私と間質性肺炎
私は、子供の頃から呼吸器系に異常があった。5~10歳のころ、激しい喘息発作を繰り返し、ひどいアトピー・アレルギーも発症していた。
理由は、たぶん50メートルほどの近所に鋳物工場があって、そこで、相当な煤煙を環境放出していたこと、それに住んでいた名古屋市中村区は、隣接する中川区に大同製鋼やら、中部鋼鈑やらの工場があり、さらに南には、東海製鉄やら、愛知製鋼やらの大工業地帯が広がっていて、名古屋市南部では、喘息など呼吸障害を発症する人が驚くほどの数、出ていた。
1960年代、製鉄企業や中部電力火力が高硫黄分C重油を燃料に使い出してから、四日市と名古屋(南区・港区、柴田喘息)の公害病は、日本有数の規模で、呼吸器障害による死者は、おそらく1000名を軽く超えていたと思う。
企業は、安価な原油を使用したがったので、呼吸器に障害を与える硫化物の多い重油が使われた結果、伊勢湾沿岸は巨大な公害地域となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%8F
1960年代の、名古屋市~四日市市の子供たちで、こうした大気汚染の影響を受けなかった者は、ほとんどいなかったのではないだろうか?
私の子供時代は、喘息との戦いに明け暮れていたが、これによって慢性的な肺疾患が起きて、現在に至るまで、苦しみが絶えることがない。
1960年代、私の子供時代の名古屋では、明るい青い空を見たという記憶は少なくて、空は灰色だと思いこみ、青い空を描く子供は少なかった。
大気環境が改善し、青い空が現れるようになったのは、たぶん1980年代以降だと思う。
これは、四日市海上保安部、田尻宗昭さんや、澤井余志郎さんらの身を挺した巨大企業との戦いと努力のおかげである。
http://yokkaichi-kougai.www2.jp/images/stories/2013/Sakakura/tajiri.pdf
私の子供の頃からの夢は、「空気のきれいな田舎に住みたい」というものだった。親戚が白川町にいたのだが、ここで、はじめて私はホンモノの空を知った。
以来、山深い東濃地区は憧れの地だったので、体調が悪化して、名古屋にいられなくなった50歳頃、私は思いきって中津川市に移住することにした。
2003年に移住したのだが、2011年、東京電力による戦後最悪の巨大公害である福島第一原発事故が起きた。このときは、人口3000にも満たない蛭川地区で、二ヶ月ほどの間に、若者も含んで14名もの急死者が出た。多くが心臓疾患だった。
このとき、一種放管資格を持つ曽我接骨院の院長と、「これは間違いなく、短寿命核種による被曝にちがいない」と話したが、証拠を示すことは困難だった。
この事故以来、環境に微妙な変化が現れた。それまで出なかったアライグマが急に増えて、無数にいた兎や雉が激減した。
事故後、隣接するため池や浄化槽には、もの凄い数のユスリカが発生するようになった。放射能のせいとは断定できないが、自然環境に変化があったような気がする。
このユスリカが、ほとんど目に見えないほど細かいもので、最初のうちは、発生していることさえ気づかず、繁殖の原因も退治法も分からなくて、増えるがままに放置するしかなかった。
また、池や浄化槽やたまり水など、有機質の含まれている水なら、どこでも発生するので、殺虫剤などで無差別殺戮することもできなかった。
(後にデミリンという薬で退治できることを知った)
やがて、ずぼらで、ろくに掃除しない我が家に、ユスリカの死骸が堆積しはじめた。1ミリ程度しかない虫なので、窓や扉などないも同然、板張りの壁からも入ってくる。
すると、死骸を吸い込んで、アレルギーが発症しはじめて、激しい喘息が再発した。
サイトカインストーム(急性増悪)を起こして、立ち上がったり、歩いたり、トイレさえ行くのが大変になった。
数十日後には、呼吸音にブツブツバリバリという異音が出るようになって、息切れがひどくなった。
肝臓障害があったので、小柴胡湯を服用していたのだが、これが、悪化に拍車をかけて、ほとんど何もできなくなって、我が家はゴミ屋敷と化した。
ネットで症状を調べてみると、間質性肺炎であることが分かった。だが、間質性肺炎には、区分が8種類(現在は9種類)もあって、特定疾患として援助をもらうには、確定診断をしなければならない。
これが、ひどいもので、レントゲンで「すりガラス様陰影」を認め、X線CTで疾患部位を特定、さらに穿刺細胞診と、まるで肺胞細胞を痛めつけて患者を殺すために行うような検査であることを知り、「病院へ行けば、検査だけで殺される」と思った。
日本の医者は、明治期に導入されたドイツ医学の思想哲学を無批判に受け入れているので、ドイツ式論理学の土台の上で、原因と結果の方程式を組み立てるところから医療がはじまる。
検査で、病名を確定させなければ治療もできないと信じている医師が大半なのだ。しかし、東洋医学は違う。原因を無理矢理確定させる必要はなく、現在起きている症状を見て対症的な治療を行う。
どちらが、病気を治すのに本当に有効なのか? については、論理医学でなく経験医学を大切にしている医師の多くが漢方医療を重視するようになっていることから明らかだ。今では、葛根湯の熱烈なファンも増えている。
ドイツ式西洋医学の何が間違っているかといえば、私に言わせれば、「気」や「霊」の概念が存在しないどころか、敵対的に「妄想に過ぎない」と決めつけているところだ。
西洋医学は、自分たちが体験的に理解できるものしか信用しようとしない。「気」は、私には十分体験的で、気を使って紙を動かしたり、指や腕を伸ばしたり、手当で痛みを取ったりなど私は普通にできるのだが、西洋医学信奉者には、妄想にしか見えないらしいのだ。
だから、「病気を治す」基本が「気=体液の循環」にあるという東洋医学の普遍的原理を理解できる医者が少なくて、放射線や核磁気で検査して、病理学の教科書に載っているやり方だけで診断を行い、定められた治療をすることしか考えない。
私には、20ミリシーベルトもの被曝を伴うCTを肺に照射したなら、必ず修復中の細胞にダメージを与えると思うのだが、ドイツ式観念医療を強固にすり込まれた医師にとっては、「診断できなければ治療もできない」という強迫観念によって、自らの能力を縛り付けている。
私は、「病気を治療する上で、一番大切なことは医療を捨てて自然治癒力に頼ること」という信念を持っていたので、医者に頼ることは最初から諦めていた。
だから、ほとんどの医者が、私が自分で間質性肺炎と診断しても、まず信用しないだろう。だが、私なりにデータを調べて、肺胞細胞が繊維化し、蜂巣肺になりかけるとブツブツバリバリ音(ベルクロラ音)が出ることが分かっていたので、それだけでも自分で間質性肺炎と診断する根拠として十分だった。
あと、特発性か非特発性かという問題があって、私の場合は、ユスリカだけが原因ならば非特発性なのだが、同時に小柴胡湯による薬剤性と、若い頃の喘息履歴や、アスベスト作業経験など、たくさんの要素があるので、たぶん原因不明の特発性だろうと思っている。
発症後の1年は、ほぼ「地獄」と形容できるほど辛いものだった。スーパーで食料を買い出しに行っても、息切れして歩けなくなったり、トイレも入浴も、家の階段を上るのも残酷なほど息切れで辛かった。
このとき、2015年頃だが、間違いなく私は死を覚悟した。医療データによれば、肺線維症の発症からの余命は、最大で6年と記されていたからだ。
そこで、医療を受けずに自分の治療方法を考えた結果、検査・投薬・手術しかない西洋式医療のなかで、唯一、信用のおける方法として、リハビリやトレーニングに着目し、「呼吸トレーニング」によって回復を図る方法を採用することにした。
幸い、当地には山歩きコースが無数にあって、よりどりみどりだ。
私は、標高差150~200メートル程度のハイキングコースを、毎日、5Km、1時間半ほど歩いて呼吸トレーニングを続けることに決めた。
現在までの6年間、嵐や豪雨の日を除く、ほぼ年間360日程度のトレーニングを続けている。
現在までの総括をすれば、「やらなければ確実に死んでいた」ということだ。
最初のころは、「閻魔に地獄に堕とされて、悪鬼から針山血の池地獄で拷問を受けたら、こんな感じか」と思うほど、数歩歩くごとに回復呼吸するほど辛いものだった。
3年ほど続けても、徐々に歩きやすくはなっていたが、肺胞細胞が再生して呼吸能力が復活したとは、とても思えなかった。
それでも、私は、片肺切除された人の残りの肺が肥大するということは、必ず、肺胞細胞の再生に余力があるはずと信じて地道に取り組んだ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jst/52/1/52_031/_pdf
実は、私は子供の頃から血尿もあり、慢性腎不全で余命は期待できないと宣告されていたのだが、そんな医者のご宣託を無視して、山歩きをはじめ2000回を超える登山を行っているうちに、腎機能が回復してきた。
現在では、腎不全でも絶対安静ではなく、体液循環をもたらす運動を積極的に行う療法に変わっている。
https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_331.html
「病気を治すことは、体液=血液リンパを循環させること」という「気の療法」の神髄を自分の体で思い知っていたのだ。
「腎臓が治るなら肺も運動療法で治るに違いない」という確信があった。
5年間の運動療法の結果として、肺の呼吸能力が回復したとは実感できないが、少なくとも発症当初と比べると、圧倒的に呼吸が楽になっている。
以前は、夜中に呼吸が苦しくて、起き上がることがしょっちゅうだったが、今では、一晩中普通に寝ていられるようになった。家の階段でも、余裕を持って登れるようになった。
息苦しさを感じなくなっただけでも大成功で、凄い効果だと思う。
それでも、先日は甘く見て、富士見台高原から南沢山を往復しようとしたら、途中で酸欠を起こして平衡感覚を失い、歩けなくなった。1時間のコースを4時間かけて死に物狂いで帰還する羽目になった。
呼吸は、朝は良いが、だんだん夜に向かって衰えてゆく。1700メートルの高度では、肺気腫を起こすのか、長時間いると呼吸できなくて大変な事態になってしまう。
そんな失敗もあったが、今では、7Kmの根ノ上・保古湖周回コースくらい、余裕を持って歩けるようになっている。
毎朝なので、笠置山・高塚山・二つ森と併せて場所を変えながら飽きないように続けている。いずれも標高差200メートル近い、1万歩に満たないコースだ。
このおかげで、余命5年のはずが、7年を経てもピンピンしていられる。肺線維症の5年生存率10%、10年0%はウソかもしれない。
もっとも、ほとんどの医者は「確定診断をしてなければ分かるはずがない」と言うだろうが、その確定診断に致命的欠陥があり、そのせいで生存率が下がっている可能性が強いのだ。
「長生きしたければ医者を信用するな」という格言は、事実というしかない。
なんで、こんなブログを書いたかというと、新型コロナ禍で、後遺症として5%程度の人が、最悪の間質性肺炎を発症するという記事を見つけた。
https://www.rcc-icr.com/post/no-178-%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%A8%E9%96%93%E8%B3%AA%E6%80%A7%E8%82%BA%E7%82%8E%E3%81%AE%E7%B5%90%E3%81%B3%E3%81%A4%E3%81%8D
もし、特発性肺線維症を発症したとすれば、これまでの医学常識は、5年生存率10%以下であり、6年以上生きる人は希であるということになってしまう。
そこで、そんな既存医学の常識を壊す希望はないかと求める人たちに、「呼吸トレーニング」という方法で生き延びるチャンスがあるかもしれないということを示したかった。
ドイツ哲学の影響下にある現代日本医療では、原因を特定し、型に押し込め、定まった治療法を適用するしか能がないが、東洋医学では、腎臓であろうと、肺であろうと、肝臓であろうと、「病気」というものを、「体液=気の循環」によってホメオステーシス(生体恒常性維持機能)を利用して直そうとするのだ。
その基本は、「歩くこと」だ。人間は、立って歩く動物なので、下腿に血液が溜まり、それをふくらはぎの収縮によって全身に送り出す。歩くことで体液を循環させるのだ。
循環している血液やリンパ液が、壊れた細胞に復活信号と栄養素を送り込み、少しずつ回復させてゆく。
私は、間質性肺炎患者の3割が肺癌に移行するという傾向についても、たぶん数十ミリシーベルトに及ぶ診療放射線のせいだろうと予想している。
本気で病気を治そうとするなら、医者に行ってはいけない。ただ、ひたすら歩くこと。自分の免疫力を強化することが治療の根幹にあるべきだと考える。
西洋医学は、診断確定・投薬・手術しか能がない。唯一正しい、リハビリやトレーニングこそに活路を見いだすべきなのだ。
もしも間質性肺炎と診断されたなら、6年致死率100%を信用してはいけない。毎日呼吸トレーニングして、体液を循環させ、入浴や森林浴、日光浴によって免疫を上げてゆけば、十分に生き延びられるチャンスがあると私は思う。
私は、子供の頃から呼吸器系に異常があった。5~10歳のころ、激しい喘息発作を繰り返し、ひどいアトピー・アレルギーも発症していた。
理由は、たぶん50メートルほどの近所に鋳物工場があって、そこで、相当な煤煙を環境放出していたこと、それに住んでいた名古屋市中村区は、隣接する中川区に大同製鋼やら、中部鋼鈑やらの工場があり、さらに南には、東海製鉄やら、愛知製鋼やらの大工業地帯が広がっていて、名古屋市南部では、喘息など呼吸障害を発症する人が驚くほどの数、出ていた。
1960年代、製鉄企業や中部電力火力が高硫黄分C重油を燃料に使い出してから、四日市と名古屋(南区・港区、柴田喘息)の公害病は、日本有数の規模で、呼吸器障害による死者は、おそらく1000名を軽く超えていたと思う。
企業は、安価な原油を使用したがったので、呼吸器に障害を与える硫化物の多い重油が使われた結果、伊勢湾沿岸は巨大な公害地域となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%8F
1960年代の、名古屋市~四日市市の子供たちで、こうした大気汚染の影響を受けなかった者は、ほとんどいなかったのではないだろうか?
私の子供時代は、喘息との戦いに明け暮れていたが、これによって慢性的な肺疾患が起きて、現在に至るまで、苦しみが絶えることがない。
1960年代、私の子供時代の名古屋では、明るい青い空を見たという記憶は少なくて、空は灰色だと思いこみ、青い空を描く子供は少なかった。
大気環境が改善し、青い空が現れるようになったのは、たぶん1980年代以降だと思う。
これは、四日市海上保安部、田尻宗昭さんや、澤井余志郎さんらの身を挺した巨大企業との戦いと努力のおかげである。
http://yokkaichi-kougai.www2.jp/images/stories/2013/Sakakura/tajiri.pdf
私の子供の頃からの夢は、「空気のきれいな田舎に住みたい」というものだった。親戚が白川町にいたのだが、ここで、はじめて私はホンモノの空を知った。
以来、山深い東濃地区は憧れの地だったので、体調が悪化して、名古屋にいられなくなった50歳頃、私は思いきって中津川市に移住することにした。
2003年に移住したのだが、2011年、東京電力による戦後最悪の巨大公害である福島第一原発事故が起きた。このときは、人口3000にも満たない蛭川地区で、二ヶ月ほどの間に、若者も含んで14名もの急死者が出た。多くが心臓疾患だった。
このとき、一種放管資格を持つ曽我接骨院の院長と、「これは間違いなく、短寿命核種による被曝にちがいない」と話したが、証拠を示すことは困難だった。
この事故以来、環境に微妙な変化が現れた。それまで出なかったアライグマが急に増えて、無数にいた兎や雉が激減した。
事故後、隣接するため池や浄化槽には、もの凄い数のユスリカが発生するようになった。放射能のせいとは断定できないが、自然環境に変化があったような気がする。
このユスリカが、ほとんど目に見えないほど細かいもので、最初のうちは、発生していることさえ気づかず、繁殖の原因も退治法も分からなくて、増えるがままに放置するしかなかった。
また、池や浄化槽やたまり水など、有機質の含まれている水なら、どこでも発生するので、殺虫剤などで無差別殺戮することもできなかった。
(後にデミリンという薬で退治できることを知った)
やがて、ずぼらで、ろくに掃除しない我が家に、ユスリカの死骸が堆積しはじめた。1ミリ程度しかない虫なので、窓や扉などないも同然、板張りの壁からも入ってくる。
すると、死骸を吸い込んで、アレルギーが発症しはじめて、激しい喘息が再発した。
サイトカインストーム(急性増悪)を起こして、立ち上がったり、歩いたり、トイレさえ行くのが大変になった。
数十日後には、呼吸音にブツブツバリバリという異音が出るようになって、息切れがひどくなった。
肝臓障害があったので、小柴胡湯を服用していたのだが、これが、悪化に拍車をかけて、ほとんど何もできなくなって、我が家はゴミ屋敷と化した。
ネットで症状を調べてみると、間質性肺炎であることが分かった。だが、間質性肺炎には、区分が8種類(現在は9種類)もあって、特定疾患として援助をもらうには、確定診断をしなければならない。
これが、ひどいもので、レントゲンで「すりガラス様陰影」を認め、X線CTで疾患部位を特定、さらに穿刺細胞診と、まるで肺胞細胞を痛めつけて患者を殺すために行うような検査であることを知り、「病院へ行けば、検査だけで殺される」と思った。
日本の医者は、明治期に導入されたドイツ医学の思想哲学を無批判に受け入れているので、ドイツ式論理学の土台の上で、原因と結果の方程式を組み立てるところから医療がはじまる。
検査で、病名を確定させなければ治療もできないと信じている医師が大半なのだ。しかし、東洋医学は違う。原因を無理矢理確定させる必要はなく、現在起きている症状を見て対症的な治療を行う。
どちらが、病気を治すのに本当に有効なのか? については、論理医学でなく経験医学を大切にしている医師の多くが漢方医療を重視するようになっていることから明らかだ。今では、葛根湯の熱烈なファンも増えている。
ドイツ式西洋医学の何が間違っているかといえば、私に言わせれば、「気」や「霊」の概念が存在しないどころか、敵対的に「妄想に過ぎない」と決めつけているところだ。
西洋医学は、自分たちが体験的に理解できるものしか信用しようとしない。「気」は、私には十分体験的で、気を使って紙を動かしたり、指や腕を伸ばしたり、手当で痛みを取ったりなど私は普通にできるのだが、西洋医学信奉者には、妄想にしか見えないらしいのだ。
だから、「病気を治す」基本が「気=体液の循環」にあるという東洋医学の普遍的原理を理解できる医者が少なくて、放射線や核磁気で検査して、病理学の教科書に載っているやり方だけで診断を行い、定められた治療をすることしか考えない。
私には、20ミリシーベルトもの被曝を伴うCTを肺に照射したなら、必ず修復中の細胞にダメージを与えると思うのだが、ドイツ式観念医療を強固にすり込まれた医師にとっては、「診断できなければ治療もできない」という強迫観念によって、自らの能力を縛り付けている。
私は、「病気を治療する上で、一番大切なことは医療を捨てて自然治癒力に頼ること」という信念を持っていたので、医者に頼ることは最初から諦めていた。
だから、ほとんどの医者が、私が自分で間質性肺炎と診断しても、まず信用しないだろう。だが、私なりにデータを調べて、肺胞細胞が繊維化し、蜂巣肺になりかけるとブツブツバリバリ音(ベルクロラ音)が出ることが分かっていたので、それだけでも自分で間質性肺炎と診断する根拠として十分だった。
あと、特発性か非特発性かという問題があって、私の場合は、ユスリカだけが原因ならば非特発性なのだが、同時に小柴胡湯による薬剤性と、若い頃の喘息履歴や、アスベスト作業経験など、たくさんの要素があるので、たぶん原因不明の特発性だろうと思っている。
発症後の1年は、ほぼ「地獄」と形容できるほど辛いものだった。スーパーで食料を買い出しに行っても、息切れして歩けなくなったり、トイレも入浴も、家の階段を上るのも残酷なほど息切れで辛かった。
このとき、2015年頃だが、間違いなく私は死を覚悟した。医療データによれば、肺線維症の発症からの余命は、最大で6年と記されていたからだ。
そこで、医療を受けずに自分の治療方法を考えた結果、検査・投薬・手術しかない西洋式医療のなかで、唯一、信用のおける方法として、リハビリやトレーニングに着目し、「呼吸トレーニング」によって回復を図る方法を採用することにした。
幸い、当地には山歩きコースが無数にあって、よりどりみどりだ。
私は、標高差150~200メートル程度のハイキングコースを、毎日、5Km、1時間半ほど歩いて呼吸トレーニングを続けることに決めた。
現在までの6年間、嵐や豪雨の日を除く、ほぼ年間360日程度のトレーニングを続けている。
現在までの総括をすれば、「やらなければ確実に死んでいた」ということだ。
最初のころは、「閻魔に地獄に堕とされて、悪鬼から針山血の池地獄で拷問を受けたら、こんな感じか」と思うほど、数歩歩くごとに回復呼吸するほど辛いものだった。
3年ほど続けても、徐々に歩きやすくはなっていたが、肺胞細胞が再生して呼吸能力が復活したとは、とても思えなかった。
それでも、私は、片肺切除された人の残りの肺が肥大するということは、必ず、肺胞細胞の再生に余力があるはずと信じて地道に取り組んだ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jst/52/1/52_031/_pdf
実は、私は子供の頃から血尿もあり、慢性腎不全で余命は期待できないと宣告されていたのだが、そんな医者のご宣託を無視して、山歩きをはじめ2000回を超える登山を行っているうちに、腎機能が回復してきた。
現在では、腎不全でも絶対安静ではなく、体液循環をもたらす運動を積極的に行う療法に変わっている。
https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_331.html
「病気を治すことは、体液=血液リンパを循環させること」という「気の療法」の神髄を自分の体で思い知っていたのだ。
「腎臓が治るなら肺も運動療法で治るに違いない」という確信があった。
5年間の運動療法の結果として、肺の呼吸能力が回復したとは実感できないが、少なくとも発症当初と比べると、圧倒的に呼吸が楽になっている。
以前は、夜中に呼吸が苦しくて、起き上がることがしょっちゅうだったが、今では、一晩中普通に寝ていられるようになった。家の階段でも、余裕を持って登れるようになった。
息苦しさを感じなくなっただけでも大成功で、凄い効果だと思う。
それでも、先日は甘く見て、富士見台高原から南沢山を往復しようとしたら、途中で酸欠を起こして平衡感覚を失い、歩けなくなった。1時間のコースを4時間かけて死に物狂いで帰還する羽目になった。
呼吸は、朝は良いが、だんだん夜に向かって衰えてゆく。1700メートルの高度では、肺気腫を起こすのか、長時間いると呼吸できなくて大変な事態になってしまう。
そんな失敗もあったが、今では、7Kmの根ノ上・保古湖周回コースくらい、余裕を持って歩けるようになっている。
毎朝なので、笠置山・高塚山・二つ森と併せて場所を変えながら飽きないように続けている。いずれも標高差200メートル近い、1万歩に満たないコースだ。
このおかげで、余命5年のはずが、7年を経てもピンピンしていられる。肺線維症の5年生存率10%、10年0%はウソかもしれない。
もっとも、ほとんどの医者は「確定診断をしてなければ分かるはずがない」と言うだろうが、その確定診断に致命的欠陥があり、そのせいで生存率が下がっている可能性が強いのだ。
「長生きしたければ医者を信用するな」という格言は、事実というしかない。
なんで、こんなブログを書いたかというと、新型コロナ禍で、後遺症として5%程度の人が、最悪の間質性肺炎を発症するという記事を見つけた。
https://www.rcc-icr.com/post/no-178-%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%A8%E9%96%93%E8%B3%AA%E6%80%A7%E8%82%BA%E7%82%8E%E3%81%AE%E7%B5%90%E3%81%B3%E3%81%A4%E3%81%8D
もし、特発性肺線維症を発症したとすれば、これまでの医学常識は、5年生存率10%以下であり、6年以上生きる人は希であるということになってしまう。
そこで、そんな既存医学の常識を壊す希望はないかと求める人たちに、「呼吸トレーニング」という方法で生き延びるチャンスがあるかもしれないということを示したかった。
ドイツ哲学の影響下にある現代日本医療では、原因を特定し、型に押し込め、定まった治療法を適用するしか能がないが、東洋医学では、腎臓であろうと、肺であろうと、肝臓であろうと、「病気」というものを、「体液=気の循環」によってホメオステーシス(生体恒常性維持機能)を利用して直そうとするのだ。
その基本は、「歩くこと」だ。人間は、立って歩く動物なので、下腿に血液が溜まり、それをふくらはぎの収縮によって全身に送り出す。歩くことで体液を循環させるのだ。
循環している血液やリンパ液が、壊れた細胞に復活信号と栄養素を送り込み、少しずつ回復させてゆく。
私は、間質性肺炎患者の3割が肺癌に移行するという傾向についても、たぶん数十ミリシーベルトに及ぶ診療放射線のせいだろうと予想している。
本気で病気を治そうとするなら、医者に行ってはいけない。ただ、ひたすら歩くこと。自分の免疫力を強化することが治療の根幹にあるべきだと考える。
西洋医学は、診断確定・投薬・手術しか能がない。唯一正しい、リハビリやトレーニングこそに活路を見いだすべきなのだ。
もしも間質性肺炎と診断されたなら、6年致死率100%を信用してはいけない。毎日呼吸トレーニングして、体液を循環させ、入浴や森林浴、日光浴によって免疫を上げてゆけば、十分に生き延びられるチャンスがあると私は思う。