ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

昭和家庭史 ラジオドラマ編(4) 授与式の変わり種 百円賞金使い道

2006年02月15日 | 昭和家庭史
懸賞ラヂオドラマの賞金授与式は昭和6年11月28日、愛宕山で行われた。


 12月5日の財団法人日本放送教会関東支部「彙報」によると

懸賞ドラマ当選者授与式
予て当選発表した懸賞ラジオドラマ及びラヂオ風景の賞金授与式が去十一月二十八日午後二時愛宕山演奏所会議室で行われた。
当日はラヂオ風景で一等に当選した大阪の久松新氏と、ラヂオドラマに当選した深川木葉郎氏(代理)を除き、ドラマの福田四郎氏、光男氏、宮田凡骨氏、国木三郎氏、ラヂオ風景の大東三郎氏、斎藤健二氏。
出席記念撮影後、久保田文芸課長より当選者にそれぞれ賞金が授与された。
右当選者は何れも元気に充ち満ちた青年作家達で、
ドラマ当選者中には理髪師として所々を転々とし現在は浅草で理髪業を営むでいる変わり種もあった。

 ■■ジッタン・メモ■■
彙報文末の「変わり種」当選者はまぎれもなく光男である。
 妻女のキミさんに当時の状況を語ってもらおう。

 「俺にもこのくらいの作品だったら書けるよ」と光男さんが言うのよ。「だったら出して見たら。自信があるんだったら、運だめしで出してみたら」と私はけしかけたの。
「肖像画」というのは、嘴に書いていた小説があって、それを脚本に直したものだった。
ところが締切りが近づいてもJOAKの宛先の封筒に入っているのに原稿を出していないじゃない。
 「出さないの」と聞くと
「うーむ。どうでもよくなっちゃった」「せっかくなんだから、だしてみなさいよ」
とせっついたら出してきた。
出してきたら入っちゃったのよ。
 「肖像画」というのは新婚夫婦の心のPRみたいなもんで、私によく話していた震災のころの思い出をヒントにした内容だった。
でも新婚夫婦の会話なんて私と結婚する前に小説にしていたのでしょう。
相当、ませていたと思う。
 「もし、これが当選でもしたときには、妻役には滝(注 「光男編」参照)にやってもらいたいな」と言っていたら、山本安英がやったでしょう。
随分喜んでいたわ。

 賞金は百円だった。
3篇が当選したのかって?よく知らないけど二番目だったと思う。
当時の新聞かラヂオかに肖像画は「一等に匹敵するドラマでひとつの形式を残した」という批評があったのをおぼえているから。
 賞金百円はなんに使ったかって?嘴の連中がやってきてどこかで散財したり、ともかく貯金なんかにならずに全部使っちゃった。
でも三つ重ねの桐の箪笥を買った。
あたしにも着物を買ってくれた。
紋付きも買ったわね。
結婚の時は紋付がなくて松次郎おじいさんのを借りてたから。あっ、おじいさんにも銘仙の着物を買った。
丸尾の実家には火鉢、安達には桐の下駄、ネクタイ。
辰雄さんにもなにか買っていた。
ともかくみんなにお裾分けしたの。
宵越しのゼニは持たないって気風の人だったから。
そうそう、懐中時計ネ。あれは最後に買ったものだった。
前の年に泥棒に入られて時計を盗まれて、時計がなかった。
で、銀の時計を買ったわけ。
彫金してあったもので大切につかっていた。
空襲で焼けたときにも、丁度前日に修理に出したばかりで助かったの。
空襲はいつだって。東京大空襲の翌月の4月12日だった。
なんにも持ち出せなくて、着のみ着のままの状態で土浦へ疎開したんだけど、あの賞金で買った懐中時計だけは持って行けたの。

百円の価値について 昭和4年浜口内閣が官吏の1割減俸を決め、この昭和6年6月に実施。
減俸の対象になる者は月収百円以上の者で最高20%の減額、大臣級は年6千8百円、首相は9千6百円の額面が終戦年の20年まで変わらなかった。
 またこの6月の女子労働者の1日平均賃金(諸手当、賞与を含む)は82銭3厘。
(「物価の世相100年」 岩崎 爾郎 読売新聞社より

 世の中は不景気、明るくない時代だった。
昭和4年にはニューヨークのウォール街で株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされ日本にも波及し、5年は浜口内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌も起こった。
 昭和6年のこの年には関東軍の謀略により柳条湖事件が引き起こされた。これが翌年の満州事変に発展してゆく。
 家庭史での明るさといえば長女順子が昭和5年6月に誕生。
そしてこの「肖像画」当選であったろう。
暗さもある。
 この神吉町の二階を間借りをしていた弟の辰雄が治安維持法違反で検挙されたこと。
特高に踏み込まれたのが昭和7年7月。
「肖像画」放送の5ヶ月後である。
3か月後の熱海事件で当時の共産党幹部は一網打尽となるが、このことは稿を改める機会があると思う。


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