思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

カラオケホール歌謡家族

2007年04月30日 | Weblog
今日は「歌謡家族」というカラオケのお店に行ってきました。
車で40分程のところです。

店の中は大きなステージがあって客席は80人分あります。
照明がとても凝っていて次々に変化させることが出来ます。
ステージに立つと照明を浴びます、ステージから暗い客席は殆ど見えません。

店が出来てから10年くらいになるそうでカラオケ仲間では有名な店です。
プロといってもいいような方々が大勢おります。

今日は大型連休の最中なためか客は10数人でした。
3時頃から9時過ぎまで女房も私も6曲歌えました。

私は、夢落葉・雨の旅人・千の風になって・南部酒・哀愁・のぞみ(希望)の6曲です。
舞台衣装に身を包んで歌っている人が多い中、私はラフな格好でちょっと場違いだったかも。

都をどり

2007年04月28日 | Weblog
  京都の祇園甲部歌舞練場で「都をどり」を観てきました。
  女房と帰省した娘の3人で。
  写真は「をどり」が始まる前に、別室でお茶をいただいた時のものです。

  舞妓さんがお手前するわけではなく、座っているだけです。
  実際のお茶は裏方さんが奥からどんどん運んできます。
  お茶のときの菓子皿は記念に持って帰れます。

  踊りは舞台装置の数々のすばやい転換が見事でした。
  舞台右手の袖には三味線を弾く女性が10人ほど並びますが、年配の女性が多い。
  その中にエモイワレヌ50歳前後の女性が一人目につきました。
  私の席から近いので殆ど半分そちらの方ばかり見てました。
  場内は撮影禁止なので返す返すも残念。
  

  

ケースワーカー

2007年04月26日 | Weblog
今日は市が主催する90分ほどの講演を聴きに行った。
講演のタイトルは「地下足袋の詩」、講師は入佐(いりさ)明美さん。

私は講師がどんな人か全然予備知識もなし、講演の内容も同じく予備知識なし。
講師として紹介されたのは、パイプ椅子にこじんまりと座っていた「おばちゃん」だった。
彼女の肩書きは「看護士・ボランティアケースワーカー」
24歳のときから大阪の釜ケ崎で28年間ボランテイアでケースワーカーをしてきた人だと分った。
今は釜ケ崎に事務所を設けて
「大阪建設労働者生活相談室、ボランティア相談員」
となっている。

よく質問されるのが
「28年間もボランティアだなんて生活費はどうなってるの」
だという。

最初の3年間は、彼女が看護士として病院に勤務していたときの貯金で暮らし、次の7年間は「入佐明美を支援する会」というのが全国組織で出来てその支援金で何とか暮らせた。
その後本を書いた印税とか、最近は講演料もいくらか入るようになって生活出来ているということだった。
「地下足袋の詩」は彼女が書いた何冊かの本のうちの1冊のタイトルだ。

彼女が何故「釜ケ崎の母」といわれるまでにのめり込んだボランティア活動の軌跡とそこで彼女が学んだ「人生とは何ぞや」の話を淡々と話していた。

釜ケ崎の日雇い労働者は好況時は安い賃金で使われ不況時にはすぐに路頭に迷う。
仕事先でも名前さえ呼んでもらえないという。
「そこの釜ケ崎のひとっ」としか呼んでもらえないという。

今は高齢化した釜ケ先の労働者にアパートを世話して生活保護を受けることが出来るようにする活動続けているという。
アパートといっても三畳一間の最低のアパートだ。
最初アパートの入居費用として6万円を貸してあげるそうだ。

そしてその6万円の貸し金は一度として返済されなかったことはないそうだ。
生活保護費を貯金して半年くらいで返済してくるそうだ。
返済し終わると彼らは「初めて人の信頼を裏切らないことが出来た」と涙を流すという。
そして彼らは
「まるで天国で暮らしているようだ」
「先の不安がない」
「心置きなく安心して眠れる」
「初めて自分を、我を主張できる人生に出会った」
といっているという。

彼らの人生は今日を生き延びるために選択肢のない人生を送ってきた、そして自分がしたいことを選べる人生に生涯で初めてたどり着いた。
と彼女は言っていた。

最初彼女は「彼らを何とかしてあげたい」という思い上がった動機で始めたということだがそれはいかにむなしい動機かを理解した、という。
実際には彼らから教わることのほうが多かった、という。

彼女の話を聞き終わったときは、ひっそり生きてる賢者に見えた。
いい講演だった。





心の恋人

2007年04月25日 | Weblog
彼はもう年老いているが今でもプロの俳優で演じている。
若い頃から演劇に携わってきたが主役を演じたことはないそうだ。
「脇役こそが演じ甲斐がある」といっているが。

今日の「演劇セミナー」でその彼が講師を担当した。
その中で彼の心の恋人の話があった。
俳優「緒方拳」の奥さんが彼の心の恋人らしい。
(実際には「心の恋人」という表現はしなかったが、内容は心の恋人だ)
緒方拳が新国劇で「その他大勢の切られ役」だった頃、彼にとってはまだ同僚みたいなものだった頃の話だ。

現在の緒方拳の奥さんは当時既に中堅の美人女優として活躍していたそうだ。
勿論当時はまだ独身だ。
1ヶ月近くの間、彼らは一緒に演劇活動をしていたことがあったらしい。

そして近くのコーヒーショップで昼の時間に彼女は必ずコーヒーを飲んでいたらしい。
彼は最初気がつかなかったらしいが、あの女優さんじゃないかと声をかけてみたらその通りだったらしく、その後彼は彼女に会いたいがために毎日そのコーヒーショップに通ったという。

お付き合いといってもほんの1ヶ月弱の間彼女の傍でコーヒーを飲み短い会話くらいを交わしたことがある様子だ。
その後彼女は緒方拳と結婚して女優の仕事はきっぱり止めたという。

彼に言わせると
「緒方拳が今あるのは彼女のお陰が大きい」
といっていた。

そして彼は1枚の彼女の写真を大事に持っている。
白黒の写真だ。
「この人がそうです、1枚撮らせてもらいました」
と、それを何十年も大事に持っている。

彼女の方はまだ彼のことを覚えているのだろうか、そんな人もいたわねえ、という程度かもしれない。
彼は多分、彼女のことはずっと思い続けているのかもしれない。
彼女のことを語るときはウブな青年のように初々しかったぞ。

ヤクザさん

2007年04月24日 | Weblog
映画なんかでも格好のいいヤクザさんは人気がある。
ミナミの帝王、萬田銀次郎さんもヤクザさんに近い存在だ。

今回の市議選で奈良は生駒市の市議選で当選と同時に逮捕された某議員、言動はヤクザさんに近い。
「わしは加古川国立大学でミシン学科を3食付で卒業したんや」
と東大卒の市長さんに対抗して、自分の服役経験をヤクザさん風に苦心のユーモアで吹聴する。
選挙演説も黒のスーツで決めている。

当選後に逮捕されたときは物置の中にズボンもはかずに逃げ込んで隠れていたというから可愛い。

ヤクザさんの掟に「カタギさんには迷惑をかけない」というのがあるそうだ。
そのために日本社会ではその存在に「お目こぼし」がある。

昨晩、近所のカラオケスナックに出かけた。
珍しく混んでいる。
客の一人が真っ黒なスーツに身を包んで金時計をつけ指にはギラッとした大きな金色の指輪をつけている。
なにやら携帯でメールしていたが、暫くしたら近所の別のスナックの派手なお姐さんが迎えに来て出て行った。
その後に話題が盛り上がった。
「今のなに?」
「カッコつけてんのよ」
「わざわざ迎えに来さすことないやんか、近くなのに、行きたかったら自分で行けばいいやん」
「大体他所の店に客を呼びに来るのも失礼な話よ」
「アホや」

もう一人の馴染みの女客。
郷里の小学校の同窓生がスナックを開店したので誘われていってきたとか。
その店のオーナーはヤクザさんだそうだ。
久しぶりに会ってそのオーナーに
「あれ、○○さん、もしかして同業?、ママさんやってる?」
と言われたとか。
「私スナックのママさんに見えるかなあ」
とご機嫌。
そんなに嬉しいか。

我々は本物のヤクザさんとは殆ど接触がないし知らない。
美化された映画とかドラマとかで認識しているだけだ。

長崎市長選

2007年04月23日 | Weblog
銃撃で命を落とした前市長の娘婿が新市長に立候補したが敗れた。
娘の優子さん(36歳)の選挙事務所での話が朝刊に載っていた。

「本当にありがとうございました。父伊藤一長はこの程度の存在でしたか。父は浮かばれないと思います。残念です。父の愛する長崎でこんな仕打ちを受けるとは思いませんでした」

この話、悲しみの中に「甘え」と「傲慢」と「自惚れ」が見え隠れして気に入らない。
やはり長く勤めた市長の家族の意識には、公務の私物化の匂いが漂う。
何の経験も持たない娘婿の「立候補の意識」を疑う。
仮に当選していたとしたら、長崎市民にとっては「不幸な選択」になるところだったと思う。

金属

2007年04月21日 | Weblog
今夕のNHKの子供向けニュース番組で聞いた話は驚きだった。

あと50年後には地球に存在する殆どの金属は掘り尽くされてしまうだろうといわれている、と解説していた。
金銀銅ニッケルなどの金属のことだ。
えっ、もうそんな状態なのか、と驚く。
金属なんか地中に無尽蔵に存在するように思っていた。

石油も同じように堀りつくされると予測されている。

近代から現代にかけて急速に地球資源をむさぼり食い尽くしてきたのだ。
50年後に人類は後悔するのだろうか。
私は50年後には生きていないだろうが、既に60年以上を生きてきた。
50年といえばすぐ先のことだ。
しかし50年あれば打つ手があるとも言える。


昼下がりの小さな公園

2007年04月21日 | Weblog
私鉄駅から20メーターほどの所に小さな川が流れている。
ほんの数年前まではドブ川だったが、今は美しく蘇った。
川の周辺も遊歩道が整備され小さな公園まで出来た。

その日は昼頃から気温が上がり春の陽光が心地良い。
どこかのカラオケ店で歌いたいなと思い、散歩がてら家を出てその遊歩道を散歩した。
風が心地いい。
川を覗くと透き通った流れの中を水草がそよいでいる。
魚が群れている。
この川に魚が戻ってきたと新聞に載ったのはほんの2,3年前だ。
鮒か鯉かと思うが違うようだ、魚の名称は分らない。

川辺の小さな公園になっているところには何人かの人がそれぞれに時を過ごしている。
その公園は道路から一段低くなっていて、コンクリートの階段を下りてくることになる。

ひとつのベンチには野球帽を被った老人が本を読んでいる。
でも見たところ辞書を読んでいる様子だ。
英語の辞書のようにも見える、時々傍らの肩掛けカバンから水のボトルを取り出して飲んでいる。

近くに私が座って暫くしたら、腰を上げ去っていった。
足元がおぼつかない様子からしてかなりの老人だった。

もう一つのベンチに男が寝そべっている。
白いゴム長靴を脱いで陽光の中横になって寝ている。
どこか近所の料理人かとも見える。
暫くして起き上がって伸びをしてそのゴム長靴に足を通すと去っていった。
仕事の合間の一休みだったのかも知れない。

もう一組というか、老人と幼女がいて、ヨチヨチ歩く幼女の後ろを老人がついて回っている。
孫を預けられて散歩に来たのかもしれない。
手押しのついた子供用の三輪車が近くにおいてある。
手押しする部分に袋がぶら下げてある。

その老人は袋からお菓子とかジュースを取り出しては幼女に与えている。
食べ終わるとティッシュを取り出して口の周りを拭いてやっている。
驚くべきは、そのおっさん使い終わったティッシュをポイと川に捨てている。
私の目があることなど何も意に介していない。

その幼女が、ボーッと座っている私にヨチヨチと歩いて近づいてくる。
そのおっさんは追いかけてきて「ダメダメ」と幼女を抱きかかえる。
幼女は私に「バイバイ」と手を振る、私も思わず手を振る。

そして公園の端のベンチには2人のご婦人が日傘をさしてずっと話し込んでいる。
何の話かは知る由もないが、女の人は何でも真剣にエネルギッシュに話する。
話は暫く続きそう、というかずっと続きそうだ。

そんな中、市議会議員選挙の選挙カーが何度も拡声器を鳴らして通り過ぎるのが聞こえる。
すぐ横の橋の上を私鉄駅から乗り降りする多くの人達が通り過ぎていく。

すぐ近くは喧騒の渦なのに、その小さな公園の昼下がりはまるで別世界の「ひだまり」のように感じられた。
暫くぼんやり過ごして、カラオケは止めて帰ってきた。

献血車

2007年04月20日 | Weblog
今日英会話のあった市民会館の別館に献血車が止まっていた。
私はかつて若い頃輸血をしてもらった経験があるので献血は出来ない。

そこへ私がよく行くカラオケの店のママさんが自転車で現れた。
「献血に来たのよ、偉いでしょ」
という。
その近辺に住んでいるので近い。

英会話が始まる前、教室はその献血の話で盛り上がった。
「女の人がよく献血してるね、何でかな」
「時々体の血を抜くのはいいことなのよ、血液が減ると新しい血液を体がつくるから血液が新しくサラサラになるのよ」
「私は献血しなくともいつもサラサラよ、食事が一番大事よ、ご飯もいつも玄米ご飯よ」
「ええっ、玄米ご飯ってまずいでしょ」

「私も昔輸血受けたから献血は出来ないの」
「えっ、なんか大きな病気?」
「子宮外妊娠破裂なの」
「ええっ、大変だったのね」

「献血は英語でどういうの」
「ちょっと待って、あ blood donation だよ」

といろいろと姦しい。

無題

2007年04月19日 | Weblog
妻は帰ってくるなり言う。
「お花にお水あげてくれた?」
「はい」
「お風呂はもう洗ってある?」
「はい」
「あら、お利口になったわねえ」

俺は猿回しの猿か。
妻は朝から出かけている、何とかのボランティアとはいえ要するに女同士集って自分達が好きなことをやっているに過ぎない。
亭主は妻のボランティア活動の犠牲者だ。

私は朝から皿も洗いましたし、昼ごはんも自分で作って食べました。
仕事を辞めた亭主はまさに粗大ゴミ扱いだ、と感じてしまう。
妻の方からすれば、この粗大ゴミの猿を何とかして自分の都合のいいように芸を仕込まなければと思っている節がある。

ある程度の芸を覚えないと猿は生きていけないことを自覚している。
妥協妥協、しかし妻は何一つ妥協していないような気もする。