生を与えられたら本能的に生を全うしようする。人間も同じだ。
生きる本能は地球上の生命が等しく持っている。
死ぬまで生きていることは生命体の宿命のようなものだろう。遺伝子を子孫に引継ぎながら人類生命体として進化を遂げてゆく。植物も精一杯花を咲かせ、時期が来れば種子を残して枯れてゆく。単純に考えればそんなとこだ。

そう考えるならば、個としては主体的に生きるべきだ。
人生の意味は、生を受けた時点で等しく与えられている。平等にとはいえないが、とにかく生命としては誕生したわけだから、望むとおりに他の個とともに生きればいい。
怠惰からも脱却できる。絶望からも這い上がればいい。悲しみもいつかは癒される。生命とか生きることはやはり本能だと思う。生きるように意味づけられている。

主体的に生きてみることは、人間に与えられた特権だ。
流されるままに生きることはあまりにも「もったいない。」
過去は済んだことだが、過去と決別するわけには行かない。過去を踏み台にして生きていくしかない。過去の集積が現在ある私である。私にしかできなかった経験体験・苦悩でもいい、すべて他人が経験し得なかった貴重な人生の刻印であり、それを生かさないのは「もったいない。」

とか考えている雨の日の私であった。