1950年代に生まれた私の生涯は、人類史においても、おそらく極度に変化の激しい時代で、2021年に至る、この70年間は、「便利さの進化の時代」という言い方ができるかもしれない。
私は、若い頃から民俗学に憧れて、人間の生活史を具体的に調べることが好きだった。歴史というものは、後世に伝える意味を持った「記録」の成立をいうのだが、日本古代史の記録が成立したことで歴史が始まって、現在に至るまで、おおむね1700年近くなのだが、この70年は、他のいかなる時代と比べても、もっとも生活が激しく変化した時代である。
ヘーゲルは「合理性に向かって進む」と喝破したが、先史時代から現代に至る「進化」をグラフに表せば、明らかに幾何級数の倍々ゲームで進んでいる。
ついでにいえば、この種の幾何級数グラフは、もちろん永遠に天井知らずで上昇するのではなく、ある地点で、突然性質が変化して急降下を始めるのが一般的だ。
上がったものは下がらねばならない。急上昇すれば急降下しなければならない。
私は、ビルゲイツや竹中平蔵が叫んでいる「スーパーシティ」、究極の合理性社会のビジョンを見て、「ああ、これが人類の終着点なんだ」という感慨を禁じ得ない。
つまり、この先、人類は雪崩のように落ち始め、滅亡という奈落に転落してゆくのだ。
私の子供時代、1950年代~60年代を振り返ってみれば、最初の興奮=合理的生活革命は、「三種の神器」で始まった。
それは、テレビ・冷蔵庫・洗濯機だ。
私が幼稚園に通っていたころ、白黒テレビがやってきた。新しもの好きの父親は、さっそく中古テレビを手に入れて、自宅に置いた。
世は、娯楽と言えば、なにより大相撲、そしてプロレス、プロ野球で、力道山が登場して、人々の興奮は頂点に達した。
我が家の居間に置かれた小さな中古テレビは、近所の人々を惹きつけて、力道山の試合中継など、我が家は大変な大騒ぎになった。
しかし、当時は「助け合い風土」の時代、母親も、みんなが集まってくると嬉しそうだった。
でもミッチーの結婚儀式の頃には、大半の家庭にテレビが普及していた。
それから、カマドや石油コンロだった炊飯に都市ガスがやってきた。だが、この時代の合理化極めつけは、何と言っても冷蔵庫と洗濯機だった。
それまでは、木製の保冷庫があればマシで、毎朝氷屋が大きな氷を配達したものだ。
それでも、冷却能力もたかがしれていたので、生ものの保存は困難だった。当時は、何よりも「乾物」が、おかずの主力だった。また、味噌漬けや、身欠きニシンも沢庵のように樽で保存していた。
母の毎朝の仕事は、大きな糠樽から野菜を取り出すことから始まった。
それが電気冷蔵庫の登場で一変した。肉も魚も加工しないで生のままで保存できるようになった。
おかげで割を食ったのが乾物屋だ。あれほど多かった乾物屋も1980年代には、もう見かけなくなった。
生野菜サラダというメニューも冷蔵庫の申し子だ。それまでな煮っ転がしか、漬物だけだった野菜に、葉物サラダが加わった。
洗濯機の登場は、さらに凄かった。サンヨーの側面にスクリューがついた機種は、とんでもなく洗浄能力が素晴らしく、主婦の一生を束縛していた、洗濯・洗い物のうち、もっとも大変だった洗濯から主婦を解放したといってよい。
だから、この洗濯機とともにサンヨー電気への好感度は日本一だった。
こうした「三種の神器」=電化生活が社会を席巻したのは1960年代だが、このときマイカーと電化ライフが、人々のライフスタイルを大きく変えたといってよい。
この電気社会がもたらしたものは、電化企業・自動車企業への憧れであり、「一流企業への憧れ」であった。
なんとかして一流企業で働き、人生を電化生活の進化に捧げるような社会的合意が成立していた。
https://seikatsu-hyakka.com/archives/19492
子供たちにも、競争に打ち勝って一流企業に入社する路線が与えられ、受験戦争も極度に激しさを増した。また、当時の子供たちの主力は第一次ベビーブーム世代で、恐ろしいほど数が多かったから、競争の凄まじさも、今とは比較にならない。
簡単に言えば、「電化による便利社会がやってきた」そして、それは凄まじい「一流企業への社会的憧憬」を作り出し、苛酷な競争社会を招いた。ということだ。
ちなみに、私もアフター団塊世代なので、50人クラスの競争に叩き込まれた口だ。
1970年代は、行き過ぎた合理化社会の進展から、一部の先進的若者たちに、競争社会への疑問=「人間性回帰」をもたらした。
競争社会の価値観がベトナム戦争や巨大国家による冷戦の悲惨を生んでいるのではないか? と警鐘が鳴らされた。
それがベ平連運動、ヒッピー運動につながった。私も、その渦中で翻弄された。私などは、未だに、当時の「自由を求めた思想」の余韻、延長のなかにいると自分でも思う。
1980年代に入ると、さらにさらにもの凄い生活革命が登場した。「パーソナルコンピュータ・マイコン」だ。
ありとあらゆる電化製品にマイコンが付与され、若者たちの生活も、パソコンから無縁ではいられなくなった。
「コンピュータを扱えねば人に非ず」と言われるほど、コンピュータが人々の生活・思想を強烈に束縛しはじめた。
トイレは洗浄便器に進化した。車は自動ブレーキ付きに変わりつつある。家電の大半がマイコン操作だ。子供たちの教育にもコンピュータが大きく入り込んだ。今じゃ、学校教育でも黒板から生徒毎のモニターに変わりつつある。
生活のあらゆる情報はインターネット経由になりつつあり、スマホの操作ができなければ社会から脱落し、取り残されるご時世となった。
だが、新型コロナ禍が二年も続いて、多くの人々が自宅にこもって自分のライフスタイルを見つめ直すことを迫られた今、「本当にこれで良かったのか?」と、与えられてきた一方の束縛的ライフスタイルを見つめ直す機運が生まれている。
https://www.asahi.com/opinion/forum/053/
https://richfield-bs.com/cp-bin/wordpress/2018/11/05/sensitivity/
昔と比べて便利にはなった……しかし、それによって失ったものがあるのではないか?
という視点に、人々が気づくようになったのだ。
私の子供時代、学校授業では鉛筆が使われ、「肥後守」という折りたたみ刃物が鉛筆削りの必需品だた。今では、これを警察庁が敵視して、所持しているだけで犯罪者とする時代になって廃れてしまったのだが、今使われている安全鉛筆削りと比べると、肥後守の汎用性は圧倒的であり、子供たちの創意工夫を後押しする大切なアイテムだった。
https://serai.jp/living/212055
我々の子供時代は、指先を怪我しながら、肥後守の利用によって、安全に対する心構えや、技術など、たくさんのものを得てきた。
それを犯罪アイテムとして敵視し、子供たちから奪い去る時代が訪れたことで、子供たちは小さなナイフ一本で大きな創意工夫を飛躍させる芽を奪い取られたのだ。
本当に、肥後守を子供たちから奪った政策は正しかったのか?
洗浄便座は素晴らしく便利で、もう手放せないと思っている人が多いが、私もその一人だ。私のような酒飲みは、どうしても便が緩くなるので、温水で肛門を洗い流してくれる時代が来て、本当に助かっている。
しかし、一部からは、これによって免疫力が失われているとの指摘が出るようになった。
https://toyokeizai.net/articles/-/410625?page=2
家では、エアコンやテレビなど、コントローラが普及して、こたつに座ったまま、面倒な操作はコントローラを使うのが普通になった。
だが、このことで、便利さと引き換えに、体の機敏な自由を訓練する機会が奪われていった。
ロボット掃除機も便利だ。だが、それはゴミと落とした硬貨の区別がつかない。ついたとしても、掃除というのは、人の生活にとって、大切な運動要素なのだ。
最近の車は、自動ブレーキ装置がついていることが増えた。
追突しそうになったり、モノに当たりそうになったとき、自動でブレーキをかけてくれるのだ。
だが、それは運転から緊張感を奪い、変に車に頼る依存性と緊張の喪失を招いているのではないだろうか?
我々の生活は、「便利になってはならないもの」がある。さまざまな日常生活の負荷が、認知症を予防し、生活に緊張感を与え、心身を活性化させてくれているのだ。
あまりにも便利で、あまりにも安全だと、生活への緊張感が失われてゆく。
それが臆病を生み、認知症を生み出すのではないか?
私は、毎日近所の山を歩いているのだが、ほとんど人と出会うことはない。年に数回程度、キノコのシーズンに会うくらいだ。
みんな山を歩かなくなった。大きな理由は熊や猪が出ることだ。マスコミが、動物遭遇の危険性をあおり立てるので、みんな怖がってこなくなった。
だが、山歩きのさまざまなリスクを克服することは、生活と人生に大きな緊張感と活性化を与えるのだ。逃げてばかりいてはいけないのだ。
便利になって、いいことと悪いことがあることを、我々はしっかりと認識する必要がある。人生には、ときには危険と不便が必要なのだ。
それは、人を活性化させ、認知症を起こさないために大切な要素だ。
もしも、何もかも便利になりすぎたなら、一億三千万、総認知症社会がやってきてしまう。
私は、若い頃から民俗学に憧れて、人間の生活史を具体的に調べることが好きだった。歴史というものは、後世に伝える意味を持った「記録」の成立をいうのだが、日本古代史の記録が成立したことで歴史が始まって、現在に至るまで、おおむね1700年近くなのだが、この70年は、他のいかなる時代と比べても、もっとも生活が激しく変化した時代である。
ヘーゲルは「合理性に向かって進む」と喝破したが、先史時代から現代に至る「進化」をグラフに表せば、明らかに幾何級数の倍々ゲームで進んでいる。
ついでにいえば、この種の幾何級数グラフは、もちろん永遠に天井知らずで上昇するのではなく、ある地点で、突然性質が変化して急降下を始めるのが一般的だ。
上がったものは下がらねばならない。急上昇すれば急降下しなければならない。
私は、ビルゲイツや竹中平蔵が叫んでいる「スーパーシティ」、究極の合理性社会のビジョンを見て、「ああ、これが人類の終着点なんだ」という感慨を禁じ得ない。
つまり、この先、人類は雪崩のように落ち始め、滅亡という奈落に転落してゆくのだ。
私の子供時代、1950年代~60年代を振り返ってみれば、最初の興奮=合理的生活革命は、「三種の神器」で始まった。
それは、テレビ・冷蔵庫・洗濯機だ。
私が幼稚園に通っていたころ、白黒テレビがやってきた。新しもの好きの父親は、さっそく中古テレビを手に入れて、自宅に置いた。
世は、娯楽と言えば、なにより大相撲、そしてプロレス、プロ野球で、力道山が登場して、人々の興奮は頂点に達した。
我が家の居間に置かれた小さな中古テレビは、近所の人々を惹きつけて、力道山の試合中継など、我が家は大変な大騒ぎになった。
しかし、当時は「助け合い風土」の時代、母親も、みんなが集まってくると嬉しそうだった。
でもミッチーの結婚儀式の頃には、大半の家庭にテレビが普及していた。
それから、カマドや石油コンロだった炊飯に都市ガスがやってきた。だが、この時代の合理化極めつけは、何と言っても冷蔵庫と洗濯機だった。
それまでは、木製の保冷庫があればマシで、毎朝氷屋が大きな氷を配達したものだ。
それでも、冷却能力もたかがしれていたので、生ものの保存は困難だった。当時は、何よりも「乾物」が、おかずの主力だった。また、味噌漬けや、身欠きニシンも沢庵のように樽で保存していた。
母の毎朝の仕事は、大きな糠樽から野菜を取り出すことから始まった。
それが電気冷蔵庫の登場で一変した。肉も魚も加工しないで生のままで保存できるようになった。
おかげで割を食ったのが乾物屋だ。あれほど多かった乾物屋も1980年代には、もう見かけなくなった。
生野菜サラダというメニューも冷蔵庫の申し子だ。それまでな煮っ転がしか、漬物だけだった野菜に、葉物サラダが加わった。
洗濯機の登場は、さらに凄かった。サンヨーの側面にスクリューがついた機種は、とんでもなく洗浄能力が素晴らしく、主婦の一生を束縛していた、洗濯・洗い物のうち、もっとも大変だった洗濯から主婦を解放したといってよい。
だから、この洗濯機とともにサンヨー電気への好感度は日本一だった。
こうした「三種の神器」=電化生活が社会を席巻したのは1960年代だが、このときマイカーと電化ライフが、人々のライフスタイルを大きく変えたといってよい。
この電気社会がもたらしたものは、電化企業・自動車企業への憧れであり、「一流企業への憧れ」であった。
なんとかして一流企業で働き、人生を電化生活の進化に捧げるような社会的合意が成立していた。
https://seikatsu-hyakka.com/archives/19492
子供たちにも、競争に打ち勝って一流企業に入社する路線が与えられ、受験戦争も極度に激しさを増した。また、当時の子供たちの主力は第一次ベビーブーム世代で、恐ろしいほど数が多かったから、競争の凄まじさも、今とは比較にならない。
簡単に言えば、「電化による便利社会がやってきた」そして、それは凄まじい「一流企業への社会的憧憬」を作り出し、苛酷な競争社会を招いた。ということだ。
ちなみに、私もアフター団塊世代なので、50人クラスの競争に叩き込まれた口だ。
1970年代は、行き過ぎた合理化社会の進展から、一部の先進的若者たちに、競争社会への疑問=「人間性回帰」をもたらした。
競争社会の価値観がベトナム戦争や巨大国家による冷戦の悲惨を生んでいるのではないか? と警鐘が鳴らされた。
それがベ平連運動、ヒッピー運動につながった。私も、その渦中で翻弄された。私などは、未だに、当時の「自由を求めた思想」の余韻、延長のなかにいると自分でも思う。
1980年代に入ると、さらにさらにもの凄い生活革命が登場した。「パーソナルコンピュータ・マイコン」だ。
ありとあらゆる電化製品にマイコンが付与され、若者たちの生活も、パソコンから無縁ではいられなくなった。
「コンピュータを扱えねば人に非ず」と言われるほど、コンピュータが人々の生活・思想を強烈に束縛しはじめた。
トイレは洗浄便器に進化した。車は自動ブレーキ付きに変わりつつある。家電の大半がマイコン操作だ。子供たちの教育にもコンピュータが大きく入り込んだ。今じゃ、学校教育でも黒板から生徒毎のモニターに変わりつつある。
生活のあらゆる情報はインターネット経由になりつつあり、スマホの操作ができなければ社会から脱落し、取り残されるご時世となった。
だが、新型コロナ禍が二年も続いて、多くの人々が自宅にこもって自分のライフスタイルを見つめ直すことを迫られた今、「本当にこれで良かったのか?」と、与えられてきた一方の束縛的ライフスタイルを見つめ直す機運が生まれている。
https://www.asahi.com/opinion/forum/053/
https://richfield-bs.com/cp-bin/wordpress/2018/11/05/sensitivity/
昔と比べて便利にはなった……しかし、それによって失ったものがあるのではないか?
という視点に、人々が気づくようになったのだ。
私の子供時代、学校授業では鉛筆が使われ、「肥後守」という折りたたみ刃物が鉛筆削りの必需品だた。今では、これを警察庁が敵視して、所持しているだけで犯罪者とする時代になって廃れてしまったのだが、今使われている安全鉛筆削りと比べると、肥後守の汎用性は圧倒的であり、子供たちの創意工夫を後押しする大切なアイテムだった。
https://serai.jp/living/212055
我々の子供時代は、指先を怪我しながら、肥後守の利用によって、安全に対する心構えや、技術など、たくさんのものを得てきた。
それを犯罪アイテムとして敵視し、子供たちから奪い去る時代が訪れたことで、子供たちは小さなナイフ一本で大きな創意工夫を飛躍させる芽を奪い取られたのだ。
本当に、肥後守を子供たちから奪った政策は正しかったのか?
洗浄便座は素晴らしく便利で、もう手放せないと思っている人が多いが、私もその一人だ。私のような酒飲みは、どうしても便が緩くなるので、温水で肛門を洗い流してくれる時代が来て、本当に助かっている。
しかし、一部からは、これによって免疫力が失われているとの指摘が出るようになった。
https://toyokeizai.net/articles/-/410625?page=2
家では、エアコンやテレビなど、コントローラが普及して、こたつに座ったまま、面倒な操作はコントローラを使うのが普通になった。
だが、このことで、便利さと引き換えに、体の機敏な自由を訓練する機会が奪われていった。
ロボット掃除機も便利だ。だが、それはゴミと落とした硬貨の区別がつかない。ついたとしても、掃除というのは、人の生活にとって、大切な運動要素なのだ。
最近の車は、自動ブレーキ装置がついていることが増えた。
追突しそうになったり、モノに当たりそうになったとき、自動でブレーキをかけてくれるのだ。
だが、それは運転から緊張感を奪い、変に車に頼る依存性と緊張の喪失を招いているのではないだろうか?
我々の生活は、「便利になってはならないもの」がある。さまざまな日常生活の負荷が、認知症を予防し、生活に緊張感を与え、心身を活性化させてくれているのだ。
あまりにも便利で、あまりにも安全だと、生活への緊張感が失われてゆく。
それが臆病を生み、認知症を生み出すのではないか?
私は、毎日近所の山を歩いているのだが、ほとんど人と出会うことはない。年に数回程度、キノコのシーズンに会うくらいだ。
みんな山を歩かなくなった。大きな理由は熊や猪が出ることだ。マスコミが、動物遭遇の危険性をあおり立てるので、みんな怖がってこなくなった。
だが、山歩きのさまざまなリスクを克服することは、生活と人生に大きな緊張感と活性化を与えるのだ。逃げてばかりいてはいけないのだ。
便利になって、いいことと悪いことがあることを、我々はしっかりと認識する必要がある。人生には、ときには危険と不便が必要なのだ。
それは、人を活性化させ、認知症を起こさないために大切な要素だ。
もしも、何もかも便利になりすぎたなら、一億三千万、総認知症社会がやってきてしまう。