2日目はいいお天気でした。
雪下人参、甘くておいしい人参でした。
食後ラウンジへ。
パンもサービスです。
売店はまだ開店しておりませんでした。
宮城県に向かいます。
途中魚沼市大浦にある「赤地山西福寺」に寄りました。
赤城山西福寺は開山堂の彫刻で知られる曹洞宗の寺です。
鉄骨の大きな覆い堂を被った開山堂です。お堂の内部は日本の
ミケランジェロと呼ばれる石川雲蝶の彫刻が施されています。
開山堂天井の『道元禅師猛虎調伏の図』は迫力・細工共に素晴らしい
作品ですが残念ながら撮影禁止。
開山堂正面の唐破風向拝(からはふこうはい)には烏天狗や鳳凰などの
迫力ある妖怪たちが掘られています。
石川 雲蝶(いしかわ うんちょう、1814年- 1883年)は幕末・明治初期、
主に越後国(新潟県)で活動した彫物師。寺院などに、色鮮やかで躍動感
溢れる木製彫刻を多く残し、絵画を含めた作品は1000点以上が現存
しています。
お昼ごはんを食べようと長岡市に寄ります。残念ながらお店は閉店
しておりました。街中もシャッター街。
山本五十六のかつての生家・高野家があった地に整備された公園。
園内には五十六の生家(復元)と胸像が建造されています。本来この場所に
あった本物の生家は、昭和20年8月、太平洋戦争末期に米軍による大空襲で
焼失したため、今は復元された生家が残っています。
明治17年(1884)4月旧長岡藩士高野貞吉の六男として玉蔵院町(現 長岡市坂之上町)で生まれました。父56歳の時で五十六と名付けられたそうです。
明治34年(1901)長岡中学を卒業し海軍兵学校に入学。大正5年(1916)
明治34年(1901)長岡中学を卒業し海軍兵学校に入学。大正5年(1916)
長岡藩家老山本家を継ぎ以後山本姓となろました。
長岡駅前です。
歩道橋。
福島県会津若松市
お腹が減りました。桐屋権現亭さんでお蕎麦をいただきます。
2時頃だったので私達2人だけ。
天ざる三昧を注文。
朝鮮人参のてんぷらがついておりました。
福西本店
明治の末期に着手し、大正3年に「福西伊兵衛商店」という綿問屋として
建てられました。
会津には珍しい黒漆喰の袖蔵を持つ平入りの蔵です。
外観は塗り込められた出桁、垂木、深い軒を持つ重厚な建物です。
建設当時は7世帯が同居し、使用人等も多く食事時は50名ほどの人数が
会津には珍しい黒漆喰の袖蔵を持つ平入りの蔵です。
外観は塗り込められた出桁、垂木、深い軒を持つ重厚な建物です。
建設当時は7世帯が同居し、使用人等も多く食事時は50名ほどの人数が
そろい、活気に満ちていたといわれています。
戦時中の供出により、窓の格子が木の格子に入れ換えられたまま現在に
戦時中の供出により、窓の格子が木の格子に入れ換えられたまま現在に
至っています。
35畳もある蔵座敷。
床柱に黒柿を使うことは最高の贅沢であり、また客人に対する最高の
おもてなし。黒柿は希少性が高いため、その床柱は非常に高価だそう
です。
福西家の皆様。
寄木細工の飾り棚。
獅子の崖落とし。
店蔵は、会津のセレクトショップになっております。
福西本店のお隣は、野口英世が火傷の手術を受けた医院で
現在は一階がカフェ、二階が小スペースの記念館です。
鶴ヶ城、14 世紀の城跡を 1965 年頃に復元したコンクリート製の城址。
博物館も併設しています。
今回は、お城はパス。會津葵さんでお菓子を買って帰りました。
会津藩校日新館
会津若松藩の藩校である日新館の復元施設です。本来は会津若松城の
すぐ西側に所在しておりましたが、戊辰戦争時に焼失し、城下から
離れた場所に建設されました。什の掟「ならぬことはならぬものです」
残念ながら閉館時間が迫っていたので今回はパス。
でも高台にあるので会津の街が一望できました。
福島県会津若松市。国道49号線を走っていると見えてくる
『会津慈母大観音像』は、ツルカメ建設株式会社の故「芳賀昇之助」
さんが、総工費10億円かけて1986年に建立されたそうです。淡路島の
観音像みたいにならないことを祈ります。
宮城県です。2日目は「四季の宿みちのく庵」で一泊です。
居心地良し!!
眺めも良し。
これスピーカーでした。
和室もあります。
部屋のお風呂も広い。
もちろん温泉です。
夕食は部屋でいただきました。
2泊目終了です。
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