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★ Tのゆるゆる日記 ★ 

人生どこへ向かうのか?
目に見えないものを知りたい。

全ては同じ

2020-02-09 | 日記

近頃は随分変わってきてはいるけれど

それでも他の国よりは単一民族としての歴史が長く

日本人として生まれて

人種としての摩擦を国内では

感じることなく私たちは生活している。

 

だから違う国に行って

差別を垣間見たり受けたりすると

何なのか最初はよく分からなかったりするし

ショックなことだ。

 

 

生まれた時は何も考えずに皆んな同じだと感じて

一緒に遊んだりしているのに

大きくなるにつれ違いを意識する。

 

周りの大人の反応や会話が

いかに子供に影響しているかの一目瞭然だ。

 

それでも日本の中にも酷い差別は存在していたし

差別する感覚は今もある。

 

 

同じ人間同士で上もなければ下もない。

単にそれぞれ考え方や性質が異なっているだけで

良い人もいれば悪い人もいる。

全ての人種や国民の問題になるものではないと

私は思っている。

 

 

弱さを武器に被害者意識を持ち力を大きくしようとする者

差別をする者

 

どちらも間違っている。

 

 

もっともっと同じ人間として尊ぶ気持ちや

思いやる気持ちを平等にもてたらいいのにと思う。

 

 

 

 


未熟者

2020-01-28 | 日記
今日は気が散りやすい。


理由は分かっている。

瞑想中も自分が思考にずっと囚われて、
思考にズームしているのに気がついて、
もっとマインドを切り離して離れたところからみる…


そんな風に
気がついて、
行動して、
また忘れて気がついて行動する。


なかなか実践しても
直ぐに学びを身につけられるものではないのが
人間なんだろう…


気づきや感じたこと、
みえるものを言葉に落とし込む難しさや
実際に自分自身が中立にいて実践することの難しさ。

これが人間の面白いところでもあるのだろうけれど
当事者になればそんなことも言ってられず…

と、言うのがまた面白いところである。



みんな未熟だ。


誰かが分かった風に他人に教えるものじゃない。

自分自身が自分の感覚で
ベールを少しづつ剥がしていくしかないこと。

きっと、言葉はそれくらい表面的でしかないのだと思う。


誰かの言葉が、自分の感覚の表面に触れることで
それがバイブレーションとなって感覚の中に響き、
それが何かを気づかせるような
自分で深いところをみるような洞察を
与えてくれるきっかけにはなったりするけれど、
決して、誰かの言葉を真似たからと言って
自分も同じものになるとわけでは無い。


誰かにわかる言葉
誰かには分からない言葉
同じ言語を話す仲間でも起こる不思議な現象。


その感覚を言葉にすると安っぽくなるけど
その言葉で伝える方が分かりやすいようで
多くの人が使っていたりする。


その感覚が言葉にあらわすことが何も出来ないときも
また何処からか探して当てはめる。


最近よく感じることがある。

感じる、
みる先は
もっと広大で圧倒される無であり
圧倒される有。


その有を愛などの言葉にするのも
感覚的には違うけど…

結局、そうゆう事だ。







出来事

2020-01-26 | 日記
これからは個々が自分に責任を持って
自由にするときだと思う。

本当はそうあるべきものなのに
すっかり枠の中に入っていた。


その個々の責任や問題に首を突っ込むことで
自分のことを見なくて済むようにしてしまう。


もっともっと、本質的に取り組まなくてはいけないことが
目の前にあるっているのに。

他者のことに興味を持っているなんて
もったい無いこと。


それぞれが、それぞれにとって
必要なことを学んでいるに過ぎない。


だから、気持ちを察っしたからと言って
誰かと同じ気持ちになる必要はない。

それは自分の問題でも学びではない。

そういう事が有ると認識して
自分の中を通り過ぎていく事柄なだけ。


自分事を中心に精一杯興味を持つことを愛としたなら
同じようにそれぞれも愛を軸に在ることを尊重して
他人事に流されなくなるのだろう。

決して冷たいだとかの話しではない。


それが曖昧なうちは
他者を自分ごときに巻き込むし
また逆に他人事に巻き込まれたり流されたりする。

もっともっと本質で生きなきゃいけない。
愛という言葉はなんだか陳腐で心地悪いけれど
私たちは、
もっともっと愛を軸に生きなくちゃいけない。



よく有るのは一瞬、
誰かと同じ感情になるのに
そういう事が有るということを
認識しないままにすること。


他人事な訳だ。


他人事とは、
そういう出来事があるということを
当事者以外も認識するためにあるものだから。
そこから全てを経験しなくても
何か学べるようにあるわけだ。


輝く

2020-01-21 | 日記
客観的に、自分の本来持つ可能性をどれ程発揮しているだろう
と考えたことはあるだろうか?


漠然と考えても見えないし、
客観的からも程遠く離れて見てしまうことがほとんどな気がする。


それに、可能性を解放できずにいる人がほとんどなのかもしれない。


私自身も何て縮こまっていたのだろう…


自分の中に埋もれた可能性を解放して発揮できるのは自分自身なのに
そんな可能性を秘めていることにさえ
気付くこともできないなんて何てもったい無いことをしているのだろう。

余りにも囚われすぎて気づけなくなってしまう。

何が決まった形であることが可能性だと勘違いをする。

可能性を単に解放すればいいだけなのに…



可能性を解放すると
エネルギーが広がって輝きが強くなる。


そうすると、とても力強い光としてみえる。


そして自ずと繋がっていく…

落ち込むこともある

2020-01-09 | 日記
自分がダメな人間に思えることもある。

何もしっかりできていないような気にもなったり…


本当に何もしていない人もいれば
とても努力しているのに認められていないだけの人もいる。



少し自分の家の中を見まわしてみよう。


散らかっている?

片付いている?


自分に言い訳をして本当に何もしていないのか
自分に厳しすぎるのか
少しは客観的に見えるはず。


もしかしたら、周りに厳しかったり
依存してくる人が多いだけなのかもしれない。



少し頑張ってみる。

少し頑張るのをやめてみる。



自分が誰かのためにやることは相手は求めていないかもしれない。
第一、まず自分が心地よくいるためのことをしよう。



誰かのベストは私のベストではない。

でも、誰かもいるのなら
いつでも自分ばかりを押し通すこともできない。


その協調性の中で自分の空間も保とう。

学び

2020-01-02 | 日記
新年を迎えて、
皆さんどんな思いで過ごされているのかな?


私はもうしばらく日本で過ごしてグアムへ帰ります。



今回は実家で掃除など目まぐるしく日々動き
少しでも私が帰った後も
両親が快適に過ごせるようにと念入りに片付けていました。


時には苛立ってしまう事もあるのだけれど
自分の勝手な思いで勝手に片付けているのに
相手の反応や態度に腹を立てるのも
おかしなものだと気を持ち直して続けていた。

他の姉妹を当てにすると腹も立つので
いつも当てにはしない。


年々、両親も歳をとり
特に頑固な父はより一層気難しく頑固さも増している。
あまりにも頑に自分だけが正しく
周りを否定する姿勢もより頑になっている。

もっと穏やかになって欲しいと思っても
性質は変わらない…

父の場合は身内に必要以上に厳しく認めない。
大したことをしていない他人は褒めても
頑張っている身内は褒めず否定する人だ。
良いところもあるけれど…


育つ環境に子供は大きな影響を受ける。

歳をとって
やっと自分の影響を受けた部分が強いことにも気づけたり
根深く刷り込まれた考えから少しづつ解放されてきたりしている。

育つ環境はそれだけ根深いのだ。


甘やかすこと
全てを与えること
厳しくしすぎること
否定すること
全てをコントロールすること


親だって完璧になってから親になるわけじゃない。
小学低学年のときに思ったこと。


人間は死ぬまで
学び取り入れるような姿勢が必要だということだ。



私には子供がいないけれど
それでも思考に柔軟性を持ち続けることを
意識して生きなくてはいけないなぁと感じる。







危機感も必要

2019-12-30 | 日記
誰だって何かよくないことが自分の身に起こると
「まさか自分が…」
と、皆んな同じように言う。


歳をとることも当たり前で分かっているのに
実感が本当のところあまり無くて
自分の感覚は同じままなのに
いつの間にか、「おばさん」「おじさん」
「おばあちゃん」「おじいちゃん」だの
見知らぬ他人にも、
そんな風に呼ばれたりするようになっている。


老いも
身体の動きも
病気も
死も


どんな事も自分だけは免れる…
そんな事はない。


昔ならイコール死と言ったさまざまな病気も
治癒または症状を抑えて生きることが
出来るようにもなってきているし
寿命も今のところ更に長くなっている。
見た目年齢も若い。



それに伴って、健康でいよう若くいようという
思いも盛んになっている。


今までのように40代は
「おじさん」「おばさん」に突入している場合じゃない。

50代に入って「物覚えが悪くなっってるから…」
何て言っている場合でもない。


自分が何を信じて意識するかで
全て自分に反映されてしまう。

世の中の昔のままの感覚に
いつまでも洗脳されたままでいてはいけない。

「在りたい自分」をいつだって自由に表現し
チャレンジして学んでいけばいい。


いつ何が自分の身にも起こっても
おかしくないという意識は持ちつつ
誰かの犠牲にせず
自分の人生を豊かに生きなければいけない。


ゆったり過ごす

2019-12-22 | 日記
穏やかな日々を過ごしています。


冬至を迎えて、
新しい年について思いをはせてみたりしています。



もっともっと自由に、
自分の概念を壊して人生を楽しむこと。

もっと、自分に意識を向けること。



意識が外側にばかりあると
同じことをしていても全く別のものになる。


有意義な時間を持とう。

分かるようで分からない時間

2019-12-08 | 日記
時々、目が覚めて眠れなくなる事がある。

しっかり眠ったようなので時計を見ると
まだ夜中の1時を過ぎたばかりだったりする。

そんな時もある。


急に、20年前は何していたかなあ?と思い出してみた。

自分のことは継続した記憶の中にあるので
そんなに昔のように時間の経過を感じない。

でも、考えてみたら20年前の母親は
今の自分とさほど違わない年代だったのか⁉︎ということ。

今も元気にしているけれど
それでも随分と無理はきかなくなったし
歳を意識させられるようになった。


当たり前だ…と思うことでも
意外と時間の流れは現実的に意識できていないのかもしれない。


先日、10年後の自分を考えて
今やることをしていこうというブログを書いたけれど
もっともっと現実的に時間を意識できていなければ
やる必要のあることを具体的考えるのは難しいのだ。


肉体には色々な制限があるわけで
いつまでも同じように使い続けられるものでもないし
細胞の若さや動きなど変化するわけで
20代から40代と50代から70代とでは
同じ20年でも随分と違いが出るようだ。

20年はそんなに長い時間でもないけれど
やっぱりそこにある時間は多いのかもしれない…

そうなると、やっぱり10年は貴重だ。

意外と時間の貴重さに気がついていないものだ。

人生

2019-12-05 | 日記
人生のどこかの時点で自分の人生、誰かの人生が
よく見えようが悪く見えようが
あくまで、ある時点を見ているだけで
結果はその時点では分からない。


どんなにダメに思えても失敗して見えても
あるいは上手くいっていたり成功していたとしても
本当に人生が終わりを迎える時にしか
この人生が幸せで良くやったと
自分に言えるものだったかは分からない。


私もまだ分からない。


まだまだだと思っても
年月は想像しているより早く流れる。


毎日を、自分の望む未来が
その先に見えるような選択をしていこう。