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マクロ経済そして自然環境

経済的諸問題及び自然環境問題に感想、意見を書く事です。基本はどうしたら住みやすくなるかです。皆さんのご意見歓迎です。

”コスト”と”市場”はメダルの裏表

2010-09-28 08:52:55 | 経済
今、手元に些か興味深い新聞記事を持っています(平成22年5月4日付け 読売新聞)ですがそこで主要100社のアンケート結果が出ています。

 ①は鳩山政権が優先的に取り組むべき経済政策

 ②は景気の自律回復に必要な条件 と言う事で

それぞれ上位から6個ずつ挙げますと
①は
イ)成長戦略の策定
ロ)法人税減税
ハ)社会保障制度の改革
ニ)消費税増税等税制の抜本改革
ホ)デフレからの脱却
ト)規制緩和

であり②は
イ)個人消費の拡大
ロ)米国経済の回復
ハ)雇用不安の解消
ニ)設備投資の回復
ホ)アジア経済の回復
ト)賃金の上昇

であります。

 ここでやはり矛盾が見られるのは例えば②ハでは”雇用不安の解消”と言っているわけですが経営者団体は、派遣の規制等には反対であり、其の反面で”雇用不安の解消”というのは矛盾ではないか?と言う事であり、又②のイ)で個人消費の拡大、と言っていますが、其の反面
①のニ)では”消費税等の改革”といっており、これは事実上、消費税の増税を言っていると思われますが、それは即ち、当然、消費性向低下(消費の縮小)を言っている訳でありまして(社会保障制度の”改革”も同様に切下げは先行き不安から消費の縮小になると思われますが)、要は、”コストは切り下げたい”が他方、”消費市場を(国内にも)確保したい”という訳でありまして、

 ”消費市場”というのは、多くは一般勤労者の財布次第でありまして企業がどれだけ賃金をくれるのか?と言う所に掛かっている訳であります。企業は自らは他企業と競争していますので自分では多く支払う事は、出来ないわけで有りますから、ここは、労組がしっかりするか、(因みに景気回復の条件②のト)は”賃金の上昇”です。) 

 または政府が経済見通し等出して、説得すべきでしょうあるいは、見識ある経営者が説得すべきとおもわれますが。

これらを除いては火急速やかな不況脱却は困難と言うべきでしょう。
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景気政策史 41  1907年恐慌-2 日本に於ける”通貨論争”

2010-09-26 08:36:07 | 景気政策史

 前回投稿で日本での日銀公定歩合の1907年12月4日の引上げを延べ、又1907年後半の英銀行の数度の歩合引上げを述べましたが、その間、独ライヒスバンクも1907年10月29日6.5%、又11月8日には7.5%に引上げ、仏銀行も1907年11月7日4%に引上げました。

 
 ここで1900年恐慌の時に当時の高橋日銀副総裁が歩合引上げに反対したと述べたことを思い出して頂きたいのですが、日本では明治初期の頃の通貨制度はかなり変遷が激しい訳ですが、1885年に一旦、銀本位制が確立しますが(金本位制は1897年)、既に当時より通貨理論に関しては議論があり、それは何かと言えば所謂、”数量説的”理論の、特に恐慌時にも関連しながら、適用に関してでした。

其の説を①積極説、②消極説、としますと、



①産業育成による将来の貿易収支改善を目指す立場から生産的事業への資金供給を重視して通貨収縮に反対する。

②物価引下げによる当面の貿易収支改善を目的に通貨収縮を求める。


上記を具体的政策に(特に恐慌時の流出と考え合わせながら)当てはめますと、

 ①は日本は海外との境域に到達していないので金利の昂騰は往々事業を抑制し商工業者を窮迫させるだけで”資金を海外より吸収する効力”は無いとして公定歩合引上げに反対、又正貨危機を根本から治療するには我輸出品の増加こそ最上の途であるとし、1900年頃には資金回転率を高める事で製糸産業等の輸出産業に資金供給していた、又恒常化していた”限外発行”は認めていた。




 ②を具体的政策に当てはめますと、入超で正貨流出が生じた時には兌換券を次第に収縮することは今日中央銀行の組織上当然で其の為金利を次第に引上げてくる必要がある。
それが貿易の逆境を漸次挽回して順調に帰せしめ全体の経済を健全にし兌換制度を維持する唯一の方法である。とし、
 この場合は、公定歩合引上げ→通貨収縮→物価引下げ→貿易収支改善→正貨流入を考え(1900年当時の山本日銀総裁)”金本位の自動調節機能 を考えていたが、


 他方、日銀には二つの任務があるとし、それは
イ)金貨準備の維持
ロ)金融の疎通を計り低利の資金を商工業者に供給する

であるが両立しない場合があり、1900年恐慌時にそれに関し”一度不景気の難関を経過する”必要が有るとした。



 そういった中1907年恐慌時には日銀の歩合引上げは1907年の12月一度だけであった(其の前は1906年7月1日)

これらの議論は1907年恐慌後も続いており11年に日銀総裁になった高橋是清、井上準之助は①の立場であり、山本達雄、若槻礼次郎は②であった。



 これらの理論的背景としては明治初期既に欧米の経済理論が日本に持ち込まれ例えば田口卯吉等は自由貿易、また為替相場と輸出入の”自動調整作用”等を東京経済雑誌等で主張していた。
又逆に犬養毅等は東海経済新報等で保護貿易を主張していた。






参照 明治経済政策史の研究   神山恒雄
   日本経済統計総観
   日本史小百科 経済思想 

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現段階に於ける景気対策の若干の指針について

2010-09-19 15:03:09 | 経済
 先般K代表が[サミュエルソンの経済学]の勉強をしているとの報道で、これは何か変わるか?とも思えていましたが、参院選後些か期待はずれとも思えていた訳ですが、代表戦も終わりいよいよ政策を決定して行かねばならない段階に来ました。一般的に言ってもここで基本方向を誤ると将来に大きな禍根を残す可能性が強いと思われます。そこでどうするかですが、やはりまず大局から考えなければならないと思うことです。




それは何かと言えばまず

①昨今の重大事態である為替の円高問題である。
②次には周知の膨大な国債残高であります。
③其の他方で我が国は18年連続の対外純資産世界一の国であり、其の点ギリシャ等とは大きく異なると言う事です。



イ)これらの基本思考を基礎にどう考えるかですが、まず第一に①の事態を今後避けるためには自動車等輸出産業依存の体質を変える事だと思われます。具体的に何かと言えば例えば輸出主導型の自動車会社が、介護産業に進出するとか、内需産業を強める事だと思います。

これは単に内需に繋がると言うより、公共事業より経済波及効果も其の方が多いと一般にも言われており
雇用の増大に繋がる事です。
これは③から言ってもこれ以上海外市場に頼るのは無理があります。
現状においても為替介入等で多量に抱えた米国債の評価損等国家的損失にもなっています。


ロ) 又②については今後今以上に増やさず減額してゆく為には、やはり”強い財政”が必要であり、私見においては別ページで書いたように平成初頭から、法人税、所得税、相続税軒並み減税であり、(上げたのは消費税だけであり、おまけに過去二回の引上げの直後に不況に陥っており今後も其の可能性は低くない)ここで何らか”引下げ過ぎた分を再引上げすべき”であります。其の点、”富裕層”の方々には若干の負担をお願いしたい所であります。
又その様にして得た税収を年金、福祉等に回せばイ)と連なり、個人消費拡大等により、大きな需要がそこに出来る事になるわけであります。

ハ)又、企業は大体に於いて海外へ出る主要な要因は現地に需要が旺盛で今後の拡大が見込めると言う事で税が低いと言う事では有りません(第39回海外事業活動基本調査 経産省)であり次には良質で安価な労働力が得られると言う事です。従って法人税率を下げて海外企業を呼び込むと言うのは些か視点が違うのではと言う事です。

ニ)平成の始め3段階あった(S63には7段階でした)住民税の累進を少なくとも3段階に戻し全体としての消費性向を上げ消費活性化、地域活性化につなげる事。




上記、政権与党の方々に検討を是非お願いしたい所であります。
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景気政策史 40  1907年恐慌ー1

2010-09-19 08:06:45 | 景気政策史

  1900年恐慌の後、世界的恐慌は、1907年に起きました。今回の切欠となったのはアメリカでした。アメリカでは、1906年秋頃より製鉄業で生産の低下が始まり、秋になり、それまでのニューヨークから資金が引上げられる季節になりそれまでニューヨーク取引所で行なわれていた投機が苦境に陥り、そこに於いて政府は、国庫金の放出と外国からの金の輸入を始めた。

しかし、これはイギリスが対応策を始め、
①金融手形の割引を制限する
②公定歩合を4%→5%→6%とし年末には6%になった。
③更にイングランド銀行はイギリスの銀行家等に警告し、金融手形の割引を止めなければ7%に引上げるとし、又他方、ドイツライヒスバンクは年末には割引歩合を7%にした。(メンデリソン)


そういった中、1907年春にはアメリカ証券市場の崩落が始まった。






 日本でも1907年1月株式市場の崩落が始まり、”財閥系”企業、も”売り”に出て東京株式取引所は4日間で200円の暴落となった。(前掲 大島)
これについて、××物産の理事は”販路に窮し、生産過度に陥り”と延べ”将来の発達繁栄の基礎はこの時に造らるるものなり”としています。

 しかしながら、小銀行では重役が事業を兼営しておりそれに資金を固定しているのも普通であり、かくて1907年2月頃より名古屋地方で支払い停止が起き金融、事業の動揺もおき始めた。東京でも一部支払い停止が起き、このとき以降1908年上半期まで全国的に小銀行の支払い停止、取付が続出した。

そういった中、市中金利が上昇し日銀も1907年12月には金利を引上げた。又、1907年初頭を始め金融の収縮も見られましたが、全国的に銀行等の動揺が広まる中救済活動に出ざるを得なかった。
”平素営業振不謹慎にして信用薄弱なる物は到底これを救済するに由なかりしも”としながら”本行に向かってこれ等の資金供給を求むるもの少なからず・・・これ等の事情在りしが為、一般商況の不振なりしに拘わらず、本行の貸出高は常に相当巨額に達し”としていますが、日銀券発行高等見るなら1908年春ごろより信用の急速な収縮が見られます。

其のほか各地で”救済運動”もおこなわれ、”実業同士会”等が作られ、国庫債権の償還が要望され一億円の償還が行なわれ、資金の逼迫している方面に便宜償還の道を開いて救済を行なった。


 しかし全般的には、日清戦後の場合と同様に、”金融逼迫の原因は政府財政の膨張による圧迫にある”と言う非難が行なわれた。

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”成長戦略”は景気政策、不況対策とは異なる概念である。

2010-09-12 08:32:49 | 経済
”新成長戦略”について若干の私見を延べさせて頂きます。

 基本的観点において注意しなければいけないのは、”第二の道”での誤謬を克服する必要が有ると言う事です。(それは何か?と言うなら”第二の道”の道は言うまでもなく”サプライサイド経済学”であり、基本的立場は”投資があれば需要は必ずそれにみあう”と言う事で今回の不況を見ても分かるように既に破産したものです。つまり経済運営には投資だけではなく、それに見合う”有効需要”が何処にあるかと言う事です。

 例えば”第二の道”においては”観光立国”等と言ってインフラ等整備(=投資)しても、もそれに見合うお客の方の”確固とした収入が無ければ経済そのものは”成長”しないと言う事です。

また現在緊急に問題になっているのは”不況対策”であり、稼動していない設備を稼動させる事、また雇用できる仕事を失業者等に供給する事等であり、次代の産業が何であるかと言う事ではありません。(産業を構想しても有効需要 一般勤労者層の所得がどこから得られるか?と言う方が問題なのであります。 
 

 ”新成長戦略”2010年6月18日付けでは[強い経済]、[強い財政]、[強い社会保障]と延べこれで”新成長戦略”を達成すると述べています。中にはかなり良い事も書いてありこれが実現すればよいとも思える部分は多い訳ですが、(但し特に”工程表”にある”日豪EPA”の推進は地域農業を破壊してしまうとも言われており(北海道庁HP等参照)p21にある”アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)の構築”は慎重にすべき所とも思われます)。         


 

 イ)その中で一番の鍵はやはり[強い財政]でありましょう。社会保障でも地域活性化の個別保障でも元になるのはやはり財源でありますがこれについては具体的に触れておらず、p42で”法人実行税率の引下げのみを述べています。又昨今の××党首脳から聞こえてくる中には、所得税、相続税等の問題は全然出てきません。そこで言うなら出てくるのは”消費税の値上げ”であり、これはそのまま国内消費性向の低下から国内市場の狭般化であり結果的には、方針倒れに、不況の継続でしかないと思われる事です。

 ロ)上記に関連しこれら方針を実現するための具体的財源について何も触れていません。
もし××党がこれら目標を実現し不況から脱却しようと思うなら政権与党はここではきちっと判断して、必要な増税等(所得移転的)を行なうべきであります。

 ハ)p7日本経済の成長力と政策対応の基本的考え方で(2)供給面からの制約と言う事で
現在のGDPギャップについて述べていますが、本来”民間企業”はそこに需要が有るとみなせば、当然、投資を行う訳で、”イノベーションの促進”(=投資であります 更に言うなら 投資があっても見合うだけの需要が必ず有るとは限りません) 等述べていますが、それよりは基本的に(歴史的に見ても明らかなように)需要量について第一に問題にすべきであり、特に

個人消費、又消費性向をどのように向上させるか と言うような点に焦点を絞るべきと思います。(其の点22年版経済財政報告は”項目を挙げ”個人消費”の動向に触れています)


これらイ、ロ、ハ、の観点からどちらかと言うと”新成長戦略”は”産業政策”に近く、”不況対策としては”かなり危うい、特に法人税の減税のみを掲げている現段階では不況の継続になる可能性が低くないと言う事でしょうか。




2010.9.16加筆
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景気政策史 39  19世紀末国際金融市場 日本、インド-2

2010-09-11 08:08:39 | 景気政策史

前回で日本の”在外正貨”について述べました。在外正貨制度は第二次大戦前まで続きましたが、特に1913年末には7200万円程に減少し、利払いにも足りないと言う事で仏貨外債7740万円を起債し切り抜けると言う状態も有りました。(第一次大戦前までは殆ど英貨である)

 ここで何故タイトルが”日本、インド”であるかと言うと、インドは当時イギリスの植民地であり、又英国の国際金融上の”安全弁”であったと言うことです。これは以前、本稿27回で述べましたように、インドが英国の貿易赤字等を毎年60百万ポンド埋めていたと言う事です。それは具体的金融的には”1899年インド鋳貨及び紙幣法”により金為替本位制度にし、その中で準備金等をロンドンに置き、その資金をボア戦争時の国債下落の価格支持等に使用したり、英銀行が借り入れしていた(セイヤーズ)と言う事です。



 
 そういった中、日本の”在外正貨”もロンドンに置かれていた訳ですが、当時の英銀行では以前にも書きましたが、公定歩合を使用する金利調整より穏やかな方法で金準備等の操作を行うようになっており(イングランド銀行の300年 リチャード ロバーツ)そういった中金準備の水準につき、

 ①クラパム”イングランド銀行”では”東京のような新しく遠く予測の出来ない中心地は非常に大きな残高をロンドンに保有していた”とし、
 
 ②セイヤーズは上記インドの例と並べ”英銀行と協力できるもう一つの顧客が現れ20年間にわたってその取引先を大規模に利用した”としています。

 ③上記”イングランド銀行の300年”ではアレック ケアンクロスは”他の中央銀行、取分け日本銀行や仏銀行と協力し、これら中央銀行から資金ないし金を借入れ、あるいは公定歩合を引上げると脅迫し”

 と述べこれらからすると、又特に明治期で日本自体の”信用度”が未だ十分でなかった時には十分有り得たと思われますが、この点につき昭和12年の”新金融辞典”では”大規模に且つ継続的に在外正貨を存置した国は我が国より他になかった”(第一次大戦後はニューヨークとしていますが、又在外正貨の数値は昭和5年から公表されなくなった)と説明しています。



 これらから考慮すると日本は確かにインドと違い植民地では有りませんでしたが、国際金融上では(戦時等の一時的出超時を除き)一定の英(米)からの金融的圧力の下にあったのではと推測されます。(只、始めの清の賠償金をロンドンに置くと言う事に関し何らか圧力があったとは言えないとする記述もあります(前掲 斉藤寿彦)。


これらは今の日本でも8月末で外貨準備が1070145百万ドルでその内米国債が殆どと言われている証券が993822百万ドルを占め、やはり在外正貨同様、自国に持ち込めないと言う点では当時とよく似ていると思いますが。

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第2の道へ逆戻りか?

2010-09-10 07:54:47 | Weblog
 昨日の報道によれば、菅首相は現在、[新成長戦略会議]で法人税の5%引下げを検討するとの事であった。しかし、これは22年版経済財政白書でも”日本がデフレに陥っている”と指摘し、この背景として”需要不足”にあったとしています。

他方で供給面強化を言っている訳ですが、これは要は”投資を増やす”と言う事でありますが、投資はその時は需要でありますが、完成すれば新たな”供給”になる訳で、需要に対する確固とした見通しがないなら(需要の60%は個人消費です)始めの部分と重なり、更なる需要不足、不況となります。

平成の始めから各税目の税率を見るなら


①法人税40%→30%
②所得税50%→40%
③相続税70%→50%

と全体として大幅減税(これでは財政赤字も当然です)であり、他方消費税だけが元年導入で3%→5%で増税になっています。

 ここで又法人税の引下げをするなら次にくるのは消費税の引上げでしょう。

他の所でも述べたように日本は対外純資産連続18年世界一であり、ある意味、企業が強すぎるとも言えますし、他国との比較で言えば、社会保険料負担等も考えると日本が”高い”とは言えないとされています。

このままでは格差拡大、不況拡大の”第2の道”へ逆戻りでしょう。ここはやはり一定利益を積上げている上場企業等中心に給与の引上げ、引下げ一方であった税制の見直し、又予算の社会保障への重点的配分により国内個人消費を拡大し内需中心の”強い経済”を作り上げるべきでしょう。
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金銭感覚論ー4

2010-09-07 16:28:41 | Weblog

 金銭感覚論を書くのは久し振りであります。というのも最近、些か、誰かの意見を聞いてみたかった事が有ったからであります。というのは上場企業等の役員方々で”年収”数億円もの方が結構いらっしゃると言うのが記事に出ていたからであります。

我々一般国民層ですと、一生掛かっても、億というお金には、全く縁が無いでしょう。ところがその様な方々はうまくすれば何年もそれだけ手に入れる。しかも、他でも述べましたが、株の配当で、源泉徴収されれば、住民税込みで10%の税しか取られない。・・・中には後、法人税も減税してくれと言う人も結構いますが。


 しかし、ちょっと考えれば分かるように、特に製造業等では、その対極に一年一生懸命働いても200万円位しか貰えない(おまけにそれらの方々でも最低15%は税を払います)期間労働者や、”派遣”労働者がいるというのはすぐ分かる事です。そのような事は、頭に浮かばないのでしょうか?・・

まあ、”自分が稼いだんだよ”と言われれば、何もいう事は有りませんが。


しかしながら話はこれでは終わりません。学説史を紐解くならすぐ分かるように、18世紀、又それ以前、重商主義以来、スミス、リカード、又マルサス、更に下ってマルクス
これら一線級経済学者はすべて何らかの意味で”労働価値説”を取っており、労働こそが価値を作るとしました。それらに対し、”労働全収益権”と言う言葉や更に”リカード派社会主義”と言う言葉もあった位であり、経営者の途方も無い金額の収入の根拠が全て自分の稼ぎであると言うほど”全否定”される程には学説史は固まってはいないと言うのが通説でありましょう。であれば???

2012.2.20訂正(上場株等で発行済み3/100以上は総合課税になります)


更に下ってややニュアンスが違いますが、J.S.ミル経済学原理もある種、労働価値説である。
2011.1.16追記

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景気政策史 38 19世紀末国際金融市場 日本、インドー1

2010-09-03 18:30:16 | 景気政策史

 前回、1900年恐慌について投稿致しました。そこで日本が世界経済に”巻き込まれている事”をお話致しました。今回は19世紀末~20世紀初頭の国際金融市場(ロンドン)と日本、更に若干、インドにも触れながらお話したいと思います。


 日本の通貨体制は明治初頭よりそれ程安定した物では有りませんでしたが、多くの方もご存知のように日清戦争に勝ち、その賠償金で日本は金本位制を確立しました。(賠償金3800万ポンド)日本円で約3億6千万円(1900年の国税収入が1億5千万です)を得る事になりましたが、流石に
①額が大きすぎて欧州から日本に運ぶと金融的混乱が起きる。
②仮令、日本に運べるとしても大きな”現送費”が掛かる。等々によりその金額をロンドンに置く事とし、日本の”金本位制”の兌換対象とした。

これが所謂、”在外正貨”と呼ばれるもので、その実態から(日本国内では金貨は殆ど流通していなかった)本来的、”金貨”本位制と呼べるか、些か問題なしとも言えそうではありますが。


参考:”金本位制”にはその実態から幾つかあり
イ)金貨本位制   金貨が実際その国で流通しているもの
ロ)金地金本位制  銀行券を”金地金”と交換できるもの
ハ)金為替本位制  金本位制を採っている国の金為替と兌換されこの金為替を通じて間接          的に国内通貨が金と結びつくもの(植民地等でよく見られるもの)


ロ、ハ、では国内で金貨は流通しない。

*ちなみに第二次大戦後1971年までは”ドル体制”はある種”金為替本位”であった


 又、正貨というのはやはり定義が種々あり、”本位貨幣、及びその地金を言う”とされ、在外正貨というのはその”正貨”が外国にある物と言えると思います。
(そのような正貨形態をとる”本位制度”はやはりやや特殊と言えるでしょうか)


そのような中、産業としては繊維製品を主体としながらも、工業品、機械機器等の輸入となり、貿易収支は概ね入超であり、基本的に資本収支の入超が”体質化”し、日清戦争、日露戦争後、軍事費も重なる中、十数度にわたる外債に頼らざるを得ない体質となっていました。



参考 日本経済史 2    石井寛治他
   日本経済史      永原慶二編
   新金融辞典      銀行研究社
   金本位制下の在外正貨 斉藤寿彦
   明治経済政策史の研究 神山恒雄   

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訳の分からない”郵便局”ー”郵政改革”

2010-09-02 18:42:25 | Weblog
 今日、夕方初老の郵便局の方(私の家の近くが担当との事でしたが)が[年賀状の注文に来ました]といって尋ねて来ました。家族が自分の分と言う事で20枚お願いいたします。と言っていました。私が聞くと数日前にも来たとの事で、よく考えれば、それは8月の事でしょう。

 ここでかなりおかしいと思ったのは、今未だ8月なのによりによって年賀状の注文に来るなんて、一体何を考えているのか?と言う事です。私個人は、年末かその前に必要枚数を郵便局で買うのが普通なので一層おかしく思えたわけです。”民営化”も良いかもしれませんが、やや常識から外れているのでは?と思えるわけです。


もしそれが

 ①勤務時間中(5時前頃ですから、多分、勤務時間中と思いますが、だとすればその分、違う仕事が出来るのでは?と思いますし、

 ②時間外だとすれば残業代の無駄としか思えませんし、又、不払い残業だとすると、違法行為でしょう。



 郵貯民営化と声高に叫ばれてからかなり経ちますが、今年の3月末で郵貯の保する国債は155兆円と言われていますが、もし郵貯銀行が資産の運用方針を変えた場合、誰が国債の引き受け手になるのかその辺の重要問題はどうなっているのでしょうか。
パフオーマンスだけではどうにもならないでしょう。
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