前回投稿で“通貨学派“について述べましたが、他方の“銀行学派“と呼ばれたのは、
トーマス・ツウーク、ジョン・フラートン、ジェームズ・ウイルソン等でありました。
彼等の主張の特徴としては、通貨学派が銀行券の“過剰発行“を主張したのに対し、“銀行がその貸付、前貸しを幾ら抑制しても銀行はその銀行券流通高を直接、減退させえない。
又、銀行券流通高の減退は公衆の側での銀行券需要の減少によって生じるものである。“とし基本的に銀行券の過発券を否定するものでした。
その論理前提の下、銀行学派としての不況認識としてはツウークによれば、
“大なる物価変動の諸現象は最初に信用が容易にかつ広範に与えられ、最後に先の多かれ少なかれ不当な拡張に比例して回収と収縮が有り、その回収は以前の信用の濫用の傾向と程度に従って貨幣市場、あるいは生産物市場、あるいはその両市場に感じられる“と言うものであり、信用の“濫用“にその原因を見たものでした。
従ってその“不況、恐慌対策“としては
“イングランド銀行の金準備を1000万ポンドを下回らないようにすれば信用制度に何の混乱も無く支払いが維持される“とし、
“地金が1500万ポンド以上あるときは500万ポンドまでは地金を自由に流出させて利子率引き上げでその流出を緩和、停止させるべきである。とし、
もし地金が500万ポンドを超えて流出した時には、有価証券に対する操作-有価証券の販売や有価証券満期による資金の回収 や
貸付、割引の制限によって金準備を維持、回復しなければならない。“というものでありました。
上記を見てすぐ分かるように、“銀行学派“としての不況、恐慌対策もやはり、“信用“制限による“金準備保全策“であった訳です(前掲、野村)が、フラートンによっても述べられているように“金利の変動は為替の調節上やや重要な手段となりしかもその作用の及ぶ範囲内では“と言う事で、“金利政策“の重要性が述べられているのは重要であると言うべきでしょうか。(フラートン:通貨論)
そういった中、1841.7から第二次内閣を組んだ当時の有力政治家、ピールはそれらの論議の中で通貨主義者であったロイドの証言によって自らを納得させどんな反対意見にも耳をかさなくなった(フイーヴイヤー)とされ、“ピール条例“と成ってゆきます。
前回投稿で1837-39年恐慌について述べましたが、その事はイングランド銀行に対しても深刻な影響を及ぼしました。というのは言うまでも無く、パーマー等がそのルールにより運営していたにも拘らず、又もや深刻な恐慌が引き起こされたからです。そしてその間、36年から41年に懸けて、五つの委員会がもたれ、特にその中でも40年代の委員会の中で、ウオード(イングランド銀行理事)により、“通貨原理“、“銀行原理“と呼ばれた人々により論争が行われる事となったのでした。
“パーマールールにより運営していた“とされる訳では有りましたが、実際の所はその総債務額(発券+預金)が変動している場合にそれが主として預金に対してであり、銀行券流通高では無かったと言う事等から、パーマー自身が考えていたように“流通量“の変動が為替に影響しその相場を修正するであろうと言うその考えを勘案した場合に、“何が通貨であるか“と言う方向に議論が向かいそれと恐慌の発生が原因付けられました。そういった中、1838年にはパーマー準則の廃止が検討されました。
①通貨学派の立場
イ)原因認識
通貨学派と呼ばれた人達は銀行家のサミュエル・ジョーンズ・ロイド、イングランド銀行理事のジョージ・ウオード・ノーマン、退役軍人のロバート・トレンズ等でありその拠って立つ基本的立場はリカードの貨幣理論でした。
それは簡単的には1国で金属貨幣が適当な割合を超えると→貨幣価値減少→物価上昇→(輸入増)→金属流出その逆は逆となり→国際間の金の流出入と言う事になると言うものでした。
その前提の下に通貨の収縮が無い限り、商業的熱狂の変動、物価の変動が激しくなり、金流出が激しくなった段階でのイングランド銀行の急激な政策が公衆に対する圧迫をかけそこから恐慌が生ずる(ロイド)と言う事になるわけです。
ロ)その恐慌対策
上記の認識からは通貨収縮の一定した固定的ルール、通貨の収縮を厳密に地金の変動と一致させる事が求められ、そしてそれらが行われる事により地金の変動の期間も短く抑えられ通貨の収縮がおくらされる事無く通貨価値の上昇に作用し、金準備を決して危険水準にしない、“公衆の不便“も小さくなると言うものでした。
参照:渡辺佐平 地金論争・通貨論争の研究 野村重明:通貨論争と恐慌(岐阜経済大学論集10巻外
竹中氏が最近の政府の経済運営について処方箋を述べたとの事ですが、些か疑問がありますので述べさせて頂きたく思います。
まず1点目として、氏によれば政府は”マクロ経済政策を誤り、成長率も1%程度しかない”としていますが、本来的サプライサイダーである氏とすれば緩和等が不十分であったと言うことになると思いますが、最近の動向とすれば、タクシー業界でも過剰車両が問題になっているのであり、又観光バス等の業界でも同じである。もし氏が”マクロ政策”として需要不足等を述べるのであれば何時からケインジアンになったのでありましょうか?
2点目として財政赤字についての政策目標がはっきりしないと言う事ですが、郵政民営化で安定的に国債を引き受けてくれる業界が何処にあるのか、又常識的に言って金融的不安定な状況で大量の国債が市場にあふれていることに何らか危機感は抱かないのでしょうか?
3点目として財政需要がはっきりしない旨述べていますが、昨今は某H知事のように人件費が財政赤字の主因であるかのように財政をあまり知らない国民に話している方もいますが、統計を調べればすぐ分かるように日本の対国民人口比での公務員数は世界的に言って少数であり、それよりも年間5兆円近く消費し24年間の累積予算が100兆円を超える”防衛費”は一体どうするつもりなのか、一体あの90式戦車(1台8億円とも言われていますが)が300台以上高い燃料を使いながら北海道を動き回っていますが、そこに誰が攻めてくると言うのでしょうか?
これら上記の質問にできれば竹中氏ご本人の回答が頂きたく思います。
現代社会記述式問題 以下の設問に自分のニュースソースに触れながら答えよ。
500字以内 30分
国家公務員関係労組が上記アンケート結果を発表したが、数日前“厚労省のみが“職員が業務外のサイト等を閲覧している旨の当局側の発表を行った。この件と本日労組側のアンケートが発表になったことに関して時間的関係及び何ゆえ当局は厚労省のみについて閲覧調査をしてきたか、自分のニュースソースに触れながら自らの見解を述べよ。
イデオロギー的には正反対だと思いますが、地球環境問題に付いての都知事の姿勢は基本的に支持します。その意味でサミットが一体何をやったのか極めて問題だと思います。それをしっかり追求していないマスコミも問題が有ると言わねば成らないでしょう。
このまま中期目標も決めずに推移するなら、全く“最悪の“事態はありうるといわねば成らないでしょう。その責任はF首相に有る事は論を待ちません。
涼しい所でおいしい食事を取りながら、全く一体何を考えているのでしょうか?
いや、考えていれば未だいいのですすが、実は・???
すぐにでも着手出来る物。
1、夜間のネオンの廃止。
2、コンビニの深夜営業の制限
3、一定金額以下の売り上げしかない自動販売機の制限
上記、“影響が有る“とするなら段階を追って追求すべきです。
中期的には、
イ全体としての縮小的成長、(無駄なエネルギー、産業部門の縮小)と
ロ一人の労働時間の短縮による完全雇用、
ハ競争力過大な産業部門からの適正な徴税による社会保障の充実による必要的労働時間の短縮等
国の“優秀な“官僚の皆さんに“期待します“。
1837年の下半期にイギリスに於ける恐慌は底を付いた。その後イギリスに於いては1838年はあきらかな好転を示したが、1838年を通じて一般的取引はやや不活発であった。その中、1838年2月にはイングランド銀行割引率は5%から4%に引き下げられ、金属準備は約950万ポンドになっていた。1838年末に960万ポンドあった金属準備は1839年になってからその年の農業の不作から小麦の輸入が増加すると伴に減り始め、又、アメリカ証券の購入や、1838年末に起きたフランスとベルギーでの銀行破産等にもより流出が起きた。(ホートレー)
その間、バンクレートは5月16日に4%→5%
6月20日に5%→51/2%に引き上げられた。
(尚、前稿で金利引き上げが対外金利均衡を考慮した可能性について述べましたが、当時の交通等の事情では、電信については前にも述べましたが、英欧間でも1843年にロスチャイルド家で使われたのが初めてとされ、又運輸について言えば、19世紀初頭は帆船が主流であり、大西洋横断“汽船“は1838年4月が初めてとされその定期航路は1840年にイギリスの船会社が始めたとされ、帆船の場合には大西洋の往復には恐らくは数ヶ月を要したと見られ、(世界海運史:黒田英雄)果たして
そのような状態で対米金利が考慮されたかは些か疑問の余地があります。
又流出が続く中、7月にはパリで200万ポンド、ハンブルグで90万ポンドのクレジットを得たとされます。
又更にバンクレートを51/2%から6%に引き上げますが金属準備は9月には240万ポンドになりました。
又、手形満期の限度をそれまでの95日から60日としました。(ホートレー)
尚、参考までにフランス銀行は1820.2~1847.1までその利率は変更がありませんでした。(ツウーク)
これについてホートレーはイングランド銀行により割引政策が真剣に頼りにされたのはこれが始めてとし、フイーヴイヤーは“1839年の恐慌は異常な商業上の破綻や銀行業上の破綻をいっさいもたらさなかった“としています。
又イングランド銀行理事のノーマン(後述する“通貨論争“では“通貨主義者“という分類がされていますが)は、“金属流出時に証券の販売により市場から貨幣を取り去るべきであったと後日述べています。
1836年に入り、銀行の設立等が又、投機的に行われるようになった。2月の議会では“繁栄状態にある旨“の演説も行われた。(メンデリソン)しかし、春頃には貨幣市場の逼迫が起こり、3月に800万ポンドであった金属準備は8月末には530万ポンドになっていた。この間、7月21日にバンクレートは4%から41/2%に引き上げられた。始めの流出は国外流出であった。その時点で“イングランド銀行理事会は、本来的にその証券を減らすべきであった時にそれを増やし、1825年と同じ過ちを犯した“(Page)。又、“市場利子利率は4月に既に4%であり、市場の力が生み出そうとしていた利子率の騰貴をイングランド銀行が促進すべきであった時にイングランド銀行の利子率は据え置かれた“(フイーヴイヤー:ポンドスターリング)との指摘がありますが、
このPage の見解は、“証券を減額すべき“と言う事は“流通“を増やすべきともとれます。又、フイーヴイヤーの“利子率を上昇さすべき“との見解は、所謂、対外利子率の均衡(この場合特にアメリカと思われますが)を旨に述べているとも取れます。
その後9月1日にバンクレートは41/2%から5%に引き上げられます。秋には為替相場は回復しましたが、国内でイングランド銀行券に不信の強かったアイルランド地方を始めとして秋と冬に国内流出が起こります。
その間11月にノーザン・アンド・セントラル銀行がイングランド銀行に救済を求めましたがイングランド銀行は12月に一時的に援助しましたが清算に移行すべきとされました。又、エスデイルス(ロンドンの個人銀行)の経営困難に付いてロンドンの多数の個人銀行が援助をし、イングランド銀行もそれに加わりました。
又諸銀行はアメリカでの事業に従事していた幾らかの企業に大規模な貸付を行ったとされます。
そして、“これらの行動がこの恐慌を1825年のような激しい物になるのを防いだ。“としています(フイーヴィヤー)
その後1837年前半は破産件数は異常な数であったとされますが、この間、“真の恐慌と言う日は無く、地金は2月7日以降減少しなかった。“とされます(クラパム)。これらを通じると1825年恐慌の時には無かった金融機関同士の、又一部でのイングランド銀行の援助が出来る等によりその激発性を緩和したと言う事は明らかではないでしょうか。