京都の紅葉、真っ盛りです。
ちょうど二日続けて病院の診察日。車を病院の駐車場に置いたまま(すみません)近辺を散歩。
岡崎の美術館こんな風になるんや!!名前はどうなる?
2日目も車を置いて黒谷さん(光明寺)から真如堂へ。
紅葉が信じられへんくらい赤~!!自然の色~負ける!!
ホントに綺麗!!
京都の紅葉、真っ盛りです。
ちょうど二日続けて病院の診察日。車を病院の駐車場に置いたまま(すみません)近辺を散歩。
岡崎の美術館こんな風になるんや!!名前はどうなる?
2日目も車を置いて黒谷さん(光明寺)から真如堂へ。
紅葉が信じられへんくらい赤~!!自然の色~負ける!!
ホントに綺麗!!
うん十年ぶりの宝塚。
先に昼ご飯。宝塚ホテルでいただきます。
宝塚歌劇鑑賞。ロビーでなんか名前の書いた札持って立ってらっしゃいます。
私設ファンクラブのスタッフさんでファンクラブで取り次いでもらったチケットを
そこで渡されているそうです。凄いです。熱いです!!
今回は雪組公演のミュージカルロマン「ケイレブ・ハント」
昔、従妹がファンでよく来ておりました。私の知ってる方々、春日野八千代さん、明石照子さん
真帆しぶきさんから古城都さんくらいまで見たような!!古~
今のトップは早霧せいなさん。娘役トップは咲妃みゆさん。
皆さんトイレを済ませて着席。
30分程したところで携帯が鳴りだしました。誰やねん!!・・・いやいや皆さんの携帯です。
地震地震!!地震情報ですわ!皆さん慌てず着席!!舞台は暗転・・・・・そこそこ揺れました。
でも皆さん冷静です。30分程して再演いたしました。
お芝居は、やっぱりちょっとついていけないですが、ショーは感激!!歌に踊り、大階段に
羽、羽、羽!!一糸乱れぬ雪組さん!ファンの手拍子も一糸乱れず熱い熱い!!
この歳になってはまりそうです。
は~良かったです。
年配の方達もたくさんいらっしゃいました。車椅子の方、倒れこむ方お二人ほど、一歩が10cm位の方
私もまだまだこれからです!!
この日は有馬温泉で一泊です。「有馬山叢 御所別墅」です。
メゾネットタイプの部屋でした。
岩盤浴ができるみたい。使用せず。
部屋のお風呂は温泉ではありません。
到着した時間が6時前。食事までに取りあえず金泉へ。
温泉もサササッと済ませてレストランでフランス料理。
ワインも美味しいじゃないですか。
お腹いっぱい!!部屋に戻って「早霧せいな」さんのサインを眺めます。
翌朝
歩く歩道に乗りレストランに向かいます。微妙な傾斜です。
実はこの一泊旅行、某デパートのご招待。
これから大阪のホテルに連れていかれます。もちろんただでは、帰れません。
ホテルで昼食もいただきます・・・・・・・来年は絶対に行かんとこ!!高かくつく~!!
7日目
朝ホテルを出発、約30分でクラクフヨハネパウロ2世空港へ。
ホテルの近所にあったパン屋さん。毎日よく流行っておりました。
買って帰ればよかった。
空港に到着。空港内の売店でズヴォティを使いきります。
フランクフルトに到着。乗り継ぎ時間20分程。でも皆さんラウンジへ
ダッシュ。ギリギリまでラウンジで粘ります。
無事帰国。今回のお土産。
このドロップ美味しいらしい。私の口に入らず。知らない間になく
なっておりました。
アウシュヴィッツからクラクフに戻ります。
午後からは、フリータイム。
トラム、ベビーカー、車いすOKみたいです。
取りあえず昼食を食べにクラクフ中央駅の隣にあるショッピングセンター
「ギャレリア コウコウスカ」
2階にある「MIYAKO SUSHI」へ。握っているのは外人さん。
大丈夫。そこそこです。
お味噌汁もありました。
焼きうどんだと思います。
焼きうどんに不思議な切り方のたくあんが。
ギャレリアの中にある「カルフール」へ。
白菜がありました。
ピーナッツ、100g30円程。安い!!
グランドホテルの近くにある「Mila」ポーランドの陶器ポレスワヴァィエツ。
木製の玩具のお店。
琥珀のお店。
「Krakowski Kredens」グロツカ通りにある自然食品のお店。
チョコレート、クッキー、紅茶、ジャムetc
ヴァヴェル城のヴィスワ川の対岸にあるマンガ館。
磯崎新氏設計の建物が1994年にオープン。ここは日本美術マニアだった
ポーランドのコレクター故フェリクス・マンガ・ヤシェンスキ氏が収集した
1万2000点に及ぶ日本美術コレクションの常設展示を主眼にした施設。
設立の中心的役割を果たしたのが映画監督アンジェイ・ワイダ氏。
1987年に受賞した「京都賞」の賞金をもとに資金を調達、1993年に
着工、翌年に完成。
Mangghaとは、ヤシェンスキ氏の ペンネーム兼ミドルネームで「北斎漫画」からとったもの。
残念ながら月曜日お休みでした~
マンガ館の前にアンジェイ・ワイダ監督の作品。
坂東玉三郎さんの主演で「ナスターシャ」の舞台や映画を手掛けられました。
夕食です。シーフードのお店「ファリナ」まあまあです。
6日目
世界遺産で人類の負の遺産でもあるアウシュビッツとビルケナウ強制収容所
に向かいます。
アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)は、クラクフから西54㎞のところにある地方都市です。
アウシュビッツ博物館。
第二次世界大戦が始りポーランドがナチス・ドイツの支配下におかれた
1940年、この収容所はポーランド人の政治犯を収容するために造られた
ものでしたが次第にユダヤ人やロマ、ソ連軍捕虜も収容し、施設は拡大され
一大殺人工場と化していきました。
若い見学者達。年間200万人が見学に訪れるそうです。
収容所の入口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」
実際には、10人に1人も生還出来なかったそうです。
収容所内には28棟の囚人があり、最大で2万8000人も収容されました。
220ボルトの電流が流されていた鉄線。
アウシュビッツの唯一の日本人ガイドである中谷岩剛さん。
日本人の見学者は年間約1万5000人。他の国々に比べると多いとは言えない
そうです。歴史は繰り返す!!老若を問わずもっと多くの人に訪れてもらい
事実を直視してもらいたいと。
ドイツの工科大学の学生達は、休みを利用しアウシュヴィッツを訪れ、
修復作業などの技術提供のボランティアを行い、ポーランドの学生達は
社会見学で必ず足を運びこういった積み重ねが未来に繋がっていくと
おっしゃっていました。
到着するとすぐドイツ軍医により働けるかどうかの選別が行われ75%の
人々がそのままガス室に送られました。
殺人ガスに使われたチクロンBという劇薬。シアン化合物系の殺虫剤だ
そうです。
被収容者から没収した品々。
安心させるために「後でわかるように」と名前と住所などが書かれたカバン。
子供の靴。
ニベアの缶もありました。
この収容所で亡くなられた収容者。
この男性は1945年4月25日に収容され5月27日に亡くなられております。
通称「死の壁」。この壁の前で数千人にも及ぶ銃殺が行われました。
ツアーでご一緒の方がこの壁の前に鶴を供えられておりました。
お母さんと子供さん・・・・・世界中が平和でありますように!!
この老人は、ここに収容されていた方だそうです。
んな人生を歩んでこられたのでしょうか?
収容所の元所長ルドルフ・ヘスの屋敷。
この絞首台で彼は1947年4月16日に処刑されました。彼は、
処刑される前の2月に手記を書き残しています。
その中に「軍人として名誉ある戦死を許された戦友たちが私には
うらやましい。私はそれとは知らず 第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの
歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。
だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいる
からだ。」
「世人は冷然として私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、
大量虐殺者を見ようとするだろう。けだし大衆にとってアウシュヴィッツ
司令官はそのような者としてしか想像されないからだ。
彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心を持つ一人の人間だったと
いうことを。彼もまた悪人ではなかったということを。」と書き遺しました。
ガス室。天井に穴が開いており、そこからチクロンBをなげいれました。
焼却炉はかつて3台ありましたが、現在では2台が残されています。当時は1日に340人もの遺体が焼かれていたそうです。
アウシュヴィッツ強制収容所から約2㎞ほど離れた所にあるビルケナウ。
300棟以上のバラックが並び、アウシュヴィッツよりもさらに大規模な
収容所で、一大殺人工場でもありました。1941年に建設が開始され
1945年にソ連軍によって解放されるまで百数十万人の命が奪われました。
「死の門」と呼ばれたゲート。
トイレ棟の木造バラック。一日二回しか使用できなかったそうです。
居住バラック。蚕棚のような木造ベットで多くの収容者たちが身を寄せ合って眠っていました。
この道も収容者によって造られました。
世界中の紛争、テロが無くなりますように。戦争・・・・絶対ありえません。