ビルマにおいて、1944年3月8日から始まって、その夏まで行われた「インパール作戦」について書く。
この作戦には、私の実父も動員されたが、父の話によれば3000名の大隊で生き残ったのは、わずか100名に満たなかったという。
父は体重30Kの亡霊骸骨のような姿で舞鶴に帰還することができた。愛知県出身者の多くが、このビルマ戦線に動員されていた。
それは、ビルマ(ミャンマー)の北西部に接し、インド、マニプル州内に含まれるインパールという街を舞台に行われた日本軍の「史上最悪」といわれた作戦だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6

日本軍は、10万人前後の兵力を投入した大作戦だったが、うち死傷者が72,000名 戦死者が26,000名とされるが、実際の死者は、はるかに多かった。
第二次世界大戦での日本軍戦死者は210万人といわれるが、そのうちビルマでの死者は16万人を超えている。
日本軍による太平洋戦争のなかでも、その戦略や指揮の愚かさから、インパール作戦は、もっとも劣悪なものと評されている。
インパールはビルマから日本軍に押し出された英軍拠点となっていて、日本軍はここを確保して、インドに侵攻する足がかかりにできると考えた。
だが、2000m級の道もない険阻な山岳地帯を転戦するに加え、重い装備、大量の雨、マラリアや赤痢などの感染症の蔓延などにより、10万人の戦力のうち戦死者が約3万人、怪我や病気で後送されたのが約2万人、残りの大半も負傷もしくは罹患するなど、莫大な犠牲を払うことになった。
「史上最悪の作戦」と呼ばれる「インパール作戦」を指揮したのは、第15軍司令官の牟田口廉也中将である。
陸軍内強硬派の「皇道派」は、1937年、牟田口も加わった「盧溝橋事件」では中央の方針を無視して出撃命令を下すなど、独断専行型の軍人が多く、南京大虐殺も皇道派の長勇中佐(第32軍参謀長)による暴走と評されている。
中国戦線における残虐の代名詞となった三光作戦も皇道派の主導によるとされる。
「インパール作戦」失敗の責任については、第15師団長の山内正文中将が死の床で、「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓のために戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語るなど、当時から牟田口を非難する声があがっている。それほど、敵を過小評価し、補給を軽視した無謀な作戦だったといえる。
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/7557
日本軍のビルマ侵攻の目的は、連合軍の蒋介石支援ルートの遮断が目的だった。
ビルマ独立義勇軍などの協力もあり、イギリス軍を駆逐して3月8日には首都ラングーンを攻略した。
ビルマ攻略が予想以上に順調に進んだため、日本の南方軍は「二十一号作戦」という東部インドへの侵攻を立案する。
これに対し、作戦の主力になると考えられていた第18師団長が反対した。師団長は牟田口だった。反対理由としては、山岳や河川による交通障害や補給の困難さなど、まさに後の「インパール作戦」が失敗する要因になったものばかりであった。
結局「二十一号作戦」は現地部隊の反対に加え、「ガダルカナル島戦闘」が勃発したこともあり見送られた。
戦況が悪化するとともに、第15軍司令官に昇格した牟田口は方針転換し、従来の守勢防御から、英軍拠点であるインパール攻略を目指す方針転換することを主張するようになった。
悪化しつつある戦況を一気に覆したいという大本営上層部の思惑もあり、「インパール作戦」が実行されることになった。
1944年3月8日、第15軍隷下の第15師団、第31師団、第33師団は、「インパール作戦」を開始した。
第31師団がインパールと要衝ディマプルの連絡を遮断するため、結節点となるコヒマへ向かう。残る2個師団がインパールを目指して進撃した。
(実父は、31師団に含まれていたようだ。このとき、少しだけ英語が話せた実父は、初期の英軍との軍事交渉で捕虜にされたことで生還することができた)
牟田口は補給不足に陥ることを打開するため、牛や山羊、羊などの家畜に荷物を運ばせて、必要に応じて家畜そのものも食すという「ジンギスカン作戦」を考案したが、実際は渡河時に流されたり、険しい地形に阻まれて破綻した。
(帰還兵の証言によれば、牛は水牛で、日本の牛とは異なり気性が荒いため、制御が困難だったという。牟田口司令官は、「大和魂で克服しろ」と指示するだけだった)
3万頭もの家畜を引き連れて進撃する日本軍は、格好の標的となった。爆撃を受け、家畜は荷物を積んだまま逃げてしまい、貴重な物資をさらに失うこととなった。
世界最悪級のヤマビル地帯で、食料、弾薬ともに欠乏し、敵が展開している前線に到着した頃には、すでに各師団は疲弊していた。
後方にいる牟田口に補給を要請したものの、返答は「糧は敵に求めよ」というものだった。
2000m級の険阻な山岳地帯を走破するために軽装備しか携行していなかった日本軍に対し、イギリス軍は円形に構築した陣地の外周を戦車や火砲で防御し、包囲されても空中から補給物資を投下できる円筒陣地を構築していた。
日本軍が得意とする夜襲や切込みは通用せず、多くの犠牲を出した。
第15師団は4月7日にインパールの北15km、第33師団は5月20日にインパールの南15kmの地点まで到達したが、イギリス軍の空陸からの攻撃、補給線を断たれたことによる餓死者の増加、感染症の蔓延などで、作戦続行は不可能な状況に追い込まれた。
第31師団は4月5日にコヒマの攻略に成功したものの、「テニスコートの戦い」で敵の駆逐に失敗。前進どころかコヒマの維持も困難になる。師団長の佐藤幸徳は司令部に対し、たびたび撤退を進言したが、牟田口はこれを拒絶。
双方は対立し、5月末に佐藤は司令部の命令に反して独断で撤退を決断した。これは、日本陸軍創設以来初めての抗命事件といわれた。
牟田口は、佐藤と、彼と同様に撤退を進言した第33師団長の柳田元三、第15師団長の山内正文の3人を更迭。師団長は天皇によって任命される親補職であり、現場の一司令官である牟田口には、本来彼らを更迭する権利はない。
この時点で、第15軍はもはや組織としての体を成していなかった。
7月3日、「インパール作戦」の中止が決定。日本軍は撤退を開始する。しかしこの間もイギリス軍は容赦なく攻撃を仕掛け、衰弱した者は次々と脱落。道にそって腐乱死体や白骨死体が延々と並んだ悲惨な様子から、日本軍の退却路は「白骨街道」と呼ばれた。
インパール作戦は世界の戦史上まれに見る大失敗とされる。
日本軍は、作戦撤退後も、英軍に敗北を重ねた。1945年3月、これまで日本軍とともに戦ってきたビルマ国民軍が連合国側に寝返り、日本軍に対して攻撃を開始、日本はビルマを失うことになった。
当時、日本への反撃を指揮していたのが、「ビルマ建国の父」と呼ばれるアウンサン。後にミャンマーの国家顧問を務めて実質的な国家指導者となる、アウンサンスーチーの父親であった。
この作戦について吉川正治参謀は次のように語った。
「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパールを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。
第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ヶ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。
第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」
移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの険しい山地を越えられないことは明白だった。
まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進むことも退くこともできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。
現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、たびたび撤退を進言する。
しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。
余は第三十一師団の将兵を救わんとする。余は第十五軍を救わんとする。
軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。
さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と返電し、6月1日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため、独断で更にフミネまで後退した。
これは陸軍刑法第42条に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れて師団長を更迭されたが、もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言う。
また、第33師団長柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。天皇によって任命される親補職である師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならば有り得ない事であり、天皇の任免権を侵すものであったが、後日、この人事が問題となることはなかった。三師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った。
7月3日、作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力はわずか1万2千人に減少していた。
7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部を集め、泣きながら次のように訓示した。
諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。
兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは、戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…
退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様から「白骨街道」と呼ばれた。
イギリス軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。
伝染病にかかった餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、集団感染を恐れたイギリス軍が、生死を問わずガソリンをかけて焼却した他、日本軍も動けなくなった兵士を安楽死させる“後尾収容班”が編成された。また負傷者の野戦収容所では治療が困難となっており、助かる見込みのない者に乾パンと手榴弾や小銃弾を渡して自決を迫り、出来ない者は射殺するなどしている。
優位に立つ連合軍は、日本軍陣地に対し間断なく空爆と砲撃を繰り返した、兵士達は生き残るために蛸壺塹壕にずっと潜り込んでいるしかなく、反撃などは夢のまた夢であった。
そのような状況下で雨季が到来すると、塹壕は水浸しになった。塹壕構築のための資材は満足に支給されるはずもなく、ありあわせの道具や素手で各自が掘った塹壕では、排水溝の設備など望むべくもなかったからである。砲撃のため水浸しの塹壕から抜け出ることができず、ずっと水に浸かっていたため皮膚が膨れ、損壊する塹壕足となる兵士が続出、そこからさまざまな感染症が広まる原因となった。
日本軍の伝統として、補給が軽視されており、河舟・車両等機械力による大量補給は殆ど行われなかった。たまさかそのような手段が確保されたとしても「食糧よりも武器弾薬」という方針により餓死寸前の前線に食糧が届けられることは乏しく、糧食は集積所に放置され、どんどん腐敗していった。
そのため、前線の兵士は「食うに糧なく、撃つに弾なし」という、もはや戦闘どころではない状態に置かれた。ある部隊では、野砲はあっても砲弾の割り当ては、1日にたった2発だったという。また第15師団の生存者が証言するところによれば、弾薬が尽きた部隊は、投石で抵抗するしかなくなっていた。
食料は、現地住民から軍票との交換により入手しようとしたが、現地は小さな村がわずかにあるだけで、部隊を賄えるだけの食料を入手するのは不可能だった。飢餓に苦しんだ日本兵は、力尽きた味方の死体を食べて飢えを凌いだ。
陸軍の損害は、『戦史叢書』によれば、戦死者が第15軍の主力3個師団で計1万1,400人、戦病死者が7,800人、行方不明者1,100人以上(計20,300人以上)にのぼり、そのほか第15師団だけで3,700人の戦病者が発生した。
第33師団においては、田中師団長の6月30日の日記には、第33師団の戦死傷7,000、戦病5,000、計12,000名と記され、すなわち師団兵力の70%を失っていた。
日本軍の場合、後送傷病兵はほとんど生きて帰ることができなかったとの証言が多く、参加人数と残存兵の差、およそ7万2,000人が作戦の死者とされる。
つまり動員された7割の兵士が死亡したことになる。
インパール作戦の失敗後、大日本帝国陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した。牟田口も軍司令官を解任され、予備役に編入される懲罰人事を受けた。
独断撤退を行った佐藤中将は、作戦当時「心身喪失」であったという診断が下され、軍法会議で刑事責任を追及されることなく、やはり予備役編入とされた。
インパール作戦で、自らの責任において、動員された兵の7割、7万人以上を死に至らしめた牟田口廉也中将は、1966年まで、一人安穏として生き延びた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F
牟田口は戦後イギリス軍がシンガポールで開いた戦犯裁判でBC級戦犯の一人として裁かれたが、嫌疑不十分として釈放され、帰国後は東京都調布市で余生を過ごした。
牟田口は1962年にアーサー・バーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになった。
死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、
「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した。兵に大和魂があれば必ず勝てた」
と言い続けた。
戦後、テレビが普及すると、「ビルマの竪琴」という映画が、たびたびテレビで流れた。
実父は、いつも涙を浮かべて、それを見ていたことを思い出す。