前回、1825年恐慌の直接的影響について述べましたが、イギリスの経済状況は1826年の後半恐慌から脱出し、1828年には生産と商業のやや拡大1829年からはやや不況、その後2年間は不況、1833年に循環性の盛況局面になった。1832年、イングランド銀行の特許状更新の委員会がもたれ、多くの注目すべき証言があったとされる。
その間の大きな問題として、1827年に、それまでイングランド銀行は、1819年の理事会決議で“イングランド銀行は外国為替相場に関心を持ち、逆調の場合は銀行券流通を減少させるべき“との主張には根拠が無いとした事を撤回した。この主張はリカード的数量説に基づくと思われるがそれへの反対を撤回したと言う事は注目すべき点であると思われます。只、同銀行は“実務として“それ以前から、①通貨減少 ②市場からの資金吸い上げとしての国庫証券の売却-この点、オペレーションの展開かどうか後述します。 ③パリで金を得る為に銀を売却した等により、不利な為替相場を改善したとされます。(クラパム)
1832年の委員会で金融史上有名な“パーマールール“がJ.H.Palmerから述べられます。パーマーは1811-1857 イングランド銀行理事、1830-33 同行総裁で当時の同行政策に大きな影響を持ったとされます。
そこで述べられたパーマールールとは、1828-1830に案出されたとする同行の行動原理で簡単的に言うと、債務(発券、預金)の1/3は金属準備で 2/3は証券で持たれるべきもの と言う事です。これが確実に銀行券や預金の変動に沿ってどの程度厳格に適用されていたか等論議もあるようですが、藤田幸雄:中央銀行の形成等によれば1825年から1830年代までは適用されていたとします。
私見に於いては、同行は“株式銀行“であり当然自行の利益も考える必要は有り、他方で中央銀行として国内の信用制度の維持、又同行の金属準備は他国への支払い準備でもあるわけで、その恐慌時の金属の内外流出にそなえる必要と、利益を生む為には証券運用も必要であり、金属準備は多い方が良いがしかしそれは何ら利益を生まず、同行としてはなるべく効率よくしたいと言うのは当然のことといえるわけで、
1/3-2/3と言う数字は同行の実務的結論としてその運用基準とされていたと言う事でしょうか。
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