ホリデイ現役添乗員日記

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現場の機転で延命!コルドバのメスキータ

2011-08-07 08:40:30 | ホリちゃんスペイン
ホリちゃんです。昔のスペインは、イスラム教徒に支配されることで、「先進国」になっていました。コルドバも8世紀から11世紀までイスラム教の総本山だっただけでなく、ヨーロッパを代表する学問・芸術の最先端の情報発信地だったのです。今のシリアのダマスカスでは、アツバース朝のもと栄華を誇っていましたが、ヨーロッパでダマスカスに比肩できる都市は、ウマイヤ朝の末裔が開いた後ウマイヤ朝のもと発展したコルドバだけでした。何しろ、ロンドン、パリ、ローマといった西欧を代表するように見える都市も、人口では、数千人から2・3万人というときに、コルドバの人口は100万人を超えていましたイスラム教徒の学問・技術の伝授のおかげで、ルネサンスや近代ヨーロッパが生誕したと言っても言い過ぎではなく、このことはもっと知られても良いと思いますイスラム教寺院は一般にモスクと言われるが、コルドバでは、スペイン語でメスキータとよばれます。

   

   

モスクは★の数ほどあっても、イスラムの総本山、コルドバのメスキータは、まじめな話し、モノが違うのです 8世紀~10世紀、コルドバの発展と歩調を合わせるかのように拡張・充実されたメスキータ1,012本の石柱と、一度に6万人の信者が礼拝できる比類ない規模と、二重アーチのハーモニーや内装も見事なイスラム建築を代表するものだったのです

   

   

   

イスラム教のモスクには、必ずミフラブという聖域があって、聖地メッカの方向を向いた神聖な祈りの空間です。コルドバのメスキータは、ミフラブ一つとっても例外的に美しいのです。

   

そんな繁栄を誇ったコルドバにも、転機が訪れます。キリスト教徒のレコンキスタです。13世紀にコルドバが再征服された後、メスキータもじわじわと変容を遂げていきます。レコンキスタ後のメスキータは、キリスト教の大聖堂に転用されようとする、辛酸をなめた受難の経過期間といえるでしょう。中庭と礼拝堂の間の19のアーチは、そのおかげでオープンになっていたものが、全部壁で塞がれています。特に、破滅的過程をたどるはずだった16世紀の大改装の計画があったのです。あの見事な石柱を取り除いて、
メスキータのど真ん中に巨大な大聖堂を建てようという計画です。さすがに、これは、コルドバの市民大多数や聖職者も巻き込んだ大論争や大反対を引き起こしたものですが、最終的にトップダウン方式で許可を与えたのが、国王カルロス5世です。あの、ゲント生れで、ポルトガル女王イサベラと結婚式を挙げたカルロス5世です。このとき、建築主任を務めた人物がメスキータの建築としての価値を十二分に理解していた人物であったことが、メスキータを破滅から救ったのです。

   

   

彼の機転で被害は最小限ですみ、ミフラブは無事残り、1,012本あった石柱のうち、856本が残ったのです。しかし、イスラム建築の精髄のど真ん中にキリスト教の大聖堂を建てた不自然さは、逃れようもなく残るわけで、後から実際に目の当たりにした国王は、「もし、余がこのようなものだと知っていたら、決して建築許可を与えなかったであろう。どこにでもある建築を建てるために世界に2つとないかけがいない建物を壊してしまった」と後悔したといいます。

コルドバでは、メスキータ周辺に、ユダヤ人街や花の小路という散策ルートがあります。現代人は、イスラム原理主義の印象が強すぎるせいか、イスラム教というと、狭量で戦闘的で、聖戦や自爆テロも厭わないという、一面的なイメージを持ちがちですが、昔のイスラム教徒は、むしろ、他の宗教に寛大で、ユダヤ人がいっぱい住んでコミュニティーを作っていたのも、そこに理由があります。

   

花の小路から振り返ってみた、メスキータやミナレットは絵のような美しさです。

   

ホリデイツアーでは、メスキータ入場見学はもちろん、ユダヤ人街、花の小路も散策できます。ぜひ一緒に「西方の真珠」と称えられたコルドバを見学しましょう。

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