講演後、会場から質問をもらいました。こういう場では具体的な質問(たとえばグラフのよみとりとか、語彙の説明など)が多いのですが、この日はそういうもののさらに奥にあるものへ言及する発言があり、驚きました。以下はその記録ですが、記憶を辿りながら、会話文を少しよみやすい文にしたり、その場で言い足りなかったことを補足したりしています(順不同)。
陣内(武蔵美大教諭)
すばらしいと思いました。こつこつと調べることの科学的な姿勢が大切だということがよくわかりました。私も観察会に3回ほど参加させてもらいましたが、訪花昆虫はすこしあいまいな感じもありました。あれは孤立緑地でもやるのですか。
高槻:訪花昆虫はデータをすべて使えるとは思っていません。ただ、多人数で調べることの力を感じたし、言えないことと言えることを整理して、「これはまちがいない」ということもかなりあります。来年は孤立緑地や花があまりない林内でも、また春夏秋と違う季節を比較することを予定しています。
陣内(武蔵美大教諭)
小緑地にも糞虫がいたということですが、犬の糞を利用して生きているのですか。
高槻:糞虫は糞だけを食べるのではなく、動物の死体なども食べるそうです。だから草が生えていて昆虫やミミズなどがいれば生きていけるのだと思います。重要なのはタヌキはある程度連続的な広い緑地が必要だが、昆虫にとってはちょっとした広さでも生息可能だということです。つまり動物の行動圏の違いによって必要な緑地面積が違うということです。
小藪(東大総合研究博物館)
外来種はいますか。コウモリはどうですか。
高槻:アライグマは確認していませんが、ハクビシンは撮影されています。アブラコウモリなどよくみかけますが、タヌキだけでもこれだけ調べることがあり(会場笑)、もっと調べたいことがあるので、タヌキ以外の郷物まではとても手がまわりません。
清水(Darwin Room ):先生のお話しされた生きもののリンクの話しがとても大事だと思いました。そこで日頃、希少動物の生命を守ろうという価値観は多くの人にすでに普及しているのですが、食物連鎖とかリンクのようなことまでは、なかなか理解されていないので、生命を守る本当の意味がぼんやりしています。そこで本日のお話しのリンクのように生きものの関係性を知るということを普及させれば、生命を守る意味の根本を理解できて、自然を大事にするということにもっと積極的になれるのではないでしょうか?先生のご意見をお聞きしたい。
高槻:津田塾大学のタヌキがギンナンをたくさん食べていることがわかったので報告したら、ある人が「ギンナンって触ったらかぶれるくらいだし、臭いのにそんなものばっかり食べて大丈夫なのでしょうか」と言いました(会場笑)。あるいはケンポナシという植物の果実を食べていたといったら「子供のころケンポナシを食べたことがあるけど、タヌキも食べるんですね」という人もいました。それで私は思いました。自分で食べ物を探したことも、作物も作ったこともない現代人は食べるというのはスーパーから食材を買ってきて簡単に料理する、あるいはそれさえしないで外食することを食べることだと思い込んでいるが、それは本来の動物の食とはまったく違うものです。野生動物は寝てもさめても「何か食べられるものはないか」といつでも探していて、食べ物に出会えばできるだけ食べる、それが生きるということです。うまいだのまずいだの、臭いだの硬いだの言っていたら生きていけません。このように、私たちは哺乳類という仲間のことさえわかっていません。ましてヘビや昆虫のことはほとんどわかりません。でも、動物や植物の生き方がわかってくると、行動や生き方の意味がわかってきます。それによって「タヌキはかわいそう」というのが勝手な偏見だということがわかります。また、タヌキもケンポナシを食べるのではなく、「人間も」ケンポナシを食べる(会場笑)というほうが正しいということがわかります。果実は人が食べるためにあるとか、花は人が見て楽しむためにあると思い込んでいる人はごくふつうにいます。そう考えると、動植物を知るということは、自分勝手な思い込み、つまり偏見から解放されることなのだということがわかります。
そういう意味では、希少だから守るべきだとか、ありふれているから守らなくてもよいというのも偏見であると思います。絶滅危惧種や希少種を守るというのは、憐憫と自分たちの罪滅ぼしのような感覚から生じる感覚で、それ自体が悪いわけではありませんが、その裏返しとしての「ありふれた生き物は守らなくてもよい」というのは間違っていると思います。そうではなく、すべての生き物はひとしく価値があるというレスペクトを持つことが大切だと思います。そのような向き合い方のほうが普遍性があるように思います。
清水:緑地帯の存在を不動産開発のあるがままに任せている現状を、子供の遊び場とか大人のストレスの解放につなげる場が無くなってきていると憂いています。都市作りという観点で、景観デザインという視点だけではなく、本日の生きもののリンクの視点などを考慮した緑地帯を造っていくということが求められてもいいんじゃないでしょうか?
高槻:私は自分の孫をサルの一種として観察し、身体測定をしたりします。それは「ヒトというサルがどう育つのが本来の姿だろう」という興味があるのと、それからはずれた育て方にならないようにしたいという思いがあるからです。そういう目でみるとき、マンションに生まれ育って、でこぼこにない平坦な床しか歩いたことのないことはきわめて不自然で、そういう子供は歩きにくさや痛い思いを「することを奪われている」と思います。そういう意味で、ヒトという動物が生物学的、心理学的根拠に基づいて、快適に暮らす空間とはいかなるものかを考えるのが本当の都市計画で、東京などを見ているととてもそれが配慮されているとは思えません。自分のすむ家からどのくらいの距離にどのくらいの大きさの緑があることが望ましいのか。今日の話でいえば、糞虫には十分な緑地サイズでも、タヌキには狭すぎるというようなことがあるし、直射日光はあたらないので散歩には快適だが花の少ない林もあれば、夏は暑いが春、秋にはさまざまな花が咲く明るい空間もあるという具合に、緑地にもいろいろあるわけです。行き過ぎた都市化が見直され、生物多様性や人間の行動などを配慮した都市計画は大きな可能性を持っていると思います。
馬場(こだいら 水と緑の会):子供になぜ蚊やダニのような害虫は殺してもよいのかと聞かれて答えられませんでした。どう思いますか。
高槻:これはむずかしいですね。私もうまく答えられません。ただ、シュバイツァーは蚊に刺されても殺さなかったといいますが、これはうさんくさいです(会場笑)。生命は尊いが、自分に迷惑をかける動物、それも蚊のようにたくさんいるものを叩き殺すのが悪であるかのような言い方はおかしいと思います。蚊に刺されてぶくぶくに腫れて眠れなくて本業がおろそかになっても、「私は蚊も愛している」などというのはあやしいです。人は自分たちの生活の豊かさを追求し、生産活動にマイナスになることなら大水でも、害虫でも、予防し、対策してきました。それは医者が病気を治すのと同じです。それを否定するのは行き過ぎた原理主義だと思います。その子はとてもよい質問をしましたね。私はうまく答えられませんが、もともとむずかしい問題なので、そのことを恥ずかしいとは思いませんが・・・。
関野:生命圏平等主義という考え方があります。すべての生命には平等な価値があるから殺してはいけないというディープエコロジーのコン考え方です。
高槻:それはヨーロッパの概念ですか?
関野:アメリカです。これによると、病原菌を殺すことになるから抗生物質は飲めないんです。
高槻:そうだと思いました。どうもあの人たちは徹底的に考え込んで、極端なところまでいく。病原菌を殺したくないという人は「そうですか、どうぞ」という感じです。日本人はいいかげんだから、そこまで行きたがらない。私は「一寸の虫にも五分の魂」ということばが好きです。小さい奴だと見下しながらも、それでもゼロではなく5分の魂があると評価する。これでよいと思います。
XX(武蔵美大卒業生)
興味深いお話ありがとうございました。先生が目指しているのは、玉川上水を調べること自体ではなく、それを調べることでリンクを知るというだと察します。動物や人間のつながり、上下関係ではなくて、自分も自然も同じであるというような意識を皆に持ってもらうのが最終的な目的なのでしょうか。
高槻:それは無理だと思います。みんがそうはならんでしょう。ただ、全くそんなこと考えてもみなかったという人が多いと思うのです。そういう人に、こういう見方もあるんだよ、と伝えたいぐらいの感じですかね。さきほど関野先生が、長年通勤していたけども、ある日から玉川上水が違って見えるようになったとおっしゃいました。また、録画された小口先生もそうだと思いますが、コブマルエンマコガネのあの頑張りを見て、ああいうのがこの玉川上水にいると思うか思わないか、あるいは津田塾大学の学生さんが、キャンパスにタヌキがいると思うか思わないかは、かなり違うと思うんです。でも今の都会人は、そういう感覚をほとんど失っている。それは人間本来の生き方としては非常にアブノーマルなことで、どこの時代どこの社会でも人はもっと動植物に接して生ききてたはずだ。だから、それに戻るというか、ちょっとそういうことも考えたほうがよいということです。そのために、玉川上水で何が起きているかを調べることが自分のミッションかなと、という感じですかね。
XX:ありがとうございます。自分もずっと旅をしてて、自然も自分も一緒だっていう感覚がどんどん芽生えてきています。そういういろんなアプローチによって、そういう感覚が出てくるのだと思いました。」
高槻:それを音楽で表現する人がいれば、美術で表現する人もいる。いろいろあると思うんだけど、私の場合は自然科学的な手法で表現するということです。
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陣内(武蔵美大教諭)
すばらしいと思いました。こつこつと調べることの科学的な姿勢が大切だということがよくわかりました。私も観察会に3回ほど参加させてもらいましたが、訪花昆虫はすこしあいまいな感じもありました。あれは孤立緑地でもやるのですか。
高槻:訪花昆虫はデータをすべて使えるとは思っていません。ただ、多人数で調べることの力を感じたし、言えないことと言えることを整理して、「これはまちがいない」ということもかなりあります。来年は孤立緑地や花があまりない林内でも、また春夏秋と違う季節を比較することを予定しています。
陣内(武蔵美大教諭)
小緑地にも糞虫がいたということですが、犬の糞を利用して生きているのですか。
高槻:糞虫は糞だけを食べるのではなく、動物の死体なども食べるそうです。だから草が生えていて昆虫やミミズなどがいれば生きていけるのだと思います。重要なのはタヌキはある程度連続的な広い緑地が必要だが、昆虫にとってはちょっとした広さでも生息可能だということです。つまり動物の行動圏の違いによって必要な緑地面積が違うということです。
小藪(東大総合研究博物館)
外来種はいますか。コウモリはどうですか。
高槻:アライグマは確認していませんが、ハクビシンは撮影されています。アブラコウモリなどよくみかけますが、タヌキだけでもこれだけ調べることがあり(会場笑)、もっと調べたいことがあるので、タヌキ以外の郷物まではとても手がまわりません。
清水(Darwin Room ):先生のお話しされた生きもののリンクの話しがとても大事だと思いました。そこで日頃、希少動物の生命を守ろうという価値観は多くの人にすでに普及しているのですが、食物連鎖とかリンクのようなことまでは、なかなか理解されていないので、生命を守る本当の意味がぼんやりしています。そこで本日のお話しのリンクのように生きものの関係性を知るということを普及させれば、生命を守る意味の根本を理解できて、自然を大事にするということにもっと積極的になれるのではないでしょうか?先生のご意見をお聞きしたい。
高槻:津田塾大学のタヌキがギンナンをたくさん食べていることがわかったので報告したら、ある人が「ギンナンって触ったらかぶれるくらいだし、臭いのにそんなものばっかり食べて大丈夫なのでしょうか」と言いました(会場笑)。あるいはケンポナシという植物の果実を食べていたといったら「子供のころケンポナシを食べたことがあるけど、タヌキも食べるんですね」という人もいました。それで私は思いました。自分で食べ物を探したことも、作物も作ったこともない現代人は食べるというのはスーパーから食材を買ってきて簡単に料理する、あるいはそれさえしないで外食することを食べることだと思い込んでいるが、それは本来の動物の食とはまったく違うものです。野生動物は寝てもさめても「何か食べられるものはないか」といつでも探していて、食べ物に出会えばできるだけ食べる、それが生きるということです。うまいだのまずいだの、臭いだの硬いだの言っていたら生きていけません。このように、私たちは哺乳類という仲間のことさえわかっていません。ましてヘビや昆虫のことはほとんどわかりません。でも、動物や植物の生き方がわかってくると、行動や生き方の意味がわかってきます。それによって「タヌキはかわいそう」というのが勝手な偏見だということがわかります。また、タヌキもケンポナシを食べるのではなく、「人間も」ケンポナシを食べる(会場笑)というほうが正しいということがわかります。果実は人が食べるためにあるとか、花は人が見て楽しむためにあると思い込んでいる人はごくふつうにいます。そう考えると、動植物を知るということは、自分勝手な思い込み、つまり偏見から解放されることなのだということがわかります。
そういう意味では、希少だから守るべきだとか、ありふれているから守らなくてもよいというのも偏見であると思います。絶滅危惧種や希少種を守るというのは、憐憫と自分たちの罪滅ぼしのような感覚から生じる感覚で、それ自体が悪いわけではありませんが、その裏返しとしての「ありふれた生き物は守らなくてもよい」というのは間違っていると思います。そうではなく、すべての生き物はひとしく価値があるというレスペクトを持つことが大切だと思います。そのような向き合い方のほうが普遍性があるように思います。
清水:緑地帯の存在を不動産開発のあるがままに任せている現状を、子供の遊び場とか大人のストレスの解放につなげる場が無くなってきていると憂いています。都市作りという観点で、景観デザインという視点だけではなく、本日の生きもののリンクの視点などを考慮した緑地帯を造っていくということが求められてもいいんじゃないでしょうか?
高槻:私は自分の孫をサルの一種として観察し、身体測定をしたりします。それは「ヒトというサルがどう育つのが本来の姿だろう」という興味があるのと、それからはずれた育て方にならないようにしたいという思いがあるからです。そういう目でみるとき、マンションに生まれ育って、でこぼこにない平坦な床しか歩いたことのないことはきわめて不自然で、そういう子供は歩きにくさや痛い思いを「することを奪われている」と思います。そういう意味で、ヒトという動物が生物学的、心理学的根拠に基づいて、快適に暮らす空間とはいかなるものかを考えるのが本当の都市計画で、東京などを見ているととてもそれが配慮されているとは思えません。自分のすむ家からどのくらいの距離にどのくらいの大きさの緑があることが望ましいのか。今日の話でいえば、糞虫には十分な緑地サイズでも、タヌキには狭すぎるというようなことがあるし、直射日光はあたらないので散歩には快適だが花の少ない林もあれば、夏は暑いが春、秋にはさまざまな花が咲く明るい空間もあるという具合に、緑地にもいろいろあるわけです。行き過ぎた都市化が見直され、生物多様性や人間の行動などを配慮した都市計画は大きな可能性を持っていると思います。
馬場(こだいら 水と緑の会):子供になぜ蚊やダニのような害虫は殺してもよいのかと聞かれて答えられませんでした。どう思いますか。
高槻:これはむずかしいですね。私もうまく答えられません。ただ、シュバイツァーは蚊に刺されても殺さなかったといいますが、これはうさんくさいです(会場笑)。生命は尊いが、自分に迷惑をかける動物、それも蚊のようにたくさんいるものを叩き殺すのが悪であるかのような言い方はおかしいと思います。蚊に刺されてぶくぶくに腫れて眠れなくて本業がおろそかになっても、「私は蚊も愛している」などというのはあやしいです。人は自分たちの生活の豊かさを追求し、生産活動にマイナスになることなら大水でも、害虫でも、予防し、対策してきました。それは医者が病気を治すのと同じです。それを否定するのは行き過ぎた原理主義だと思います。その子はとてもよい質問をしましたね。私はうまく答えられませんが、もともとむずかしい問題なので、そのことを恥ずかしいとは思いませんが・・・。
関野:生命圏平等主義という考え方があります。すべての生命には平等な価値があるから殺してはいけないというディープエコロジーのコン考え方です。
高槻:それはヨーロッパの概念ですか?
関野:アメリカです。これによると、病原菌を殺すことになるから抗生物質は飲めないんです。
高槻:そうだと思いました。どうもあの人たちは徹底的に考え込んで、極端なところまでいく。病原菌を殺したくないという人は「そうですか、どうぞ」という感じです。日本人はいいかげんだから、そこまで行きたがらない。私は「一寸の虫にも五分の魂」ということばが好きです。小さい奴だと見下しながらも、それでもゼロではなく5分の魂があると評価する。これでよいと思います。
XX(武蔵美大卒業生)
興味深いお話ありがとうございました。先生が目指しているのは、玉川上水を調べること自体ではなく、それを調べることでリンクを知るというだと察します。動物や人間のつながり、上下関係ではなくて、自分も自然も同じであるというような意識を皆に持ってもらうのが最終的な目的なのでしょうか。
高槻:それは無理だと思います。みんがそうはならんでしょう。ただ、全くそんなこと考えてもみなかったという人が多いと思うのです。そういう人に、こういう見方もあるんだよ、と伝えたいぐらいの感じですかね。さきほど関野先生が、長年通勤していたけども、ある日から玉川上水が違って見えるようになったとおっしゃいました。また、録画された小口先生もそうだと思いますが、コブマルエンマコガネのあの頑張りを見て、ああいうのがこの玉川上水にいると思うか思わないか、あるいは津田塾大学の学生さんが、キャンパスにタヌキがいると思うか思わないかは、かなり違うと思うんです。でも今の都会人は、そういう感覚をほとんど失っている。それは人間本来の生き方としては非常にアブノーマルなことで、どこの時代どこの社会でも人はもっと動植物に接して生ききてたはずだ。だから、それに戻るというか、ちょっとそういうことも考えたほうがよいということです。そのために、玉川上水で何が起きているかを調べることが自分のミッションかなと、という感じですかね。
XX:ありがとうございます。自分もずっと旅をしてて、自然も自分も一緒だっていう感覚がどんどん芽生えてきています。そういういろんなアプローチによって、そういう感覚が出てくるのだと思いました。」
高槻:それを音楽で表現する人がいれば、美術で表現する人もいる。いろいろあると思うんだけど、私の場合は自然科学的な手法で表現するということです。
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