マクロ経済そして自然環境

経済的諸問題及び自然環境問題に感想、意見を書く事です。基本はどうしたら住みやすくなるかです。皆さんのご意見歓迎です。

古書店街は文化、科学の本拠地

2008-10-27 21:18:21 | Weblog
古書店街、ネットと共存 神保町、店舗数じわり増加/“知の集
積”強み(産経新聞) - goo ニュース


神田の記事が出ていましたが正しく古書店街は文化と科学の本拠地と言うべきであり、それは何故かと言うと、最近のインターネットばやりの世の中では有りますが、本の中身は実際手にとって中を見ないとわからないと言う事です。タイトルと中身が違う事はしばしばですし、又適当な本をそのタイトルからだけで検索しようと思っても限界があります。

又図書館は閉架の場合が多く中身は中々確認できません。そういった面では特定のテーマの本を探そうと思ったら古書店街に通うしかないと言うのが私の・・年間の実感です。

外国にもこの神田のような所は中々無いと思われます(英国に・・・と言う所も有るようです)いずれにしても文化と科学を発展させる為には古書店街は必須と言うことではないかと思います-更に言うなら“文化財“として補助金があってもしかるべきと言うのが私の実感です-古書店街が無かったら私の投稿は成り立ち得ないと思っています。
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景気政策史-29  1873年恐慌前後

2008-10-26 16:38:51 | 景気政策史

 前回投稿で“バジョットの原理“について述べましたが、恐慌の発生形態を“対内“対外“に区分して対応すべき との方向を認識していたと述べましたが、その具体的結論としては“銀行準備が1000万ポンド以下に成らないようにする、又、2-3百万ポンドは直ぐに(外国に)流出するとして、1400万-1500万ポンドになったら利率の引き上げを開始すべき“(ロンバート街)としました。この事は要は英銀行の金属準備を大きな水準にすべきとの結論に達するわけですが、これは同行元総裁のハンキーの反論にあいます(フイーヴィヤー)つまり以前より説明したように同行が金属準備を大きく持つと言う事は、即ち“不採算資金“を増やす事に繋がると言う事です。

 しかし同行の実際的データは、
1851-1860の最低準備(発行部)970万ポンド 最高2010万ポンド に対し、
1871-1880では最低1990万ポンド 最高3130万ポンド 
 (Abstract of British Historical Statistics B.R.Mitchell他) 等で明らかなように19世紀中増大を続ける事と成ります。これは実際的にはバジョットの見解を受け入れた物と言えるでしょう。

そういった中、1873年夏からアメリカと欧州を元とする恐慌が発生します。当初アメリカで1871年12月に取引所を主体に割引率が9%にも成ったが、欧州からの金の流入で緩和された(メンデリソン)しかし、1873年5月にウイーンを発生地にした取引所恐慌が発生し24時間の間に株式は数億も減価するという様な状況になります。 そしてそれがドイツに波及し、その中でアメリカ証券が安売りされる中、9月にはアメリカに波及し、取引所は大量の破産と相場の暴落で歴史上前例の無い“10日間の閉鎖“に追い込まれます。

金融市場の逼迫を緩和する為“政府は国債の買占め“をしましたが事態の緩和には至らなかった。

その時にイギリスでは11月にバンクレートを9%に引上げたが直ぐに逼迫は収まり金利は5%に引下げられました。

11月時点でプロシア銀行から“金の融資 “が申し込まれましたが英銀行は慇懃に断ったとされます(クラパム)

同行が手を打つことが出来たのは“金を充分に持っていたので、為替でなく国内事情について考慮したから“とされます。 

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景気政策史-28  バジョット原理

2008-10-12 14:33:28 | 景気政策史

 前回投稿で19世紀末を概観的に説明しましたが、1870年前後に当時のイギリス金融政策等に影響力を持っていたのがウオルターバジョットでした。バジョットは1826年生まれで「イギリス憲政論」等でも有名ですが、(バジョットについてクラパムは“バジョットの非常に大きな権威をもってすれば“と評価しています)35才から51才でなくなるまで「エコノミスト」の編集長をしました。

1866年恐慌の後、1870年から普仏戦争が起き1871年にフランスの敗北で終了しますがその代償をフランスに求め53億フランを要求しました。その結果フランスは兌換性を中止し、他方ドイツは1871年に金本位制を導入し、それはドイツの工業的隆盛と諸国の金本位制への移行の流れを作りました。

 1866年恐慌を受け、バジョットは“緊急の場合には自動的に発券の拡大を許す条項の必要性“を述べましたが 、仏銀行は“困難な時に一度ならずイングランド銀行に協力してきた銀行であり欧州に於けるイングランド銀行に次ぐ金銀の公的原泉であった“(クラパム)わけで、仏銀行の兌換中止は当然、金属の調達場所としてのイングランド銀行への圧力を強めたと思われますが(仏銀行の兌換再開は1878年)そのような中、バジョットは自らの金融政策的見解を“ロンバート街“と言う著作を著し述べる事と成ったのでした。その発刊は丁度1873年恐慌が起きたのと同時の1873年でした。

 
 
 ロンバート街ではバジョットは、“突然不意に起きる請求に対し“と述べ、(第2章)それを“外国からのもの“と“国内から来るもの“としこの観点は以前に述べましたが、ベアリング等と同じものであり、“恐慌の発現形態“の指摘としては鋭いものと言えますが、“巨額の物を調達するにはイングランド銀行が有効なる一手段を忠実に取る事が必要“として同行の責任を明らかにし、

①対外的流出に注意して必要に応じて利率を引き上げるべき、としその輸出を停止する事ができない限り国内の恐慌を緩和する事は出来ないとします。

②その引上げられた利率で最後の銀行支払準備金の保有者は寛大に貸し付けなければならないとします。

そして斯かる相反する重症を同時に処理すると言う事は“極めて巧妙なる手腕と極めて精緻なる判断が必要“と述べ、“熟達の銀行家分子“を英銀行に増加すべきとします。


注:クラパムの”イングランド銀行”は同行の250周年を記念して委嘱して出版されたもので当然、それなりの権威があるものです。

尚、今週は投稿者外出の為、投稿はお休みさせて頂きます。

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時代は後退している。

2008-10-10 21:09:13 | Weblog
奨学金滞納者を通報へ 学生支援機構、金融機関側に(朝日新聞) - goo ニュース
この記事を読んでまず思ったのは明らかに時代は後退していると言う事です。70年代、私が学生だった頃、日本育英会から奨学金を貰っていましたが(特に超優良と言うわけでは有りませんでしたが)月額7500円、都内某私大で授業料は“年間“6万円、授業料と交通費を出せるぐらいでした。そして約5割返還すれば後は免除でした。因みに就職した時の始めの給料が7万円一寸でした。これを思い返すと日本育英会は小泉内閣により“民間に出来るものは民間へ“と言うスローガンの下、廃止されましたが明らかに“時代は後退しています“。時代を30年前に戻さなければならないでしょう-“無資源国“の我が国から教育を省いたら何が残るのでしょうか?・・くらい未来だけではないでしょうか。
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景気政策史-27 19世紀後半の経済史的概観 補説 国際資金循環

2008-10-05 20:27:13 | 景気政策史

前回投稿で今後の話の前提となる19世紀後半の若干の経済史的事実に付いて述べましたが流石にそれを一回の投稿で述べるのは難しく従いましてその補説を国際金融的側面について限って述べたいと思います。(植民地政策、対外商業政策と不況の関係については後で纏めて述べたいと思います)

前回投稿でS.B.ソウルの“国際資金決済“について述べましたが、ソウルはその“世界貿易の構造とイギリス経済“堀、西村訳(原題:Studies in British Overseas Trade,1870-1914)の中で
①1880年の国際資金循環、-貿易収支及び地金収支となっている でイギリスを中心にした国際貿易等の決済の循環 又

②1910年のやはりイギリスを中心にした国際資金循環について述べています。

これについては、“資本収支“については1910年当時のデータを下に推測したデータを下に算出したとしています。その②では借方がアメリカを筆頭に合計14500万ポンド 貸方がインドを筆頭に11800万ポンドと計上され 2700万ポンドの赤字になっておりこれについては“多くの諸国の受け取り等“であると述べています。

ここで問題とされるべきは国際間の収支はどこかで決済されなければ国際間の貿易は成り立たないと言う事です。これに付き前掲吉岡 近代イギリス経済史 は対アメリカ ヨーロッパからの決済をインドの黒字 アジア等からの黒字で補完し、そういった中、資本輸出、短資貸付が行われ、そこに欧州中央銀行が組み込まれていたとしています。これは今日のドル循環問題のさきがけとも言うべき観点と思われます。

大事な所ですので若干、図で示したいと思います。

     A →→→  B
     ↑     ↓
     ↑     ↓     
     ↑     ↓
      D ←←← C

 上記で→が貨幣の流れを表すとすれば、仮にAがイギリスであるとすれば、B国へ入超、Dは逆にAへ入超、で結果的にイギリスAは出入のバランスが取れることになります。何らかの理由でDから流入が無くなれば、Aは貨幣の枯渇になります。その為にはA-B-C-D-Aの循環が保たれる事が必要に為ると言う事です。 

 
 19世紀世界経済の循環、又イングランド銀行を中心に金融政策が行われたわけですが、その前提にはこの様な資金循環があったと言う事が念頭に置かれねば成らないということです。

 
 又そこに於いて19世紀後半には銀問題が大きな問題となり、(銀本位、金銀複本位国にとっては“銀価格“の低落は重要な問題ならざるを得ないからです)そこに仏、米等金本位で無かった国を中心に国際会議がもたれる様に成ったと言う事ですが、それにイギリスでの当時の一般的不況と物価の低落が連関付けられ、又当時のインドが銀本位制であった事も絡み、問題となっていったのでした。2008.11.3訂正

参照: 銀 本位通貨史における役割 高垣寅次朗他
    現代アメリカ国際収支の研究 松村文武  

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