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絶対に「敗戦」と言えない人たち

2022年08月15日 | インポート
 

 8月15日は「終戦記念日」ということになっている。

 だが、今から50年以上前、私の子供の頃は、ほぼすべてのメディアが「敗戦記念日」と言っていた。

 どんな理由で変わってしまったのか?



 私の記憶では、たぶん1990年代、いつのまにか「終戦記念日」に置き換えられてしまった。

 その理由は、皇国史観に洗脳されきった保守系論客の力が大きくなってきて、それに騙されて「日本は凄い」と陶酔したがる人が増えたせいだろうと私は思う。

 いわば、民族的なナショナリズムによる「愛国心」の変形した発露なのだろう。



 新聞やテレビのメディアは、天皇制を強固にしたがった文部省の保守系役人によって「終戦」にしろと規制されたようだ。

 https://seijiweblog.com/archives/7514



 【(御前会議において昭和天皇は)「国民のためには、もはや戦争は終わらしたほうがいい。」 「陛下のご裁可がくだった!」ということで、勅命がくだるんです、ここで。

 参考までに言っときますが、敗戦したのではありませんよ。天皇陛下は、世界の平和と国民のために、戦争を終わらしただけですからね。敗戦じゃないですよ。

終わらせよう。任重くして道遠し、と言ってます。】



 こんなところが、右翼系の「敗戦ではない、終戦なのだ」という論理だ。

 まあ、どうみても屁理屈だが、2600年続く、万世一系天皇の神聖さに陶酔して、「日本は世界に冠たる凄い国」というナルシズムに、どっぷりと浸かって、いい気持ちになりたがる人たちが増えたのではないか?

 「凄い日本が負けるはずがない!」と、あたかもコマワリ君が「私は壁!」と思い込むように、客観を放棄し、主観だけで信じ込んでしまって「敗戦じゃない、終戦なんだ」と叫んでるわけだ。

 https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20170815-00074544



 情報の多い日本国内では、敗戦が終戦にすり替えられても、それほど深刻にこだわる人は多くなかったが、戦前の皇国史観を刷り込まれたまま、情報の乏しい外国に開拓移住した日本人たちは、とんでもないことになった。



 ブラジルでは「第二次世界大戦で日本が勝利した」と信じ込んで、絶対に敗戦を認めない人たちが、「日本勝組」というグループを作って、「日本は負けた」と表明した人たちを襲撃して、片っ端から殺害するという事件が長く続いた。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E3%81%A1%E7%B5%84



 https://cenb.org.br/articles/display/361



 この対立は、21世紀になった今でも続いていて、外国移住日本人の間に深刻な障壁ができてしまっているといわれる。

 日本にいる人々より、情報の乏しい外国に移住した日本人の方が、より強い民族的アイデンティティに支配されているようだ。日本国内では、南西諸島の離島に、未だに勝組極右活動家がいて、敗戦否定の暴力的強要をやめないとの情報もある。



 戦前、人口増大に伴って農耕地が飽和する状況のなかで、親の作った農地を受け継ぐ資格があるのは長男だけだったので、それ以外の子供たちは、自分で農地を開拓するしかなかった。

 「ポツンと一軒家」に登場する深い山中の住人たちは、そんな農地相続上の理由で、誰も住まない山の中に活路を見いだそうとした人が少なくない。



 http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2014/2/28/historical-overview/



 明治が始まって、外国も含めた移動の自由が認められるようになると、農業適地が飽和した田舎では、たくさんの人々が、広い自由な農地を求めて開拓を求めた。

 国内では、青森下北や北海道、信州の深い山中などだ。外国では、未開地が多く開拓移民を求めた南米や豪州などに向かった。

 また、日本軍の軍事戦略に乗って、満州やモンゴルに向かった人々も多かった。



 私の祖母は、黒川村出身だが、山深い東濃地方も、信州と同じで開拓適地が少なく、満州に向かった人々が多かった。しかし、彼らは敗戦とともに、壮絶悲惨な運命に遭った。

 満州へのロシア軍侵攻などで、たくさんの人々が殺害され、生き残った人も命からがら帰国させられた。帰国できないで、現地に捨てられた子供たちも多数いて、後に、「中国残留孤児」問題が大きく取り上げられた。

 さすがに、満蒙開拓移民には「勝ち組」はいない。

 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1940467837&owner_id=33738144



 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%AE%8B%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA



 最大の移住先だったブラジルには、1907年以降、26万人が日本から渡航し、現在は約200万人の日系人が暮らしている。南米全体でも、日系人の有力者も増えて、藤森氏のように大統領に就任した人まで出た。

 この移住者たちは、100年を経て、現地国家に帰属し、日本とは無縁であっても、未だに日本人としてのアイデンティティに誇りを抱いている。



 アメリカには現在、160万人ほどの日系人が居住しているといわれる。

 戦時中、彼らは敵国日本人として理不尽に迫害され、強制収容されたが、現在は、日本製品と同様に信頼性の高い人々として尊敬の対象になっている。

 だが、彼らもまた、祖国日本に対する憧れ、アイデンティティは日本人以上なのだ。

 情報が乏しいほど、心の中に作り上げた日本の虚像が肥大してゆくことが分かる。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA



 だから、「日本は負けていない=終戦にすぎない」との屁理屈もまた、おそらく情報量の少なさと、自分の信仰するアイデンティティへの執着から起きている問題なのだろう。

 「日本が負けた」、偉大な日本が負けるはずがない……という思い込みは、一方で、ファッシズム=優生思想から生み出される問題でもある。



 「優生思想」とは、「優れたモノ」への信仰である。

 日本では、保育園、幼稚園の時代から、子供たちを評価し、競争させる。運動会やお絵かきでも、必ず優劣をつけて、上位を評価し、下位にコンプレックスを持たせる教育システムがとられている。

 だから、そんな競争主義に幼いうちから洗脳されてしまった子供たちは、大人に成長しても、「他人より優れることが正義」という宗教の強硬な信者になってしまうのだ。



 人生の価値、世界の価値は「より優れたモノ」であると、日本人の大半が洗脳されてしまっている。

 だから「世界に冠たる日本、凄い日本、優秀な日本」を誇りに思いたがるわけだ。

 だが、それは、ひとつの宗教でありカルトであるにすぎない。世界のあらゆるものに、「どちらが優れているか?」と序列をつけてみたって、人生が豊かになるわけではなく、人々が幸せになるわけでもない。



 我々の人生と世界は、序列を必要としないのだ。そんなことより、みんなが笑顔でいられる人生の方が、序列上位を目指して走ることよりも、はるかに価値のあるものだ。

 日本が勝たなくともよい。負けても、みんなが幸せである方が、はるかに素晴らしいじゃないか?



 「勝った、負けた」と序列にこだわる人々は不幸だ。そんなことで人生の評価が定まるわけではない。

 本当の人生の評価は、「どれだけ、たくさんの人々に笑顔を与えられたか?」ではないのか? それは、きっと価値の高いことだろう。