鉄道模型・色差し三昧

精密な模型製品だからこそ、色差しを施しませんか?
より、魅力を引き出しましょう。
お気に入りができますよ。

南武線の17m級旧型国電の履歴をたどる(後篇)

2016年06月21日 | 車歴表三昧
聞いた話し。
あるお宅で、最近、愛犬が亡くなったそうです。
15歳といいますから、大往生ですな。
で、飼い主さんはていねいに、自宅の庭に埋めたのだそうです。
そう、土葬ですね。
言われてみればという感じですが、人間と違って埋葬許可は要らないですからねぇ。
愛情は、感じます。

さてと。
前回取りこぼしの南武線17m車の履歴。

片運転台の制御車クハ16形です。

旧31系のクハ16000代は6輌はがいましたが、16000だけは短命でした。
状態が悪かったのかもしれませんね。

二重屋根を更新して低屋根となった旧30系の16200代は、わりあい早くに地方線区へ転出したものがいます。
16234は、阪和線からさらに福塩線に追われた気配。
同じことは16302にもいえますが、こちらは丸屋根旧31系ですから、短いところが嫌われたのか?

台車などに流用品を用いた旧50系65形だった16400~16500代は、入れ替わりが激しいことが読み取れます。
初期には中央線から、のちに京浜東北線や常磐線、そして総武線からというように、
各線区が73系や101系、さらには103系へと揃えられていくにしたがって、次々に転入してきています。
昭和35(1960)年ごろにはすでに17m車の淘汰方針が出ていたようですから、
あるいは検査期限のあるものが転入し、期限切れの車輌から廃車していったのかもしれません。
末期の蒸気機関車と同じですね。

なお、このグループには一時期クロハ16800代として半室2等車だったものがいます。
もとをただせば、戦後の進駐軍専用車ですね。
2等室とはいえロングシートでしたから、格下げ後も座席はそのまま。
奥行きが深かったといいます。
ちょっとだけ高級だったせいか、地方線区への転出は少ないように思えます。

鉄「道ファン誌」77号によれば、南武線用車輌の17m級から20m級への置き換えは、昭和42(1967)年12月ごろからです。
川崎などの各駅のホームの延伸が終わったからだそうな。
ですから、この後でも廃車されずに残った車輌は、支線用もしくは本線の増結用と見て差し支えないでしょう。
鶴見線に転出していた16003、16007、16211、16215が戻ってきたことで、
16002、16006、16824、16840が廃車になったように思われます。

中間付随車サハ17形。

大半が、山手線からの転入です。
ほとんどが転用先もなく、廃車になりました。
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南武線の17m級旧型国電の履歴をたどる(前篇)

2016年06月19日 | 車歴表三昧
沖縄県を皮切りに、今年も夏の高校野球地区予選が始まります。
ワタシの出た高校も、予選トーナメント表が発表になり、対戦校が見えてきました。
今年は、シード校だそうです。
たいしたものですね。
勝ち上がれば、強豪校と当たります。
ぜひ、1つでも多くの勝ちを重ねていってほしいと思います。

さて。
南武線を走っていた旧型国電のうち、17m車について履歴をだいたいまとめました。
例によって、形式ごとに転入転出順に並べようと思ったのですが、
17m車は、複数の旧形式をひとまとめにした経緯があり、同一形式でも構造が大きく異なります。
したがって、それらの要素も加味してみました。
すなわち、国電初の鋼製車で更新により二重屋根を廃止した旧モハ30、旧サハ36形、
丸屋根となった旧モハ31、旧クハ38、旧サハ39形、
車体各部や台車が近代的になった旧モハ33、34形、
近代的な車体ながらも大正期の走り装置を流用した旧モハ50、クハ35、サハ75形となります。

南武線の17m級国電は、昭和39(1964)年度に139輌を数え、最大数となります。
最長4輌編成でしたっけ?
その後72形など20m級が転入してくるに伴い数を減らし、昭和46(1971)年度には支線用を除いてほぼ引退しました。
支線用は昭和55(1980)年度に101系に置き換えられるまで、長く活躍しています。

基幹形式である片運転台の電動車クモハ11形。

旧モハ30形は7輌で、うち5輌が事業用車に改造されました。
11113は福塩線に転出ののち、牽引車に改造されて首都圏に出戻り。
替わりに11499が転出していったようにも読み取れます。

旧モハ31系は15輌中の7輌が、鶴見線に転出。
わりと丈夫に作られた系列だったようで、そのうちの3輌は南武支線用として戻ってきて昭和55(1980)年度まで活躍しました。
可部線に転出の11211も、わりと長命。
最終的に21800に改造された11231は佐久間レールパークに保存されましたが、閉館に伴い解体されたと聞きます。
残念。

11300代は片運転台の旧33形と、戦時中に片運転台化をした旧34形からなります。
11305は南武線から転出したのち、飯田線から仙石線へめまぐるしく移動していますが、長くはなかったようです。
どのくらい、活躍できたのでしょうか?

11400代は旧0形で、もとをただせば大正期の木造車を鋼製車体に乗せ換えたものです。
数は多いのですが、どれかが転入してくるたびに玉突きで廃車を出しているように見えます。
最後に青梅線から転入してきた11497、11445、11487、11457は、時期的に支線用として転入してきたと考えるのが妥当と思いますが、
鶴見線に出ていた11222、11244、11270が転入してくると、あえなく廃車になってしまいました。

更新により運転台を撤去し中間電動車となったモハ10形。

総数30輌が改造で誕生し、山手線で重用された形式ですが、昭和38(1963)年度には全車が南武線にいました。
9輌が牽引車に改造され、
10016はJR移行後に12041としてイベント用に復活したのは記憶に新しいところ。

両運転台のクモハ12形と、荷物電車クモニ13形。

12013と12016は、新鶴見操車場への職員輸送用で、本線での旅客営業には使われなかったようです。
12053は、鶴見線と行ったり来たりの予備車でしょうか?
ここには出てこない12052とともに、最後まで営業用に残った17m車として有名ですね。
クモニ13形は、13028から13014へで交代したことが読み取れます。

制御車クハ16形と、長編成に組成される中間付随車サハ17形は次回にでも。





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KATO製 飯田線旧型国電によせて プロトタイプの履歴をたどる

2016年06月09日 | 車歴表三昧
梅雨入りしたというのに、まだまともに降られていません。
運がいいのか、悪いのか。

ええと。

徐々にラインナップが充実してきたKATO製の飯田線旧型国電ですが、
モデルのプロトタイプとなった実車はどのような線区を走ってきたのだろうと思いまして、
例によって、調べてみました。
1957(昭和31)年以降の、およそ20~25年間の移動が判ります。

およそ、横須賀線(東チタ、東フナ)あるいは京阪神緩行線(大タツ、大アカ)からの転入がが多いと思っていたのですが…。

昭和32年当時、すでに飯田線用になっていた車輌も、少なからずいました。
クモハ61形やクハユニ56形は、四半世紀以上の長きにわたり、飯田線で走り続けています。
社型国電はともかく、ぶどう色単色で17m車と組んで走っていた時期があるはずです。

クハ47形では、お隣の身延線(静フシ、静ヌマ)との転出入があります。
同じ静岡鉄道管理局内の電化ローカル線ですから、車両需給の都合で移動があったものと思います
電動車は、身延線には屋根を低くする必要がありましたから、あまり共通には使えなかったようです。

68412の前身68106は、京阪神緩行線のあと仙石線(仙リハ)を経て転入しました。
快速用として、ウグイス単色に塗られていた時期があったと思われます。
タブレットを交換しながら、松島海岸を走り抜けていたのでしょうね。

51200は、大糸線(長キマ)と行ったり来たりを繰り返しました。
時期的に、スカイブルー単色にはなっていないと思います。

首都圏の国電区間、たとえば山手線や京浜東北線で活躍した車輌も少なくないとは思うのですが、
ここでは確認できませんでした。
表の始まり、昭和32年といえば、もう車齢20年前後。
その昔をたどるのは、容易ではありません。

中途半端にしか、調べられませんでした。
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鶴見線の73形国電の履歴をたどる

2016年05月30日 | 車歴表三昧
金曜日のことですが、懇意にさせていただいている方々と飲んできました。
いろいろ作品を拝見しまして。
それが、ことごとく雑誌掲載作とかコンペ入賞作とかでありまして。

表現の密度や、仕上げの工夫について、いろいろ勉強に。
刺激的でありました。

で、直ぐに作ればいいのだけれども。
土曜日も仕事で、疲れてしまったということにしておこう…。
言い訳ですね。

履歴をたどっていたのです。
クモハ11形などの17m級に替わって鶴見線に入線した73形国電を調べます。
置き換えにより、20m級4ドア3輌編成になりました。

17m級の時代は、それこそ各地からかき集めてきたような雑多な車両群でした。
例えばクモハ11形ひとつとっても、旧30形、31形、50形などがあり、しかも上り向き下り向きの両方があります。
したがって、編成の種類も多種多様だったと思われます。

しかし1972(昭和47)年度ともなると、73形にも余剰車が出てくるようになりました。
このため、クモハ73形は奇数車、クハ79形は偶数車で統一することができました。
鶴見方からクハ79-モハ72-クモハ73となります。

クモハ73形の履歴です。
配置区の略号が太字(車番が黄色地)のものは全金属車体をもつ車輌、
アンダーラインは改良工事によりアルミサッシになった車輌を示します。

1972~73(昭和47~48)年度に行われた17m車の置き換えは、京浜東北線からの転入車によりました
同線の103系化が終了し、大量に余剰車が出たためです。
京浜東北線に103系を投入することによって、鶴見線の17m級国電を廃車することができた、とも読めます。

ただしこの時の転入車は、ほとんどが3段窓の原型車でした。
1977~78(昭和52~53)年度になって、南武線から状態の良い車輌が転入し、それまでの73形を置き換えます。
これで、ようやく車内の暗い3段窓車の廃車を進めることができました。

この転入クモハ73形は、いずれももともとは京浜東北線用の中間電動車モハ72形です。
南武線などに転出するときに、編成が短くなるものですから、運転台を追設したのです。
73500代は、戦後間もない時期に量産された旧63形だったので、車体の仕上がりに問題がありました。
そのため、先頭車改造するときに併せて車体を全金属に更新したものです。
736000代は1952(昭和27)年度以降に作られたもので、南武線時代に客窓を3段木枠から2段アルミサッシに改善してあります。

中間電動車モハ72形です。

73形と同じく、初期に京浜東北線から転入してきた車輌を、後年置き換えています。
ただし、クモハ73形と違って、旧63形は含まれていません。
すべて1952(昭和27)年度以降の新製車で、台車がDT17やDT20を履いています。
これは、DT13台車を履いた旧63形と違って、検査周期が若干長いのです。
なるべく新しいものを転属させたのではないかと思います。
72970は、試験的に車体を103系と同等のモノに乗せ換えたことで知られる車輌ですね。

72921と72936は、大阪地区の東海道緩行線からの出戻り。
もともと中央・総武線用だったものを、101系化により明石区(大アカ)に転属させたのです。
同線が103系化され、同時に成田線や総武本線などの北総電化が完成したので、関東に戻り津田沼区(千ツヌ)に転入。
113系に追われ、鶴見線に来ました。
鶴見線に101系が入ってくると…。
さすがに次の任地は無かったようです。

72957は、昭和32年11月の配置表には載っていません。
101系の試作車よりも後に竣工した73系のうちの1輌です。
山手、京浜東北、横浜、房総各線を経てやって来ました。
22年間ほどしか活躍できずに、生涯を終えています。
最近の電車のほうが、よほど長持ちしますね。
一世代前の仕様で作られたがために、短命でした。

72562は、73系のなかで唯一、鶴見線を終焉の地としなかった車輌です。
なぜ、仙石線用に選ばれたのか、気になるところ。

制御車クハ79形。
京浜東北線から初期の転入車を、後々置き換えていくという図式は、前の2形式と同じです。

79138は、森ノ宮区(大モリ)時代があります。
この区は、城東線が延伸し、大阪環状線として全線開業したときにできたのですが、
73系の配置期間は、この1961(昭和36)年度だけです。
「大モリ」と表記された73系電車は、ちょっと貴重ですよ。

79246は、戦時中に落成したうちの1輌。
電装品がとうとう準備できず、クハ79形となりました。

いやはや。
調べていると、面白いですよ。
南武線や青梅線にも、どう入ってきたのか気になります。


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鶴見線の17m級旧型国電の履歴をたどる

2016年05月26日 | 車歴表三昧
とうとう、蚊に喰われました。
眠っているところでした。
上唇で喰われまして、目が覚めたら腫れています。
次の日の午後くらいまで、なんとなく腫れたままでした。

もちろん、蚊取りを使い始めましたが、そんな季節になったのですね。

鶴見線の17m級国電の履歴をもう少し、辿ります。
各形式ごとに、転入・転出敷きの早いものから順並べ替えてみます。
これで、同一形式内での置き換えの状況が読み取れるようになります。

基幹形式のクモハ11形。
片運転台の電動車です。

昭和34年度中に7輌が転出もしくは廃車になっています。
代わりに転入してきたのは4輌。
差し引き3輌減ですが、後述する両運転台のクモハ12形が増えたためです。
この時期の鶴見線では、合理化のため日中の単行運転が始まっていました。

昭和37~38年度に、6輌が転入しています。
日中の単行運転が中止になったのか、クモハ12形が転出した時期です。
飯田線豊橋区(静トヨ)からの転入があるのが、おもしろいですね。

前回も述べたように、昭和42年度中に多数が入れ替わっています。
南武線中原区(東ナハ)または青梅線青梅区(東オメ)からの転入です。
のちに南武支線に生き残るクモハ11形4輌は、いずれもこの時期に中原区から転入していました。
11463は、ワンポイントリリーフでしたね。

コンビを組むクハ16形。
片運転台の制御車です。

クモハ11形と比べると、転入・転出パターンが複雑に見えます。
転入元も、中央線三鷹区(東ミツ)、総武線津田沼区(千ツヌ)、常磐線松戸区(東マト)、身延線富士区(静フシ)など、
バラエティーに富みます。

旧番がクロハ16800代だった車輌は、戦後の一時期に駐留軍専用だったもの。
半室2等として中央線と京浜東北線に連結されていました。

飯田線伊那松島区(静ママ)に転出した16519は、このリスト中唯一のトイレ設置車となりました。
阪和線鳳区(天オト)に転出した16480は、関西では珍しい17m級の旅客営業車。
16417は、片町線淀川区(大ヨト)の救援車28004となり朱色に塗られたことで知られます。

両運転台のクモハ12形。

ごめんなさい。余白が大きくなりました。
配置輌数は、昭和34~37年度に最多となっています。
日中の合理化のために単行運転ができるこの形式を揃えたものの、わずかな期間で2輌編成を基本とするよう戻ったかに思えます。
大川支線用には2輌配置があれば充分なので、ほかは各地の増結や事業用として転出していきました。
昭和53年度中に、12051と12053が入れ替わっています。
結果として、12052と12053が最後まで残っていたことは、みなさんご存じのとおりです。

運転台のない中間車、モハ10形とサハ17形。
2輌編成が組めないので、朝晩のラッシュ時以外は運用がなかったはずです。

またしても、余白…。

鶴見線といえば、ここを最後の活躍の場とする車輌が多いのですが、
モハ10形は、都心の重要線区山手線池袋区(東イケ)へ復帰した数少ない例。

サハ17形には、飯田線豊橋区(静トヨ)と山陽・赤穂・宇野線岡山区(岡オカ)に転出したものがいます。
飯田線に転出した17116は、さらに仙石線(仙セキ)へと大きく移動。

昭和41年度以降はこまめに車輌が入れ替わります。
検査期限切れの車輌を廃車し、期限の残っている車輌と入れ替えたのかもしれません。


では、73形はどうだったのか?
いずれ、まとめます。
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KATO製17m級旧型国電の履歴をたどる

2016年05月25日 | 車歴表三昧
「若鮎」という和菓子があります。
この季節だけですね。
大雑把にくくってしまえば求肥の入ったどら焼きのようなモノですが、
焼き印で表現されたアユの目鼻が、かわいいのです。
初めに、作ったひとは偉大だな。
見立てることが、上手いのです。
イマジネーションを拡げることが、というのかな?

さて。
今月号の雑誌広告を見ていて、いつ発売なのか気になりました。
KATO製の茶色い鶴見線と南武線
買うわけではないのですが。

気になったので、製品のプロトタイプとなった実車の履歴を、調べられる範囲でまとめてみました。
Excelって、便利ですね。

品番10-1345が「南武支線」、10-1346と1347が「鶴見線」というように、商品名では明示されています。
しかし、1970(昭和45)~1972(昭和47)年ごろの期間は、すべて鶴見線に集結していたようです。

鶴見線に20m級の73形が入線したのは、1972年ごろからです。
それまでは、17m車だけで運用されていました。
日中は基本の2連、朝晩のラッシュ時には4連に増結されていたそうです。
ですからKATOから発売される3種類のセットは、どのように組み合わせても不自然ではありません。

なお、20m級の73形では地上設備の関係で4連が組めず、現在と同じような3連となりました。
同時に、朝晩と日中の使い分けがなくなり、終日3連となります。

鶴見線用に弁天橋区(東テシ)に配置された17m車の履歴も、追いかけてみました。

一見して、1967(昭和42)年度内に車輌の入れ替えがあったことがうかがえます。
南武線を受け持つ中原区(東ナハ)から多数が転入し、既配置車から廃車が出ています。
このとき南武線では何があったかというと、京浜東北線などから73形が転入してきていたのです。
17m級3ドアを20m級4ドアに置き換えることで、南武線の輸送力強化が図られました。
個別の車輌のコンディションは解りませんが、おそらく状態の良くないものから廃車したと考えられます。

京浜東北線に新車の103系を投入することによって、南武線の大型車化と鶴見線の老朽車を整理できたのですね。

こんなことが判るから、履歴表作りは愉しいのです。
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尾久に配置のスハ32形を調べる

2016年03月02日 | 車歴表三昧
3月ともなれば、あちこちで梅が咲いています。
関東地方の春は、早いですね。
会社では、今朝ウグイスの写真が撮れたよと見せてくれたひとがいました。
地吹雪や猛烈な時化という地方もあるそうですが、実感がわきません。

さて。
茶色い客車の履歴を調べてみようと思い立ちました。
小窓の連続するスハ32系が、どれくらい尾久に配置されていたかということが、気になったのです。

ええと、これは手持ちのキットです。

絶版だと思うと、なかなか作る気になれません。
キットは、愛でるものか?

スハ32系は、福島や郡山でかなり遅くまで残っていた客車です。
昭和30年代には、東北本線の東京方の基地である尾久にも、多数の配置がありました。
とうぜん尾久にいた車輌が、新型車の投入とともに福島や郡山に流れていった、と思ったのです。
で。
車輌配置表をひっくり返します。

とりあえず1958(昭和33)年から1977(昭和52)年までの手持ちの資料を調べました。

で。
福島、郡山に流れていった車両は無い、という調査結果。

形式番号の二重線はダブルルーフ、②は電気暖房付き2000番台車、青文字は荷物車や事業用に改造されたものです。

水戸「水ミト」をはじめ、高崎「高タカ」や小山「高ヤマ」、宇都宮「高ミヤ」など北関東の区との移動が目立ちます。
仙台、盛岡、秋田の各鉄道管理局との転入転出はありませんでした。

ここでは扱っていませんが、戦後製のスハ43系では、もっと広範囲な移動が見られます。
スハ32系は比較的古い車輌ですから、首都圏で余剰となったときには地方で必要とされなかったのかもしれません。
すでに第一線からは外れていていた、ということか。
どうせ転入を受け入れるなら、新しい車輌のほうを希望するでしょうからね。

ほとんどは1972(昭和47)年ごろに、まとまって廃車となっています。
14系座席車が投入されたことにより、臨時列車用としての使命も終わった、という推測もできます。

スハフ32形では、北海道に転属していった車輌が4輌います。
二重窓に改造したのでしょう。

スハ32形には10系軽量寝台車の種車となったものがいますが、このうちスハネ16 62は、この形式最後の1輌でした。
晩年は「ながさき」用と思われます。
車体も台車も更新されていますが、台枠は56年間の長きにわたり人々を運び続けたことになります。
そのほかの軽量寝台車は、新幹線博多開業による夜行列車の廃止で、余剰廃車となったようです。

飯田町「西イイ」に転属したものは中央東線用ですから、EF64に牽かれたのでしょうね。
スハフ32 283は、KATOが製品化したセットに、その車番が入っているようです。

なお、新製、廃車などの日付は、この雑誌に依りました。
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飯田町と甲府の客車をまだまだ調べる

2015年12月21日 | 車歴表三昧
今年も、残すところ10日余りとなりましたね。
みなさま、年末年始のご用意はいかがでしょうか?
進んでいますか?

大掃除は?
ワタシは、まだです。
あ、風呂場だけは進んだかな。
年賀状は??
これもまた、ワタシは、まだです。
目途立たず。
お買い物は???
まだですよ、ワタクシ。
かくして、年末はどんどん過ぎてゆきます。

まだ10日あるから…などと、思ってしまうのですよね。

さて。
中央東線ではどんな客車が走っていたのか、把握すべく表計算ソフトに打ち込み。
いちおう、飯田町(東イイ)と甲府(東コフ)に配置されていた営業用車輌に限ることにしました。
しかも、1960(昭和40)年以降のものだけです。
中央東線の客車ラスト10年間ということになります。
じつは、この時代のローカル用客車の運用範囲がまったく分かりません。
松本(長モト)にも多数の配置があったのですが、収拾がつかないので割愛しました。
まずは、新宿口に出ていたであろう車輌を把握しようかと。

形式車番が黄色地のものは、KATOが客車セットに含めたという車番です。
同じ形式内での順序は、転入転出が早いものから並べました。

読みにくいかと思います。
試しに画面ズームを250~300%くらいにしたら、ようやく読めました。


基幹形式はスハ32、オハ35、スハフ32、オハフ33、オハフ61形式といったところでしょうか。
わりと入れ替わりが激しくて、10年間中央東線に居続けたのは、オハフ33形のうちの3輌だけです。

スハ32形は、主に飯田町の配置です。
1970(昭和45)年ごろを境に、すべてが置き換わりました。
暖房車の仕様をやめるため、電気暖房設置車を転入させたのです。
スハ32 656は、マニ36形式に改造されたのち、この中で唯一JRに引き継がれました。

オハ35形は、飯田町、甲府とも多数配置されていました。
やはり、電気暖房設備のために同じような入れ替わりがあったといえますね。
飯田町に最後まで配置されていたグループは、スハ32の置き換え用に転入したと読めます。

甲府のオハフ33形が途中で入れ替わったわけは、電気暖房の有無ではないようです。
状態によるのでしょうか?
錦糸町(千キウ)にオハフ33形を供給するため、少し新しい同形式を尾久(東オク)から調達したようにも見えます。

オハユ61形式は、全11輌の少数派。
ほかには都城や和歌山にいたそうです。
鋼体化客車ですから台車などは古いのですが、わずか12年弱で活躍の期間を終えました。

電気暖房設置に伴うオハニ61形式の置き換えには、スハニ32形式が充てられました。
車体は古くなりましたが、シートピッチは拡がったわけで、得したのかな?

転入前の旧区は、尾久(東オク)、水戸(水ミト)、高崎(高タカ)などが目立ちます。
近いからでしょうか?
なかには大分(分オイ)のようなものもありますね。

転出先で遠いのは函館(函ハコ)、札幌(札サウ)、早岐(門ハイ)などしょうか?

国鉄って、大きかったんですね。
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飯田町と甲府の客車を把握したいが…

2015年12月07日 | 車歴表三昧
12月は、ワタシの勤務する模型メーカーも、書き入れ時です。
ですから、土曜日が休日になることは、少ない。
なけなしというとオーバーですが、せっかくの日曜日は息子と本屋さんに行っていました。
電車で数分出れば、大きな書店があるので助かります。

イギリスのブラックユーモア小説、買ってやればよかったか?

ええと。
そんなこんなで、模型進捗していません。
大規模修繕工事中なので、バルコニーで塗装しづらい、という理由もあります。

そこで。
表計算ソフトを使って、中央東線の客車の経歴を調べています。
形式番号が黄色地のものは、KATOが発売予定の客車セットに含まれる車番です。
これらの車輌は、ほかにはどんな車両が連結されていた可能性があるのか、
また、古くはどこで走っていたかなどを把握できるようにしたい、と。

配置区の前に②とあるのは、電気暖房設置車。
転入時期と創刊させると面白いだろうと思いながら、取りまとめている最中です。
時間がかかるんだよね。
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暖房車と連結した車両は何かを調べたい

2015年11月30日 | 車歴表三昧
ご無沙汰してます。

先日、自宅のPCが新しくなりました。
そういえば、スペックが上がっております。
3D CADのフリーソフトを探してみようかな。
試しで作ってみたいパーツがあるのです。

ですが。
1週間、模型を作らず表計算ソフトに向かってばかりおります。

マヌ34形などの暖房車の履歴をまとめて以来、それと連結されていた客車の推移が気になって仕方ありません。
何冊もの配置表をひっくり返しては、入力していきます。

中央東線で調べてみます。
飯田町、甲府、松本の各区に客車が配置されていたのですが、暖房車の活躍した区間を主に新宿口として、
飯田町と甲府に限って調べを進めます。

暖房車の廃止に向けて、電気暖房設備を併設した車輌に統一しなくてはなりません。
どう置き換えが進んだのか、それをうかがえるざっとしたグラフができました。

わかります?

1972年度に、暖房車の配置はなくなります。
徐々に電気暖房併設車は増えていくのですが、1970~1972年に大半が入れ替わった気配です。

数の少ない普通荷物合造車の配置をまとめました。
とはいえ、空欄は調査未了です。
どこにいたのか、ページをめくれどもなかなか発見できず。

②が付いているのが2000番台、電気暖房付きです。

1970年前後で見れば、甲府に5輌の配置があります。
いずれも、電気暖房には対応できない車輌でした。
そこで、1971年度に、総入れ替えされたことがわかります。

これを…ほかの形式でもまとめようと思うと、数が多くて収拾がつきません。

どうしようかな。
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