20世紀後半の戦争の時代から、世界は、終わりなきイラク戦争で21世紀を迎えた。神でも悪魔でもない、その中間に宙吊り状態になった「人間」のさまざまな情念を、アウシュビッツなどの戦跡をめぐりながら見出す旅。
著者略歴
森 達也
1956年、広島県呉市に生まれる。テレビディレクター、映画監督。1998年、自主制作ドキュメンタリー映画『A』を発表。ベルリン映画祭に正式招待される。2001年、続編の『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭にて審査員特別賞、市民賞をダブル受賞
姜 尚中
1950年、熊本県熊本市に生まれる。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。ドイツ、エアランゲン大学に留学の後、国際基督教大学準教授などを経て、東京大学大学院情報学環教授。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などでも幅広く活躍
1章・戦争の世紀のトラウマ~場所に残された記憶を辿って
2章・勝者、敗者、被害者の記憶~裁きの場で
3章・限定戦争という悪夢~冷戦の最前線で
4章・そろそろ違う夢で目覚めたい
1章で、ユダヤ人大量虐殺のの現場を訪れて、ホロコーストの心理・原因を探っている。この本の一番のよみどころです。
2章は、第二次世界大戦、日本の戦争責任、戦後処理の経過
3章は・同じ民族同士の戦いである朝鮮戦争
4章は総論、それぞれ、様々な世界各国の民族性や大小の事件を織り交ぜ対談されている。
いつの時代にも戦争は絶えませんが、20世紀は大量虐殺という戦争の時代。
各要人、事件の概要など、余白に注釈があるので、若い人にも読むことはできると思いますが、普段読み慣れていない言葉が沢山出てくるので、理解するのに容易ではない。
読後感想としてまとめることも難しいです。
気になった言葉を書き留めたら、心に届いたのはやはり森さんの言葉でした。
教授の話は、とてもお勉強になりましたけど…。
~その瞬間に何かが駆動したと言うよりも、むしろ何かが停まった瞬間に、人間は普段ならとてもできないような残酷なことができる。駆動じゃなく停止。どうして。どんな時に停まるか。
~1つは事後にそれをなるべく思い出すまいとする働き。忌避のメカニズム。意識的な忘却。もう一つは、戦場や殺戮の場では何かのカイロが駆動するのではなく、停まっているからこそ、感覚はあとになっても再現できない。その瞬間にカイロが止まり、主語を喪失してしまう、リアルな感覚が欠落し、今の自分から隔絶する。
朝鮮を分断するイムジン川で「そこの坂道を駆け降りて、河を渡る気になればできますね。ここにいる観光客や兵士もあとに続くかもしれない。統一など簡単です」
ジョークの余韻を残し、緻密なリアリストでありながら、姜もまたぼく同様にオプティミストでもあるのかもしれない。
~実際に殺戮に手を下した人が困惑顔で「分からない」と言う困惑の反応は、言い訳じゃなく本音。個の何かが稼働したのではなく停まっていたからこそ、日常化への埋没ができた。麻痺ですね。
恐怖と敵意がテコになって集団的なヒステリーが生まれる。~社会的な害虫駆除の性格を帯び、兵士の義務、仕事となり栄光と見なされる。人がある集団を殺戮してそれを仕事として受け入れるメカニズム。
善を抑止できるのも善。戦争の本質は、善対悪の構図ではなく、善対善の戦い。悪は互いに相手の中にしかない。問題は悪への対峙ではない。むしろ、悪への対峙という言葉の意識に問題が潜んでいる。この善、あるいは高揚する正義を、人類は今後どうやって抑制するかがポイントだと思う。
中心は希薄だけど、周辺や末端が肥大して、暴走するという共同体が普遍的に持つメカニズムが拍車をかける。戦争だけじゃなく、会社だって、社長や役員がイニシアチブを示さない場合、社員が暴走して気がついたら大きな不祥事になってしまう展開はあります。
「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー)・「抱きしめる」にリアリティを感じました。寛容の極致かな。握手よりはいい。被害者も加害者も第三者も…。
たぶん、抱きしめることができるのは個なんです。組織は抱きしめることも、抱きしめられることもできない。一人一人が他者を抱きしめ、抱きしめられる事を思い出して実践できれば、世界も少しは、違う方向に進むことができるんじゃないかな。
人権意識が立ち上がるからこそ、人権をさらにアクセルにつかってしまう。純真無垢な部分にヒューマニズムの意識が拍車をかけ、被虐の記憶が相乗すれば無敵です。少し思考力が弱い。言い換えればピュワ。だから強靱で、多少の批判に屈せず自分の判断で何千人もの人間が死んで椅子事にも不干渉でいられる。
堕落してひどい虐殺が起きたのではなく、逆に、非常に清潔な、潔癖な集団だからこそ残虐さの極致が実現できたのかもしれない