リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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老いと死の復権

2006年09月13日 | Weblog
医療現場は「頭脳労働」「肉体労働」であるとともに「感情労働」であり、常に極度の緊張感にさらされている。医師などは技術者であるとともに役者でなくてはならない。タフでなければ勤まらない。

患者の中には自分の健康をまるまるアウトソーシングし、リスクや生命の限界はすべて医療におしつけ、何かあれば訴える態度だ。何かあるまで自分や自分の家族が病気になったり障害を負ったり、人は老いて死ぬなど想像もしない人が増えてきた。
彼らにとって自分や家族の不幸はすべて医療者のせいということになる。

医療現場は社会から守られていないと感じている。
医療従事者は病院からも守られていないと感じている。

医療従事者は自分の身に降りかかる火の粉を払うために、あらゆるリスクを話し承諾書にサインをもらう。検査等も防衛的に過剰になるし、そして少しでもリスクのあることはやろうとはしなくなる。

患者の疾病(disease)には診断治療をしようと努力するが病感(illness)に丁寧に対応する余裕まで現在の医療現場にはない。
かくして不信感は強まるばかりである。

これは、お互いに不幸なことだ。

このギャップはどうして生まれたのか?
医療現場と社会とのギャップはどうすれば埋められるのだろうか?

「健康幻想」をふりまきその実力以上に何でもできるように見せ、商売のタネにしてきた医療側も悪かったのだろう。

次に高齢者として我々の前にやってくる世代は、「お医者様におまかせ。」であった時代とは違う。「知らしむべからず、依らしむべし」というわけにはいかない。

これからの世代は権利意識も強く、インターネット等の発達により情報の入手も容易になったため、人によってはものすごく勉強もしてくるだろう。
これ自体は良いことだと思う。プロフェショナルとして適切な支援、情報公開をおこなうべきだろう。診察室の場だけの情報提供ではあまりに足りない。
「おもいっきりTV」でみのもんたに好き勝手言わせている場合ではないのだ。

その一方で、これからの世代は、日常から生死や病、老いや障害が病院や施設に隠された世の中で生きており死や病にもリアリティを感じられなくなってきている。

医療従事者は地域社会での生、死や病、老いや障害を復権する運動をしなくてはならない。かつて医療が地域から奪い隠してきたこれらを再び地域社会に返していく。そのような環境を整えていくこと。
Society for Allの実現。

これこそが今、我々がやっていることなのかもしれない。

そのためには先立つものがいる。
みんなのお金の使い道に関して、命や生活よりも開発が大事な財界に、みんなのお金の使い道を決めさせてはいけない。

まずルールとマニュアルを!

2006年09月12日 | Weblog
 東京に赴いたときに東京都庁の本屋で隔年ごとに刊行されている東京都職員ハンドブック(2005)を手に入れた。600円と安かった。きっと都職員は全員保持しているのだろう、主任試験などはここからも問題がでるようだ。こういうことを仔細に覚えられる人が出世するというのなら自分はそこそこいいところまでいけそうだ。「都庁の星」も夢ではない。

 たまたま思いつきで買った本だがコレ、実に面白い。統計や財政など東京の現状、都政の基本方針、電子都庁の推進、地方自治制度などについてまとめた部分もあるが、特に面白いと感じたのが弟Ⅲ編の事務の手引き、弟Ⅳ編の組織と仕事についてまとめた部分である。(いわゆるマニュアル部分)
  
 このハンドブックにはあらゆる業務手順、心構え、仕事の進め方、業務改善、接遇から情報公開にいたるまでおせっかいというくらい懇切丁寧に書かれている。大きな組織になると決め事、よりどころはきちんと明文化されていないと大混乱するからだろう。

 市や県の職員の文化、思考様式を知るために、そして組織運営や構造改革を学ぶためには、こういったマニュアルはなかなか良い教材だと思う。

 担当が替わっても業務が滞りなく遂行できるというのがシステム(あるいは組織)というものである。しかし、周囲の状況も変化するから、そのシステム(組織)が状況に合わせて変化させる仕組みをシステム自体に盛り込んでおかなくてはならない。(例、生命、政治、組織など。)これが上手くいかないシステム(組織)はやがて崩壊する。

自分はこういったマニュアルやルールは大好きである。

 マニュアル人間だと馬鹿にされたり、「ルールですから。」という言葉がギャグになるようなご時勢である。しかし組織にはルールやマニュアルは必要だ。生物組織はDNAという物質に書き込まれた遺伝子というマニュアルを、物理法則というルールでひもどいている。これがうまくはたらかないと、癌や自己免疫疾患などの病気になることがわかってきた。
 
 病院にも機能評価に合わせて各部署で作成された業務マニュアルはあるにはあるが、実際にきちんとは運用されていないようだ。なにより問題なのはマニュアル運用のルールが明確でない点だ。(企業においていは理念や最近の言葉で言うならクレド、政治の世界においては憲法がそれにあたるだろう。自然界においては物理の法則だろうか?)組織図も旧態依然で変化にすばやく対応できるものとは思えない。佐久病院の遺伝子はどのような形で引き継がれているのだろうか・・・。

 こういったルールやマニュアルをいい加減にしていると、変化に対応できなかったり、システムの修復抑制機構が不全をきたしたりする。弱っているところに他の微生物に感染したり、敵(癌や他の微生物)から身をまもるための手段として発達したはずの免疫系が自分を攻撃しはじめたり、システムを修復するための癌抑制遺伝子が働かずに発癌するようなものだ。そうしてシステムが維持できなくなったときに組織は崩壊する。

 組織として維持していくためには、対症療法に終始していてはいけない。何をすべきかは本当は明確なのだ。

 といっていたら、「県庁の星」という映画を思い出した。
「県庁の星」では、県庁のエリート、野村が三流スーパーに派遣されて早々マニュアルと組織図をみせてくれというが、指導役についたパートの二宮にそんなものはないと一蹴される場面がある。民間の現場でもまれ、人間的にも成長した野村は、現場主義、実践主義の二宮との絶妙なコンビで、さまざまな書類やマニュアルを完璧につくりスーパーの構造改革にも大活躍。熱血漢へと変身しこんどは逆に県庁組織の意識改革にいどむ・・・。というストーリー。なかなかの傑作であった。

そういえば佐久総合病院にも長野県庁から人事交流で研修に来ていた人もいたが、彼は何を感じて、何を残して帰ったのだろう。

 自分なんかは、いろんなところに興味が飛び、生物でも社会でも機械でも、どのような仕組みや理屈でシステムが動いているかと観察するのは本当にあきない。しかし、それは直感的で細かい数字などをあつかうのは苦手である。
 
 不必要に複雑でわかりにくいものや、雑多なだけで美しくないもの、形式的なもの非合理的なものにはイライラし、そのようなところにいるだけで疲れてしまう

 行動するに当たってはフレームワークがある程度決まっていないと、社会認知が困難で不安になる性質なようで、あいまいな指示やルール、なあなあにされると、どのように動いていいかわからなくなり疲れてしまう。きちんと明文化されたマニュアルがあると非常に安心する。

 だから、この社会で上手に生きていくために、自分専用マニュアルを作成して成功パターンを蓄積し、アップデートしていかなくてはならない。

 一方で、モノや仕組みなどをデザインしたり作ったり絵や文章で表現するのは好きであきずにいつまででも続けていられる。そういったときには人に邪魔されずに何日でも引きこもっていたい。
 
 人の感情を読んで共感してみせたり、刺激の多い雑多な環境で短時間で判断を迫られるなかで優先順位をつけて一つ一つをこなしたり、どうなるか先が読めなかったり、非合理的なルーチンワークをきちんと淡々とやることは苦手だ。(すぐに飽きてしまい短期間で著しく疲労する。)

 だが、科学者や文化人類学者のように何かを観察し、見えないルールや仕組みを明確にする。文化を運ぶ花粉の運び屋(あるいはウィルス)のように、ある場所から別の場所へと遺伝子を運ぶ。実験者として試行錯誤を繰り返し、そしてマニュアライザーとして、持続可能な新たなシステム(組織)をつくる。などの役割は組織の中で担うことはできるかもしれない。(上記のような仕事でエネルギーをつかいはたしてしまわなければ。)

 自分は、硬直した組織の中で、いわゆる普通の医師としてやっていくのはとても無理だ。地域社会のかかえる問題、社会の矛盾や不合理が気になって目の前の患者さんのことに集中できない。

 職を変えるとすれば、よいパートナーに恵まれれば経営者や企業家、政治家も可能だろうが、単独でやるならジャーナリストや作家、芸術家、学者やコンサルタント、システムエンジニア、といったものの方が良いかもしれない。 

初台リハビリテーション病院

2006年09月11日 | Weblog
回復期立ち上げメンバーの精鋭(?)とともに回復期リハ病棟のひとつの到達点としてのモデル、初台リハビテーション病院を見学。

団塊の世代が引退し、脳血管障害の好発年齢に突入するに当たって急性期、回復期維持期の連携モデルをつくるために看板塔としてリハ医療の過疎地、東京のど真ん中に作った回復期リハのモデル病院。回復期リハ病棟の産みの親といわれる石川誠らの砦だ。小さなビルだがそこへのマンパワーの集積ぶりはすごい。全国から見学にくる病院関係者も相当多いようでPRや案内もなれたものだ。(参考:東京へ、この国へリハの風を! )石川誠らの考える回復期リハ病棟のモデルルーム、ショールーム的な役割を担っているのだろう。

組織のデザイン、情報共有を主目的とした電子カルテシステムのインターフェイス、どの職種も同じユニホーム(方のところにマジックテープで止めるタグが違う。)、病院のつくりなどのデザインもチーム医療による生活の場でのリハビリという一貫した思想によって貫かれている。

あちちこちに病院らしくなさがあふれている。エントランスはシティホテルや美術館のよう。スタッフエリアは先進的なIT企業のよう(カフェテリアやフリーアドレス制の導入など。)、リハ室はスポーツクラブのようであった。

 患者は脳血管障害の回復期がほとんど(整形は受け入れず。)で、発症2ヶ月以内~6ヶ月までの脳卒中回復期にこの病院でリハができるのは、宝くじが当たるようなものだというくらい人気の高い病院。

 しかし農村の高齢者には居心地は決してよくないだろうとも思う。毎日がホテル+レストラン+美術館+スポーツジムでは疲れてしまわないか?合宿期間中だからいいのか?

患者さんに対してはホスピタリティあふれているが、スタッフ間のタイムマネジメントや情報のやり取りなどにピリッとした雰囲気がただよう。

刺激とアイディアをたくさんもらって受けて帰って来た。

 しかし地域住民による地域住民のための地域拠点病院である田舎の大病院である佐久病院で同じようにはできないだろう。どんな大変な人でも最期までささえなくてはならない。維持期(むしろ生活期とよびたい。)との連携は、地域での生活や看取りまでささえていいる、「地域ケア科」や小海分院、地域診療所や福祉との連携のとりやすい佐久ではmより小回りの効いた別の展開ができるだろうう。(近森病院に近いモデルか。)

ソフト、ハード、人ともに圧倒的に乏しいリソースで人事権も予算もないところからの出発だがとにかく動き始めた。ここから出発するしかない。

「なんだかこれまでは気が重かったけど、わくわくしてきました。」

という若いリハスタッフの言葉が聞けたのが一番の収穫。
自分も同じ気持ちだ。ついた火を消さずに風を送り、薪をくべ、どのように大きく燃え上がらせていくか。
他のチームメンバーにどのようにこの興奮を伝えていき、モチベーションを上げ、システムとしてまとめあげていくか・・・。

発達障害親子ディキャンプ

2006年09月10日 | Weblog
 当直明けの仕事をなんとか片付け、望月みどりの村というところでおこなわれた発達障害の子供の、親子でのディキャンプに途中からお邪魔させていただいた。佐久病院の小児科外来、臨床心理士、リハスタッフを中心とした発達外来が主催して今年で6回目だそうだ。両親や兄弟も参加して非常ににぎやかである。

 研修医の小児科ローテーションのときに、ボランティアで参加して以来2回目。親が講演会で勉強したり情報交換している間、子供には広汎性発達障害(PPD)の子供1人に、看護学生や研修医(事前に学習会あり)のボランティアが1人がついて、アスレチックや体育館で遊ぶ。リハビリの作業療法士や言語聴覚士もスタッフとして参加している。

 今回は公演会の方にもぐりこんで長野県精神保健福祉センターの言語聴覚士の日詰正文さんのお話をお聞きした。あったかい雰囲気の日詰氏は、発達障害の家族や成人の発達障害の方を支援すする活動をされている。言語聴覚士だが、ほどんどケースワーカーのような仕事をしているそうだ。自分の身を振り返っても、非常に思い当たる話も多く参考になった。

 広汎性発達障害といってもアスペルガー症候群などの軽症から、重症までさまざまであるが、まず知ることが重要とのこと。最近、かなり興味をもって、専門書や当事者の書いた本などを読み漁り(コミック「光とともに」や、泉流星氏や、ニキリンコ氏の本などは入りやすい。)、なんとなくわかってきたが、不可解に思える行動の裏にはちゃんと理由があるし、そだてかたにもコツがある。

 マイノリティの彼ら(自分も)が社会でうまくやっていくのは難しい。彼らを理解し、社会でやっていけるスキルを身につけさせ、社会不適応による2次性障害を起こさせないようにすることが重要なのだ。 広汎性発達障害の人は、「見えすぎている、聞こえすぎている。かもしれない。」と考える。そのために刺激を減らすことが重要。
 それから記憶のコントロールが苦手で覚えられない、逆に忘れたくても忘れられない、などの特徴がある。かつての失敗の記憶やいじめられた記憶などが何年もたって突然出てきたりする。

 普通なら考えればわかる、あるいは自然に身につくことも、わからずどうしていいよいかわからなくなってパニックになる。上手にほめ、またしかり、やり方を教え、そのたびに練習して成功パターンとして身につけることが重要。またサインなど視覚による入力を活用する。そして人に聞くという習慣も身につける。そうすれば大きな失敗はしなくなる。

 社会に出て苦労している成人のPPDの方と付き合う仲で日詰さんが伝えたい、PPDの子が身につけておいて欲しいスキルとは

 ① 休み上手になってほしい。
  (熱が出ても気づかない。つかれていてもぶっ倒れるまで気づかない。)
 ② ごほうびの意味がわかるように。
  (社会で働くにあたって、給料の意味などを理解。)
 ③ 仲間とダベる、ぐちるなど、ストレス発散の仕方も練習する。

 ・・・などなどだそうで、自分にとっても非常に参考になる話でした。

救急の日

2006年09月09日 | Weblog
「せんせ、今日は何の日か知ってる?」
「?」
救急の日だよ。」

ということで救急外来の当直です。
でも、平和な夜であって欲しいです。

 救外の当番自体は嫌いではないのだが、通常業務の外に不定期に入ってくるので相当ペースを乱されストレス、不調の原因となっている。疲れがたまったところに追い討ちのように当直が入ると、疲労がひたすら蓄積しどうしようもなくなる。同僚が病欠したこともあって業務量が増えた7月、8月の疲労はやっと最近になってリカバリーしてきた。

 遠方からも重症患者がくるようになり患者がふえたのにもかかわらず、研修医は増えるも正当直体制は以前と同じなのでいろんなところに矛盾がでてきている。オーダリングの導入や承諾書などが増えひとり入院させるに当たって付随してくる業務量自体も増えている。

 当直では眠ることはあまり期待できないうえに翌日は引き継ぎ体制が整っていないので、通常業務のほかに、病院中にばらして入院させた患者さんの回診、指示だしや各専門科や主治医への依頼、引継ぎに病院中を駆けまわらなくてはいけない。
(入院何人になるか予想がつかないことが非常なストレスである。(0人(最低)~13人(最高)、平均3人くらい?)

 そんなことなら通常の業務として組み入れ、曜日を固定して翌日の病棟フリーとセットにするなどしてもらったほうがまだ動きがとれよっぽどありがたいのだが・・・。発表のたびに、当直日を変わってもらう交渉をするのも大変である。(曜日によっては物理的に当直業務に入るのが無理なのだ。人数が多いので当番を決めるのに、あらかじめ予定を聞くなども無理なようです。)

看護が専任化され、だいぶレベルアップし業務もスムーズになったが医師に関してはこれからだER型救急としてしっかりシステムを作っていかないと、医師が減り、患者が増える冬が恐ろしい。

 「とある科の医師はいつも当直医がその科で診るのが合理的と判断したのに診てくれない。(コミュニケーションの問題もあるが)という声。」や、ある若い医者が13人入院させて大変だったという声があがり、一度話し合いがもたれたが、「それは、かわいそうだね。運が悪かったね。問題だね。」
で、結局、結論もでず(ださず)それっきりで終わってしまったように自分には思える。病院トップが本気でないのだろう。自分が医療事故の当事者になるまえに、このような病院からは早めに立ち去る方が良いのか? 


 

ねば塾・年商1億5000万円の作業所

2006年09月08日 | Weblog
 中途障害者や障害児のリハビリに関わらせていただいていると、目指すところは就労ということになる。できれば賃金雇用で、その人の能力が活かせ働きたいという思いを実現できるところへとつなげたい。しかし、病院で高次機能障害、中途障害の方、身体知的障害の方の復職、就労をリハビリテーション医療の立場からお手伝いさせていただいても、ただでさえ就職に厳しいこのご時勢、たいていは行き詰ってしまう。

 病院では、次から次へとやってくる患者を、ベルトコンベヤのように捌き、なんとか目鼻をつけて、追い出すように退院させるので精一杯。
 自立だの社会参加だのきれいごとはならべるが、退院した患者さんは障害をかかえその先の人生は厳しい。

 高齢者は型どおりケアマネに引継ぎ、それでも充実してきた在宅医療や介護保険のサービスにつなげるので勘弁していただいているのだが(それでも問題は山積しているが)、問題は若い人だ。残りの長い人生の社会参加が、ただ受身でディサービスに行って風呂に入ってお茶を飲んでいろというわけにもいかない。

 日々の業務におわれ、一人ひとりに丁寧に関われない状態に行き詰まりを感じており、なにか釈然としない不全感をいつも感じていた。

 病院でのリハといってもせいぜいADL(更衣、入浴、歩行くらい)までであり、その先に地域に帰っても社会参加は難しい。知的や身体障害児が成人して、親がいなくなっても働けて生きていける場も必要だ。
 中途障害たる高次脳機能障害(記憶、注意、遂行機能、失語など)に関しても、どんな障害があり、どんなことならできそうかというある程度の評価の方法は確立してきた。しかしそれでおしまいだ。(しかもマイナスの評価だ。)その後の支援をどうしていいかわからなかった。

 運転ができないと公共交通機関の衰退した過疎地域では病院や職場に通うのも難しい。法律の定める障害者雇用枠で、お願いして雇ってもらっても同僚との普通の付き合いや、横のつながりもなく、ただ行って、ただ帰るだけで、よろこんでつかってもらっていない必要ないと思われているのをうすうす感じているような状態では針のムシロであろう。

 若い脊髄損傷などの身体障害のみの方では頭脳労働者として活躍されている人もいるが精神障害、知的障害、高次脳機能障害などは彼らのことを理解して一緒に働き継続的にマネジメントできる人がいないと働くのは厳しい。就労支援といっても会社にとっても障がい者にとってもいいね、という双方が満足できる関係はなかなか難しいようだ。

 初期研修のときに見学させていただいた地域の作業所も、企業に頼み込んで細々とした下請け仕事をもらっているがその単価は今どき非常識なくらい安い。こういった単純作業をだれが一生懸命やっても1時間でやっと180円。これでは生活できない。こういったのが現在のデフレのモノの異様な安さを下支えしているのだろう。(日本と途上国の関係もそうなのだろうが。)そしてますます自分たちの首をしめている。

 なんとか未来を模索しよう、かかえている患者さんたちにできることはないかと
同じ思いをもつ同僚のMSWと一緒に、佐久市鳴瀬にある「ねば塾」にお邪魔させていただいた。

 「ねば塾」は石鹸をつくっている有限会社である。アットコスメという化粧品サイトで一番人気のあるの石鹸となり、中でも透明石鹸の技術では日本一で、さまざまなものを埋め込んだ透明石鹸を注文に応じて作っている。ハンズやロフト、ツルヤなどにも出荷しており、北海道から沖縄までの観光地などにも相手側のブランドでおろしている。

 今では月産5万個の石鹸をおろしており注文が追いつかない状態だという。次々と箱詰めして、特別契約している佐川急便が毎日全国へ発送している。今では年商1億5000円を売り上げ、年800万もの税金を払っている優良企業だ。お邪魔している間にも全国から注文のFAXがつぎつぎと舞い込んでいた。 

 しかし、この「ねば塾」。ただの会社ではない。この会社は約50人いる従業員の半分近くが知的障害者を中心としたハンデを持った人なのである。一酸化炭素中毒後遺症の高次脳機能障害の方もいる。しかしねば塾は補助金を受けない普通の会社で最低賃金を保証している。その賃金と障害年金をあわせて何とか生活ができる。

 彼らの能力はさまざまだが、公共交通機関を使って外出したり、お金を管理したりといったことはちょっと難しい。それでもそれぞれにあった仕事を探して最低賃金を保証している。そして与えられた、その一つの仕事に関しては職人なのだ。

 ねば塾を作った笠原塾長に案内された事務所は、ネコが昼寝し、トンボと蝶の舞うのどかな事務所。パソコンや書類やFAX、サンプルなどが雑然と並べてある。
 作務衣を着て、長髪にひげを生やした独特の風貌で自分が前面にでたら某反社会的宗教団体のグルと間違われるから前面には出ないという笠原塾長は、ただものではないオーラが漂っていた。

 ある障がい者施設で指導員として働いていた塾長は、施設にすむ障害者の多くが「完全なる社会参加」(彼ら自身が働いて稼ぎ、その糧で生活する事)を望んでいると知り、知的障害者2人とともに施設を飛び出て佐久地域の土建屋に就職した。

 自分も一緒に働き、何かあったら責任を取るからといって一緒にやとってもらったそうだ。(まさにジョブコーチである。)そしたら彼らも結構仕事をやれた。施設を出たい希望者は他にも結構いたが、地方の小さな土建屋ではそんなには雇えない。 

 それなら自分で会社をつくるしかないと「ねば塾」をはじめた。はじめから今で言う社会的企業(ソーシャルエンタープライズ)として出発したわけだ。
 ものを作って売ろうと考えたとき、、使えばなくなる生活必需品で自分で何とかやれそうなものということで石鹸というアイディアが浮かんだ。ちょうど琵琶湖の富栄養化などで合成洗剤から粉石けんを使おうということが言われ始めたころだった。

 しかし最初は苦労の連続で10年は在庫と借金の山であったという。地域の便利屋のようなこともやり、墓堀りから何でもやった。そして頼まれて少しずつ障害者の雇用を増やし、研究をかさねた自慢の石鹸を生産して販路も拡大した。一方で近所の稲刈りの手伝い、市の公園の清掃なども請け負って事業を拡大ていった。

 そして28年かけて、やっといまの「ねば塾」があるのだという。工場の建物などもみんな自分たちでつくってきた。最近ではこんにゃくのスポンジなども作っているし、他の企業に人材派遣的なこともやっている。今度、新しい石鹸の機械を入れたばかりだといって見せていただいた。小口の顧客を相手にしており、大手のメーカーとは競合しない隙間産業である。買う人は商品の石鹸がそういったところで作られているという物語を知らずに買う人がほとんどで純粋に商品として勝負をしている。

 どこでもやっているようなクッキーや絵葉書では商売にならない。つねに新しいことを探して、先手、先手で花火を次々と打ち上げるのが重要という。

 近所の主婦なども働いており、自分で通えない障害者は送迎されたり親に送ってきてもらったりするがその場合は通勤手当を出しているという。しかし一緒にやってきた人たちも歳をとり、親がポツポツなくなりはじめたのですむところをということでグループホームも作った。高齢化に備え今度はバリアフリーのグループホームも作る計画だという。

 自立支援法などの制度の利用も少しづつ考えてはいるが(なにせ事業から800万も税金を払っているのだ。)、全部手弁当でやってきた自分たちとしてはもらえるだけで「えっ?」という感じだそうだ。
本体とは別に作業所も作り、最初は福祉就労から入り、なれれば賃金雇用にすることも考えているそうだが、制度の利用はあくまでおまけで、本業の事業として成り立つようにということを常に考えている。

 こんどの障害者自立支援法はいいかわからないが、それでもやっと制度が追いついてきて今、自分たちがやっているようなことも、どこかの制度にも引っかかり利用できるようになった。しかしはじめた当時はワクがきっちり厳しく決まっており役場に言っても門前払いされ個人が小さな福祉施設をやるなんてとてもできなかった。

でも補助金をもらいながらやってたらここまでこなかっただろうともういう。

 他の福祉施設の批判になるが、自分は安全なところにいて、障害者をあつめて時間つぶさして仕事させるのが目的じゃない。同じ船に乗り、同じ財布でやっているから本気にもなる。「補助金ください。障害者だからカンベンしてくれや、納期のある仕事はできません。」というような甘ったれた態度はとらない。

そのかわり仕事内容に応じてちゃんとした賃金を支払うのだという。

 いままでの福祉行政は障がい者を当てにしなかった。しかしこれからはそれではダメだ。仕事をうまく選べば能力もあるのだが、一般企業では厳しい。かといって作業所などの賃金では生活できないし、能力も生かせない。合う服を探しても、一般企業ではきつすぎるし、福祉施設はダボダボの服でで足をひっかけて転んでしまう。

 一般企業と福祉施設は両極端で、その間のちょうどいい場所があまりないのだという。障害者、それぞれの個人に合うものなんていくら探しても見つかりっこない。それならば理想のものを自分たちで作らねばダメだということではじめた
「ねば塾」は「福祉事業所」という看板を掲げている。といっても福祉の事業をやっているわけではなく、福祉+事業という意味なのだそうだ。

しかし、笠原さんの言うには、自分たちにできるのは環境設定のみだという。
農家でも同じことだが、稲は手で引っ張って育つわけではない。丁寧に水を調整し、肥料をやって育つ。でもカラカラだとそだたないし、ビチャビチャだと根腐れを起こしてしまう。種が伸びないのを種のせいにしてしまってはいけない。
彼らが地域で何ができるかをつねに考えなくてはならないのだという。

何かやるのに当たって、ワクだけを使って生きていこうとしてはダメ。
企業にしろ、終身雇用にしろ、年金にしろ、確実なものは何もない。ならば必要とされているものを考え、夢をおいかけ、まず自分が動く、そうして続けていけば、そのうち法律や制度が追いかけてくるのだそうだ。こういった事業を福祉の人間だけでやろうとしても無理で、経営が得意で事業のわかる人とペアでやらなくては成功は厳しい。(参考図書: 福祉を変える経営

笠原さんに
「まるで小さな国みたいですね。」

というと。

「自分は総理にはなれないから、こうやって注文受けたり、申請書類をかいているわけだ。」

とうれしそうだ。

しかし国だとすると日本よりよっぽど自立しており、あてになる国だ。
福祉も絡めて、農業(食料)、ケア、エネルギーの自給ができれば理想ともいうが、今の農業制度では厳しい面もある。
でも、そういうことを考えている仲間もいるとのこと。
若いころから夢を語り合った仲間は、それぞれ地域で作業所などを作っている。
日本中の地域が、自立したこういった小さな国の集まりになると本当に面白いことになると思う。
  
「オレがおまえたちくらいの年の時には、もうこんなことはじめてたぞ。最近の若い者は夢を語らなくなった。もう俺らは寝るとコッチこいと声が聞こえる年になった。若い者は夢を追いかけて自分で動かなきゃだめだ。」

とハッパをかけられた。

病院とは社会のニーズが嫌でも見えすぎてしまう場所である。
一方、過去の患者さんたち、住民たちから学んできた技術の集まるところでもある。

佐久病院を育てた故若月俊一氏や、往年の職員、伝説のMSWたちはそのニーズを日常業務、惰性というブラックホールにしまいこんでしまわずに、技術を研鑽、導入するだけではなく地域での活動、運動につなげた。
制度化されるより前に、そこにニーズがあれば手弁当で病院際、健診や老人保健施設、地域ケア活動などをおこなってきた。

しかし変化することをやめた今では、社会の変化に対応できず、目指すところも見えず、制度や法律をヒィヒィいいながら追いかけて、スタッフをそろえ、無理やり移動し、医療としての体裁を整えるので精一杯。(それすらも怪しくなってきているが。)

この国(病院)は果たして当てになる国だろうか?

それでも、佐久病院と小海町が関わって立ち上げた小海駅に併設された診療所の2階の授産施設「はぁと工房ポッポ」や、院内の有志やOBがNPOとしてたちあげた「せんたくハウスそよかぜ」、それから北相木診療所の医師たちでつくっている「NPO法人北相木りんねの森」、「宅老所、八千穂の家」、また地域の支援者が一体となってウィズハート佐久というNPO組織で作業所やグループホームを運営している。
こういうことができるのは、いい病院だなぁと思う。

しかし残念ながらこれらは病院本体としての動きではない。問題意識をかかえたアウトローがやむにやまれずはじめたものだ。良くも悪くも普通の病院になってしまっている肥大化した組織で、お役所的になってきている病院や厚生連は医療よりもスピードの速い福祉事業にはとても手を出せないのだろう。
JAだってまだまだがんばれるし、もっと連携も取れるはずだ。 

地域の高度先進医療を担うことは確かに重要でこの地域では佐久病院にしかできないことだ。
しかし地域での生活を支えられず、ニーズがあることに目を向けないと、いくらいい医療、病院があっても宝の持ち腐れになってしまう。福祉とは天寿を全うする歓びに与るという意味だそうである。
医療があるおかげで避けられる悲劇はあるだろう。しかし福祉がなければそもそもの生活できない人もいっぱいいる。
さらにいえば、そもそも地域が成り立たないとそこで生活できない。福祉分野では中込を中心とした恵仁会グループなどのほうがはるかにアクティブかつしたたかにやっている。

いま手をつけている仕事(病院のエンジンづくり。生活準備期リハビリテーション病棟)が一段落したら、今の職業や職場にはこだわらず、医療と福祉の架け橋として自分の足でやりたいことをやろうと思う。それまでは雌伏し能力を高め、仲間をみつけてゆきたいと思う。

病院や福祉施設で働いている若いスタッフが、能力を磨き、仲間をみつけ、地域のニーズを感じて次々と事業を立ち上げていく。そして病院がそれを後押しする。そして失敗したものがいれば、また、やさしく受け入れる頼りになる地域のよりどころ。

病院は患者のみならず、そこで働くスタッフもエンパワメントしサポートするミッションサポートセンターとなることができる。病院を地域でそういう役割も持った場所にしたいというのが目下の自分の野望である。

マッチョ老人のひとり介護予防

2006年09月07日 | Weblog
信州の高原はやっと涼しくなり秋を感じる気候になった。
朝晩など、もうすでにコタツを使い始めている家もある。
はたけも10月いっぱいでうちばになる。(シーズン終了。)

高血圧等で高原野菜の村の診療所に通っている80を超えたご婦人。
いつもあまりに元気なので秘訣を問うと

「毎日腹筋をしている。30回を朝昼晩の3セット。それから自転車こぎ30分間(1500回)やっている。」
という。

「だれから教えてもらったのか?」
と聞くと

「自分で考えて10年前からやっている、おかげで腰痛も膝痛もなく元気でやっている。」
のだそうだ。

腰は曲がっているが、なんと大腿周径も40cm(これはすごい値だ!)もある、若月俊一もびっくりのマッチョばあちゃんだ。
自転車エルゴは、確かに膝関節に負担をかけず周りの筋肉を強化し、心肺機能を強化する合理的な方法だ。

癌検診としての内視鏡やエコーなどをすすめても

「まえはやってたけど、もういいよ。」という。

病院から訪問診療に行っている、通院の足がなく米寿をむかえた別のおばあちゃん。夏の間はヘルパーや訪問看護の助けも借りながら1人暮らし。寒さの厳しい冬は関東の子供のうちで過ごす。(けっこうこのパターンも多い。老健の越冬入所なんてのもある。)
1人で庭でいろんな野菜をつくっていて、子供たちが来たときにはたくさんの野菜を車に満載してかえるという。包丁で手を腱まで切ってしまったときも病院にいかず自分で治してしまった。

「このあいだ、米寿のお祝いで、市長や、福祉の人、老人会の会長や、カメラマンまで車2台で来てなにか困ってることはないかって聞いて、写真をとって記念品をおいて帰って行ったよ。」

「もういつ逝ってもいいよ。でも苦しまないように死にたい。よろしく頼むよ。」

といつも言う。
運動不足でいつも疲れている自分よりよっぽど健康だ。
こっちが元気をもらいに行くようなものだ。

このお二方に限らず、小さな畑にでて自家用の野菜を作ったり、草取りしたり田んぼの水を見に行ったり、毎日自然に運動している高齢者はみんな元気だ。

この調子で元気に90過ぎまで生きれば、癌でも脳卒中でも肺炎でも大病を患えば、たいていはロウソクの火が消え熟した実が落ちるようにあまり長引かずにあっさりとあの世に逝けることが多い。

プロスキーヤーの三浦敬三(三浦雄一郎の父)などは100歳を超えても山でスキーを楽しみ、最後は見事な引き際であった。

 さてさて現場を大混乱に陥れている役人が机上で考えた介護保険は新予防給付で虚弱高齢者にプログラムを用意してマシンによる筋トレなどをさせて、要介護状態になるのを防げという。動ける人は、ベッドや車椅子のレンタルで使っちゃダメだという。
 パワーリハビリなんかもよさそうではあるが、実はさまざまな福祉ビジネス業者やパワーリハビリの機器のメーカーをもうけさそうという魂胆ではないかとかんぐってしまう。

 介護予防というのなら年取ってからあわててやるものではなくて、若いころからの生活習慣(食生活、運動など)の積み重ねであろう。自家車でも大切に使えば長持ちするように体や心もメンテナンスし、いたわりながら大切に使えば長持ちし、脳血管障害や転倒骨折、心配機能の低下を予防できる。

 もちろん高齢になり、要介護状態になっても、少しでもよくしよう、自立できるように援助しようと働きかけをするリハビリの発想は重要だし、身体機能が低下しても安全に運動できる環境の整備や指導できる人材の配置は必要なのだろうが・・・。

 しかし、やむを得ず介護状態になった人にも生存権を保障するための介護保険なのに、予防するなんて要介護状態はまるで悪いことみたいではないか。「要介護状態になってしまったばかりにお国のお金をつかって」と怒られているようだ。
 
 筋トレなどの介護予防が介護費用減の効果があるというエビデンスはないということは二木立も指摘しているところである。(⇒参考文献
 
どうせ、お金をかけるならQOLを重視したものにするべきだろう。
それならば、高齢者が楽しんでやっているゲートボールなどをベースに発展させたりすなどのほうがよっぽどよさそうだ。学生時代に地域の高齢者とサークルメンバーの学生チームの対抗戦ではじめて経験したが、なかなか頭も使うし面白いゲームであった。ボードゲームとスポーツ(?)を組み合わせたようなものといえばいいだろうか?よくできたゲームではある。
農山村の高齢者は運転できる仲間の車に乗り合わせてゲートボール場に集まる。冬でもゲートボールのできる屋内ゲートボール場もある。大々的に開かれる地区対抗の大会などは大盛り上がりだ。

 また、個人プレーなら北海道ならパークゴルフ、長野ならマレットゴルフなんてのも人気だ。あるいは中国のようにどこでも街角や公園で太極拳をやるというのはどうだろう?

 認知症のリハビリなんていって無理やり音読や計算をさせるくらいなら、囲碁や将棋、マージャンなどのゲームを子供たちと一緒にやったほうがよっぽどいいとおもうのだが。

コミュニケーションの4つのタイプ(CSI)

2006年09月06日 | Weblog
 さまざまな心理、コミュニケーション技術には興味があって注目している。エニアグラムや交流分析、男女の差、精神障害(シゾフレ形、メランコ型)、血液型(根拠無し)、NLPなどなど、性格などをパターンに分けてコミュニケーションに活かす方法は古今東西いろいろあるようで、実際に、そういったパターンというのはあるようだ。

 能力開発やビジネスの世界でも、こういったタイプ分けは活用されているようで、最近読んだ「イノベーションの達人!―発想する会社をつくる10の人材」では 、人類学者、実験者、花粉の運び手、ハードル選手、コラボレーター、監督、経験デザイナー、舞台装置家、介護人、語り部の10パターンにわけていた。

 一方、コーチングの世界で注目を浴びているCSI(Communication Style Invetory)というコミュニケーション方法の分類がある。感情表出と自己主張により4種類のパターンに分けた非常にシンプルなものだが、非常に、わかりやすく実戦的と感じた。(参考:「コーチングから生まれた熱いビジネスチームをつくる4つのタイプ(鈴木義行)」)

CSIでは、人を以下の4つのタイプにわける。

●実行力でチームをリードするコントローラ  自分が「判断」したい
●夢を語って盛り上がるプロモーター     他人に「影響」したい
●合意と協調が何より大切なサポーター    みんなで「合意」したい 
●冷静沈着に現状を分析するアナライザ    「正しさ」を重視


これをチーム内や、特に上司と部下の関係におけるコミュニケーション方法などに役立てようというものである。以下のページなどで簡易的な診断ができる。

簡易診断

自分はコントローラー、プロモーターかと思っていたのだが診断の結果はサポーターが一番高く、次がプロモーターであった。

 なるほど、理想は高くアィディアはあふれ出て、何か新しいことを始めるのは好きであるが、あきっぽく、ひとつのことを達成したり持続したりするのは苦手。に人に強く出ることは苦手で、こまかい数字や規則も苦手。人に喜ばれるのが好き。まさにサポーター、プロモーターである。(これぞADHDタイプともいえよう。)

 本には「プロモーターをうまく使うには組織の中で先発隊として使い、細かいチェックはしない。多少の失敗には目をつむる勇気をもつことが必要です。一方、サポーターは丸投げされると重荷を感じるのでサポートすることが重要」とある。

 この本ではこのように各々のパターンごとの組み合わせに応じてコミュニケーション方法を中心に具体的に述べてあり、最後にエクセサイズまである。

 こういったパターンをふまえずにコミュニケーションをするのは「中国にいて中国語を知らずに日本語で押しとおすようなもの」だという。

 歴史上の本能寺の変のように、コミュニケーションの方法がまずかったばかりに悲劇が起きた例も多い。スーパーコントローラーの信長が、スーパーサポーターの光秀をまめに承認しなかったが故にある日突然反旗を翻され、寝首をかかれた。サポーターは自分が注いだ愛情に対して、無意識に相手に代償をもとめる傾向にあり、相手がそれを評価してくれないと、逆に怒りに添加し、激しく攻撃してくることになるという。現在のビジネスシーンでもある日いきなり辞表を提出して辞めたという人にはサポーターが多いらしい。

 こういった技法は、職場の中での人材活用、コミュニケーション、そして患者さんとの関係においても活用できそうである。

碓氷峠・横川~軽井沢復活か。

2006年09月05日 | Weblog
 長野新幹線の開業により平成9年にJR信越線の横川と軽井沢の間、通称「横軽」とよばれる11.2キロの区間は廃止された。急勾配を上るアプト式鉄道による碓氷峠越え、峠の釜飯などで有名な名物区間だった。しかし廃止により普通列車による運行はぶった切られてしまった。東京と長野は日帰りや通勤ができるほどに時間的に近くなったが旅情は失われた。そして、東京駅からわずか1時間でつくようになった避暑地軽井沢はこぎれいなガラクタを集めた大きなアウトレットモールなどもでき東京都の飛び地となった。

 信越線は現在は横川側の鉄道文化村内の入浴施設までの2.6kmに遊具扱いの観光列車としてのトロッコ列車が、長野側は軽井沢~篠ノ井間で弟3セクターのしなの鉄道として生き残っている。
 
 さてこの「横軽」区間だが、平成12年の3月に施行された改正鉄道事業法で新しく定められた「特定目的鉄道」という名目で、2007年の10月に鉄道文化村が観光用列車として復活させる方向で検討されているという。

 このニュースを聞いて5年前の学生時代に18切符等で長野に来たときに横川で泊まり夜明けとともに碓氷峠を徒歩で越えたときのことを思い出した。霧につつまれた幻想的な風景であった。実際に汽車で碓氷峠を越えたことはないが、ぜひ復活に期待したい。

 「A地点からB地点にできるだけ早く行こうとしていたことが無意味で馬鹿らしいことだったと、みなが気づく時がくるだろう。」と20世紀はじめに予言したのはトルストイだが、そろそろそのことに気づく人が増えはじめている証拠なのだろうか。

 一方、本年4月にあっさりと廃止になった北海道ふるさと銀河線の線路もすでに傷み始めているようだ。味わい深い路線だったのだが、つくづくもったいないことをしたものだと思う。資源枯渇等でいよいよ自動車による輸送が困難になってきたころになって見直されるのだろうか?銀河連邦(臼田町は消滅したが)の一員として非常に悲しい。

 公共交通機関は人権である。代替バスを走らせるからいいではないかという人もいるが、たとえ本数は少なくとも、鋼の強さで結ばれた鉄路とでは安心感が違う。
小諸~小淵沢を結ぶ小海線(八ヶ岳高原列車)も、運転は嫌いなので毎週のように利用させてもらっているが、乗っているのは高校生と高齢者、外国の人、そして休日は観光客ばかりだが。野辺山のJR最高地点、清里などの観光資源に恵まれローカル線としては優良な部類に入るのだろうが、廃止などの声は聞こえない。(もしJRが手放すというのならJAが買い取りJA小海線にすればいい?)

 しかしもっともっと生活列車として活用されるように鉛線の活性化、バリアフリー化を進めていかなくてはならない。そのなかで病院の果たせる役割は何であろうか?

健康格差とソーシャルキャピタル

2006年09月04日 | Weblog
 もはや恒例となったらしい日本福祉大学の公開講演会。こういう催しが充実しているからこの病院(地域)はいい。多方面でご活躍されているニ木立先生と近藤克則先生、牧野忠康先生の公開講演会があり多くの職員が参加した(医師の参加は少ないが)。日本福祉大学の21世紀COEプログラムで南佐久地域を研究調査のフィールドとして選んでいただいたことによる恩恵で毎年調査にあわせて開かれ今年で7回だそうだ。

 ニ木先生のズバズバぶったぎる頭が切れすぎる話を聞くのは快感ですらあるが、他の会議のため話は聞けなかった。しかしリハ学学会他で今年すでに同じようなテーマの話を2回ばかり聞いているからよしとしよう。レジュメを見ると医療制度改革の展望と予測の話だったようだ。データや根拠をしっかりあげてあるので説得力がある。公的医療費の総枠の拡大と、それを実現するための医療者の自己改革と制度の部分改革が必要との提案。自分の主張と一致する。

 途中から聞くことができた近藤先生は介護保険制度と健康格差、ソーシャルキャピタル(人々のつながり)に焦点をあわせての話。格差(Gap)は昨今のキーワードだ。Gapに気づき、それに取り組まなくてはならないのに、ますますの不平等で格差は広がっている。それでも佐久地区や佐久病院にはソーシャルキャピタルが蓄積されており、健康な状態が保てているのだとのエール。宅老所、八千穂の家の征矢野さんのよく使うキーワードである「関係力」にも通じる。
 イギリスは健康の不平等へのプログラムを開始した。「We any longer ignore the health inequalities,We have started to tackle this health gap. UK Deat.of Health 2003」。さて我々のとるべき行動は?

 二木先生、近藤先生ともに、もとリハ医だが、研究者の世界にはいった。実践に根拠や理論を与え今後の指針を示す研究者という道もあるか。

 生活と政策との論理の乖離を嘆く牧野先生は医療崩壊と医療政策について北海道は根室でのフィールド調査の実例をあげての解説。銃撃、拿捕事件でわかるように、そもそも外交政策の失敗で機関産業(漁業)が崩壊しかかっている状態。外務省などもあまり本気ではないような状態の中、鈴木宗男は、それでもがんばって仕事をもってくるので人気があるようだ。
 医療制度改正にあわせて、経営が成り立たなくなった療養型中心の病院自体は計画的につぶされ、患者や職員は路頭にまよっている。老朽化した別の病院の立替も医師が集まらず計画は屯坐。その責任を市長がとり立候補を取りやめるなど、大変な状況のようだ。

 北海道と長野の産業、医療の違いをテーマとして追いかけている自分にとっては興味深い話だった。しかし、北海道でもせたな町や、厚岸町、札幌の若者など民度では佐久地域の上をいくかもしれない地域があるのも事実。医療が貧困なところから何とかしようと作り上げていく過程で民度はあがっていくのかもしれない。難しいのは継続するということだろう。

 南佐久でも北相木りんねの森のような取り組みもあるが、全体としては佐久も現在の状態を当然視しすぎており、メディコポリスの理念、民度を上げ、ソーシャルキャピタルを蓄積するような保健医療福祉活動がおろそかになってはいないか?
 
( 佐久は若い医者があつまるモデルをつくっており安泰のように言われたが、実はこれまで指摘しているように実は相当危険な状態(危篤)なのだが・・・。)

医療から保健福祉へ軸足を移すべきときが来ているときがきていると思われる。

京都(SODOH)の結婚式。

2006年09月03日 | Weblog
京都でおこなわれたイトコの結婚式にいった。

会場は「東山SODOH The Garden Oriental Kyoto」というところだという。

佐久から関西は遠い。新幹線で京都まで行き、場所等を書いた招待状を忘れてしまったのでタクシーで連れて行ってもらおうとおもって駅のタクシー乗り場からタクシーに乗り、

「東山の結婚式場のソードーまでお願いします。」

というと、タクシーの運転手はそんなところは知らないと言う。

「地図とか、電話番号とかはないんですか?」

とつっけんどんで、調べる気もまったくなさそうだ。

タクシーには情報産業の役割を期待していたので、確かに情報は少ないかもしれないが最近評判の有名なところだと聞いていたので、知らないのもひどいかなと思って、ちょっと腹をたててみせ、

「それならおろしてくれ、違うタクシー乗るから。」

というと

「メーターを回してしまった後だからそれはできませんわ。
お金もかかるし、おきゃくさんかわいそうでっしゃろ。」

「自分のところの町なんだから知らないんですか。プロなんでしょう?」

「そんなこというたって京都は広いんですから。
おきゃくさんどこからいらしたんですか?」

「長野からです。」というと

「長野くらいのちっちゃい町やったらええかもしれへんけど、京都は式場いうてもいっぱいあるから全部わかれいうてもむりですわ。お寺だって1500もあるんですから。」

ったく個人の家にいってくれといっているわけではないんだから・・・。
この京都人は京都こそ都で、世界の中心だとおもって馬鹿にして。
とちょっとイライラ。

「まぁ、東山のほうに行ってみますわ。
たぶん、あそこかもしれんとおもうところはあるから。」

たぶんって何だよ?
東山っていっても広いしなんか不安だな。たよりないな、わからなかったらどうするのだろう、そこでおろされてまた違うタクシー乗れというのだろうか。

「でも地図とかで調べるとかできないんですか?」

しかし、タクシーには地図もカーナビもないらしい。

「友人に聞くとかはできんのですか?」

と押し問答。

「知ってるか聞いてから乗るべきだった。違うタクシー乗るから降ろしてほしい。」

というと

「電話番号もわからんで、どのタクシーも連れて行けませんで。
京都は春と秋がシーズンですから今の時期はシーズン前で、京都駅で一時間も並んでたんすよ。のったら、すぐに出なくてはいけないんやから、また並べいうんですか。堪忍してください。」

それを聞いて、ちょっとかわいそうになって、ケータイで先に行っている弟に場所をきく。
「タクシーに乗ればいい。」
と弟。

「・・・いや、タクシーの運転手がわからんいうてるんやって。」

ちょっと調べてもらって高台寺の前だというのを聞く。

「ほら、聞いてみたらええやないですか、いろいろ方法はありますやろ。
高台寺やったらわかりますわ。」

ったく・・・。
この運転手なんか不安だと思って、さらに、そこから先の行き方や落ち合い方を相談していると。

「わかったいうてますやろ。もう聞かんでいいです。」

となんか、怒っている。
京都人はこんなもんなのだろうか・・・。運転手のキャラか?

まぁ、そのあとは機嫌をとりながら、京都の話、タクシー業界の裏話などを聞いていると運転手も機嫌よく話してくれる。

 京都にはタクシーは9000台いるだの、昔と比べて大変だの、ガソリンも高くなって一月7万くらいはかかるけど、このタクシーはプロパンガスだから3万くらいで安いだの、一月に4000kmくらい走るだの、観光の勉強会なんかもたまにはあるだの、いろいろ教えてもらったので感謝の気持ちをこめて1670円のところを

「おつりはいいですわ。」

とサービス料として30円足して、1700円支払った。

「お客さんいろいろいうてすみませんでしたな」
「いえいえ、こちらこそ勉強になりました。」

とまぁ、仲直り。
まったく無駄なエネルギーをつかってしまった。
京都に来て早々いきなり京都流の洗礼をあびるのをすごく感じた。

さて八坂神社や高台寺のある東山の高台にある結婚式場はは古い日本画家の大家の私邸を改造した屋敷と庭園を、バリやチェンマイの高級アジアンリゾートのような雰囲気で味付けしたような感じ。
庭園や建物、調度品もなかなか趣もあってよいもので、スタッフもさわやかでサービスもきびきびして対応もよかった。
「チカイマスカ?」というガイジン牧師は普段はNOVAで働いているんじゃなかろうかというくらいうさんくさかったが・・・。
どうせ、うちらはクリスチャンじゃないからいいんだろうけど。

さて学生時代から10年越しの山あり谷ありの付き合いの末の結婚、子供のころからの写真のスライドショーなどもあり感動的ないい結婚式だった。
イタリア風の料理もおいしく、久しぶりの家族や、大学卒業以来あった友人とも語らい満足。

さて、帰りのタクシーは車椅子の祖母も同乗してホテルまで行ったのだが、そのタクシーの運転手は、

「車椅子でもどんどんタクシーつこてください。
いまは、車椅子やからってでられんことないですから、みんな講習受けてますしヘルパーの免許ももってますし。」
といい感じ。

ソードーは、竹内栖鳳という画家の私邸だっただの、その画家は○○派の画家だの、最近人気がある式場で、あの式場の聖歌の人は○○教会の人がやっているから本格的だの、最近は結婚式で大安とか仏滅とかあまり気にする人もいなくて、週末は予約が一杯で1日に8組やるとスタッフはヘトヘトだの、とサービス精神旺盛でいろいろおしえてくれました。

・・・タクシーは未来のある産業ですね。
大事にしましょう。