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精神科医師のブログ。
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終末期治療中止ガイドラインについて

2006年09月16日 | Weblog
厚生労働省は終末期医療の治療中止の指針をつくっているらしい。
たたき台を元に広く市民にパブリックコメントをもとめる方針とのことだ。
意見の募集について
広く国民的な議論に発展することを望む。

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厚生労働省は14日、がんなどで回復の見込みがない終末期の患者に対する治療を中止する際のガイドライン(指針)原案をまとめた。

 治療方針の決定は、患者の意思を踏まえて、医療チームが行い、患者と合意した内容を文書化する。患者の意思が確認できない時は、家族の助言などから最善の治療を選択する。また、患者らと医療チームの話し合いで、合意に至らなかった場合などは、別途、委員会を設置し、検討することが必要としている。終末期医療をめぐって国が指針を作るのは初めて。

 厚労省は、原案を同省のホームページ上で公表し、国民から幅広く意見を募る。さらに有識者による検討会を設置し、年内をメドに成案をまとめる方針だ。

 終末期医療に関するガイドラインは、今年3月に富山県射水市の市民病院で、末期がん患者らの人工呼吸器を取り外し、死亡させた問題が発覚したのを受け、川崎厚労相が医療現場の混乱などを避けるため、作成の方針を打ち出していた。

 原案は、まず、主治医の独断を回避するため、基本的な終末期医療のあり方として、主治医以外に看護師なども含めた多くの専門職からなる医療チームが、慎重に対処すべきだとした。どのような場合でも、「積極的安楽死」や自殺ほう助となるような行為は医療として認められないと明言。その上で、終末期の患者について延命治療などを開始したり、中止したりするなどの治療方針を決める際、〈1〉患者の意思が確認できる〈2〉意思が確認できない――のケースについて必要な手続きを示した。

 〈1〉の場合は、医療チームの十分な説明に基づき、患者本人が意思を示した上で、主治医などと話し合い、その合意内容を文書にまとめるとした。文書作成後、時間が経過したり、病状の変化があったりした場合は意思を再確認することも求めた。

 一方、〈2〉の場合は、家族の話から、元気だったころの患者の意思を推定する。家族がいなかったり、家族間で判断が割れる場合は医療チームが判断する。

 いずれの場合も、医療チーム内で意見が割れたり、患者と合意できない場合は、複数の専門職で構成する委員会をもうけ、治療方針を検討・助言させるとしている。

 今年5~6月、読売新聞社が全国の病院を対象にした調査で、72%が終末期医療に関する全国的なルールが必要と回答し、6割が国などの指針を求めていた。

(2006年9月15日3時3分 読売新聞)
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 以下は医療者と市民の延命、死の捕らえ方にギャップがあるということを覚悟した上で、あえて書く自分の意見である。専門用語をそのままなので市民にはわかりにくいところもあるかもしれないが医療者にはわかってもらえると思う。忌憚ない意見をたまわりたい。

ほとんどの医師が延命を中止した経験があるという調査結果もある。それは当然であろう。すべての患者を世界最高の医療機関である(?)MGHやメイヨークリニックに搬送し、生物医学的に最善な、あらゆる手を尽くすことは不可能であり、どんな手を尽くしたところで最終的に人間の死亡率は100%である以上、それなりにその場の誰もが納得する程度のレベルの医療をやっていくしかない。だから指針はなくともそのようなことを阿吽の呼吸で行い治療のレベルをコントロールしてきた。

 しかし、いままでどんな状態であっても医師は全力をつくして死に抗わなければたとえ訴えられ、殺人犯として逮捕されても法的には文句は言えない状態であった。


法律や制度が現実に追いついていなかったといえるだろう。

現場では患者本人がもはや意思表示できない場合も多いし、アドバンスドディレクティブなどない場合が多い。(しかし、そもそも自分の命は自分のものではない。)

 また患者が「もう死なせて」と意思表示をした場合でも、家族にあわせて人様に覚えの悪くない程度の医療処置を施さざるを得ない。(少なくとも○○地区で最高の医療機関の○○病院の○○専門の先生に診てもらった。それでだめなら仕方がない。という納得。)

 実際、同居したり近くにいて世話をしてきた者をさしおいて、突然遠くに住んでいる子供や親戚が出てきて、いままで親孝行を果たせなかったことを取り返そうとするのか、「とにかくやれることは全てやってください。」といってくることは良くあることである。
 
  本人も家族も、関わったスタッフもみんなが満足し納得できる「満足死」をコーディネートするのはエネルギーも使うし簡単なことではない。その人の人生、大切にしてきた者などを本当によく理解する人と共同作業でどこまで治療するかを決めながら、みんなが明るい諦観をもって共犯者になるしかなかった。
 
家族、本人と話し合った上で、終末期の治療のレベルをコントロールし、結果、死に至らしめたとしても、逮捕されるかもしれない恐怖、だれかが訴訟の準備をしているかもしれない恐怖におびえていた。


 終末期状態(生命は生まれたときから死にむかっているのだから、この定義自体あいまい。)に陥ったとき、生物医療的処置を、どこまでやるかという落としどころは本当にケースバイケースである。若い人はとことんがんばることが多いが、高齢者は平均寿命、患者の病前の生活、家族の思いなどを考えながらコンセンサスをつくっていく。必要な誘導や情報提供もおこなう。

 主治医の腕力が必要な場面である。

老衰でいよいよ食べられなくなったり、癌の終末期のさんや家族に
「それは延命治療ですか?(延命ならやめてください。)」
と聞かれることがよくある。

また、
「わたしは尊厳死をお願いします。」
という尊厳死協会の書類をもってくる人もいる。

市民の間でも「延命=望ましくないこと?(人様に迷惑をかけて・・・。)」と漠然とした意識こともあるのかもしれない。

 医学は生命の延長(仮のアウトカムであるはずだが)を至上命題として発展してきた。本当は、生活、緩和ケアやリハビリテーションなどそれ以外の光の当て方が先にあり、その手段としての医学があるべきなのだが・・・。そのギャップがいまの状況を生み出しているといえるだろう。
 
 自ら生命の維持ができなくなった状態のものに対し、医学的介入を続ければ生命維持だけはある程度の期間にわたってできるという場合、「行動役割」を果たせなくなったものに「存在役割」をみとめて(墓石のようなものである。)延命をおこなうことがある。
 
 しかし挿管、人工呼吸器管理、人工透析、輸液、輸血、医学的にやれることはあるのだが、いったんはじめてしまうと容易にやめることはできない。(それこそ殺人犯にされてしまう。)

 家族も疲れてくるし心も離れていく、公共財である地域の医療資源に多大な負荷をかける。呼吸器をはずすという選択肢も了解可能である。社会がどれだけ許容するかというコンセンサスが必要なのだったのだろうが、その難しい作業を現場だけ押し付けていた。そういう意味で指針をつくろうというのは大きな前進といえるだろう。

 現場から遠い人間は(加藤周一ですら。)「自然の寿命に抗してもとことん生かすべき」という態度を主張する。しかし実際それが現実的ではなく、よい結末を産まないことは現場ではしばしば経験されるところである。そもそもの延命は、十分な緩和的ケアや、尊厳をまもるケア(リハビリも含む)が十分なされた前提の上で次に考えることであるはずなのだが・・・。

医療は手段であったはずが、うっかりすると目的となってしまう。

 実は、医療行為はとことんやるという態度のほうが楽である。すくなくとも頭は悩ませる必要もないし殺人犯にされる心配もない。しかし「この人に、ここまでやりたくないなぁ。」ということを強要され繰り返していると自分の心が傷つく。ここにジレンマがある。

 だから、治療の中断と最大限の治療の間にはさまざまなレベルがあり、だれもが納得できる落としどころを探るのだ。単純に割り切れるものではない。

 家でできることはやりましょう、一般病棟でできることはやりましょう、ICUまでいってとことんやりましょう、アメリカへ渡り移植医療をうけましょう。など、治療のレベルは場で規定されることが多い。自宅で尊厳死(自殺)をした作家、吉村昭も自宅だからあのような死に方ができたのだろう。(病院ならカテーテルポートを引き抜けないように抑制されていたかもしれない。)病院で最後まで点滴を受けていた祖母が「どうしてこんなことするの?早く死なせて。」と言っていたのを思い出す。祖父のときは点滴にドパミンが混注されていた。二人とも癌の末期だというのに・・・。

 医療の地域性、社会性というものを考えると治療レベルを場所によって規定する、この方法は有効と思う。患者が望めば、その人が生きてきた場所で生かしぬくこともできる。

 食べられなくなり、意識もなく、リカバリーの可能性がない(ここの判断が難しいのだが。)家族と丁寧に話し合い点滴もせずに徐々に脱水状態となり、1週間で枯れるようにきれいに看取ることもできるのだが、そこまで詰めることの難しい家族の場合は、「点滴1本くらいはやりましょう。」ということになり死ぬのを待つようなことも多い。そこからセレモニーは始まっている。生と死は連続したものなのだ。

 さらに生命維持に必要なカロリーを確保できる中心静脈栄養や経鼻栄養や胃瘻などからの強制栄養を続けると先が見えなくなる。感染を繰り返しては、抗生剤の使用したり一進一退の状態を続け、なるべく悲惨な状態にならないようにしながら、本当のお迎えがくるまで待つことになる。

 そして本当の終末期、いろいろ手を尽くしても生命の恒常性が乱れはじめ、循環、呼吸が怪しくなってきたとき急変したときに「この人はどこまでやるひとなの?」ということが問題となる。

 だから、「家族がいらしてたので念のためDNR(心肺蘇生処置など積極的な蘇生処置をおこなわないという本人および家族の意思表示。)はとっときました。」「家族のDNRはちゃんととったのか?」ということがカンファレンスで問題となったりする。

 家族が望む場合、DNRをとる間もないほど予想外に早く急変し家族が来るのを待つ間などには一定の手順に沿った蘇生処置(挿管、心臓マッサージなど)をおこなう。

 終末期においては、こういったことは、きわめて儀式的で嫌いなのだが必要なことではある。

 死と成長はパートナーである。医療者は死の教育的意義を理解し、患者の苦痛を取り、家族を支え、有終の美を飾れるように支えることのできる技を医療者は身につけていくことも必要だろう。

 医療よりもはるかに長い歴史と経験をもち知恵も蓄積されているであろう宗教とのコラボレーションも課題だ。

 そして丁寧にこの世を去る人を看取っていくことで、だれもが死(そして生)について身近に考えられる社会にしていくことが必要なのではないだろうか。

 終末期の治療中断、指針ができたのは前進だとは思うが、それを強要することで、ただでさえ余裕のない医療現場に形式的、アリバイ的な書類の手続きが一つ増えただけということにならないようにお願いしたい。