『旧約聖書 創世記』にはアダムとハヴァの楽園追放の物語が記載されています。ある見解によると、彼らは神に近づきたいという思いから禁断の果実に手を出したということになっています。
でも僕の理解では神とは善き存在者だからそれに近づきたいと思うことの何が悪いのかと思ってしまうのですが、禁断の果実とは善悪を知るというものだったのです。
実際、人間は己の行為の善悪を知るから苦しむのではないでしょうか。でも彼らの神に近づきたいという動機は悪いものではないと思うのです。
僕の父は生前、僕と弟に「何でもいいから一番になれ」とよく言いました。彼としては職業に貴賎はなく選んだ職業を極めた人は人間的に優れた者だという認識があったからそう言ったのだと思います。
でもかつてルシファーと呼ばれた堕天使も被造物であることを忘れ己が全ての中で一番の存在者だと驕ったから堕ちたのではなかったのか。
また競争はそれをすることが人間同士にとって何らかの利益をもたらす(「切磋琢磨」という意味を持つ)と考えられているから肯定されるのであって、単なる競争のための競争であるなら意味がないばかりか有害だとさえ思います。
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