気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

戦禍に育まれた中学時代(7)

2015-04-15 00:23:40 | 日記

新制中学が発足してから三年が終わろうとしていた。

終戦を迎えてからは五年の月日しか、まだ経っていない。  

学校の近くの油面商店街には中学で一緒だった友人の実家が多かった。 

乾物店、肉店、惣菜店、硝子店、八百屋店などの並ぶ店先を後年歩くと友人に会えたかのような懐かしい昔に戻る。 不思議なものだ。

このほかにも、祐天寺付近にも友人の家を覚えている。 懐かしいひと言に尽きる。

  裏手の方角にある校門から登下校していて、そこから教室棟に沿った路沿いに小さな駄菓子屋があった。 露店のように小さくおばさんがひとりでこどもの相手をしていた。 

 路地裏の片隅では玄米と交換して買う「ポン煎餅」や青いアセチレンバーナーで黒砂糖を溶かし頃合いみて煉り棒を抜くと「カルメラ焼き」ができた。

 パン屋でメリケン粉を持参して買う「餡パン」など、遠足の前の日に並んで買った覚えがある。 油面商店街の中央に地蔵尊があり、そこの木村パン屋もあった。

確か、店が祐天寺の裏門の五差路の処に・・今はない。 交番があるが・・?

  娯楽は昔ながらの子供に人気の「紙芝居」を時折、見かけたが、私は外地に住んでいたせいで触れる機会がなく興味が持てなく余り観たことがなかった。 

   目黒の権之助坂には露店が並びひしめき合っていた。 

興味を惹いたのは、おもちゃの競馬の競争で優勝すると平和のシンボルである鳩をデザインした煙草の「Peace」ひと箱が貰える射幸性のある大人向けのゲームだった。 

子供なので煙草には興味はないが面白いゲームなので足を止めたことも数度はあった。

  目黒川の新橋辺りから大鳥神社まで駅から遠ざかると店も露店も少なかった。 

その中で、台が二十台もない小さなパチンコ店があり、いつみても、客が入っていないことの方が多かった。 駅前の水野外科に入院していた兄の付き添いからの帰り母に貰った小使いで一度入ったことがある。 玉を一つずつ入れながら玉を弾いたが全て空振りで興味を失った記憶がある。 この頃には既にパチンコ店があったのだ。

そう言えば、新橋の橋の上で赤い羽根の共同募金に箱を持って立ったことを思いだした。 もう、この頃にも赤い羽根募金運動が早くもあったとは・・。 

 渋谷の道玄坂の歩道では、男が口上よろしく腰を降ろしていた小さな箱の中から食用蛙を取出しては手足を手際よく捌き、これにたれを付け、七燐で焼き香ばしい匂いを辺りに漂わせ掛け声よろしく売っていた。 当時は食用の蛙があるとは知らなかった。 匂いは焼き鳥と同じだが光景は見たくない。 

 後年、仕事でパリに訪れた折、フランス料理店でこれを出され当時の光景がよみ蘇り、どうしても口にできなかった


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1 コメント

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パチンコ (すけつね)
2015-04-15 16:48:11
ボクの育った田舎ではパチンコは子供の遊びでした。玉を1個入れて入ると2個出てくる仕組みでした。
大人はパチンコなどするゆとりがなかったためか、見かけることはありませんでした。
今は大人の遊びですね。
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