ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

昭和家庭史 キミ編(4) 芳造兄、父をしのんで能美郡へ

2005年12月02日 | 昭和家庭史
芳造兄が13歳の時に、石川県の父の故郷へ行って見たく成り出かけた。石川県ノミグンアザオゾエ野口村、丸尾太助と住所をきをくしている。まだ見ぬ父の故郷どんな思ひで出かける心に成ったのか、兄の心をしのんで、いぢらしい心がおきる。

 無事に着き、帰ってきた。
沢山におみやげをもらって、うれしそうに語っていたときのことを思い出す。
 山奥だと聞いていたので、山道を歩いていると馬をひいて居る男に出会って、住所を見せて、伯父の名前を聞くと、其の人は、兄芳造とはいとこにあたる人だと云って
「連れていってあげる」
と馬車に乗せてくれた。
とてもわかりにくい、山奥でおどろいたそうだ。
 伯父の太助の家に着く。
女の子がひとり、7、8歳くらいであぐらをかいていたそうだ。
兄は「東京の子はすわっているのに、おったまげたよ」と話していた。
 行って驚いたのには、親類がふえて、今まで聞いたことのない人がおおぜい出てきた。
「おまえのおじいさんだよ」と二佐衛門と名乗る人。
松木という伯母さんがいた由。
其の伯母さんはやさしい人で兄が一番好きに成った人だそうだ。太助さんの伯母さんは
「父が死んだのに、今頃になって、何を考えて来たのか。多分、家に女子が一人しかいないから、むこにでもきたのであろう」
と人に語り、ほかの伯母さんに笑われたそうだ。
「花の都から、こんな片いなかへ、何を好きこのんで婿にくるかね」と云ってやったと兄は笑って話していた。
婿とりのむすめは、ハナタレ娘であぐらをかいていたと話す。
 でも、人々のあたたかい真心にふれて、うれしかったらしい。
私はなんにしても、父恋しさのあまり行ってきてよかったと思っていた。
 なんでも父には若いときに若気のあやまちで、一人男の子がいたらしい。
其の母親のところへ、死んだ父が、袈裟衣を着て坊さんの姿であらわれ、両手をつき、
「ながいあいだ、ほをりっぱなしで申し訳ない」
とあやまった夢をみたと兄に語った。
その日が6月4日だったので、其の人は「死んだかもしれぬ」と思ったそうだ。
私はまだ小さかったが、そのことをきをくしている。
 おみやげには人々の真心のこもったばかりがあって、三色のかき餅、あずきやら、餅こめが出てきて、うれしかったことをおぼえている。

 ■■ジッタン・メモ■■
芳造兄が父の故郷を訪ねる。
そこが石川県の「山奥だと聞いて」とあるが「山奥」とは誰から聞いて行ったのか、いまとなっては茫漠としてわかりようがない。
キミ自伝ではその地を「石川県野美郡字オゾエ野口村」としてあったが野美郡は能美郡の誤り。野口村というのは結局、地図上ではわからなかった。
 ともあれ、大正時代に13歳の少年が東京から石川県へ父を偲んで旅に行く。
たどりついて、はるか遠くに在った父の故郷の距離実感はあったと思う。
山道、馬、胡坐をかく少女、迎える親族、僧侶の姿で故郷に残した女の夢枕に立つ父親姿など泉鏡花の「高野聖」読後感のような感じが残った。


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