1861年のアメリカ南北戦争の開始と伴に、当初はアメリカからの対欧州債権の取立てがあったとされ(恐慌史概説:山口茂)また他方ではアメリカの不換紙幣制導入と伴に欧州への金流入があったとされますが、一方前回投稿で説明しました会社法制に“有限責任性“が導入されると伴に、有限責任会社の設立がブームとなり、それは1866年恐慌の大きな誘引になったとされますが、その数は300以上にもなり公称資本金は5億ポンド以上にもなったとされます。(アンドレアス)しかしその90%以上は後に支払いを停止したとされ、暫くの間“株式会社制度“の長所も忘れさせたほどであるとされます。
他方、欧州では戦乱の危機が迫っており(プロシア・オーストリア戦争1866.6 )
1866年3月 4月、欧州からイングランド銀行準備金に引き出しの恐れがあり、又他方、イギリス内では“融通手形“取引等による倒産が起きていた。
イングランド銀行は“用心の為“、金利を5月3日に6%から7%に、更に5月5日に8%に引き上げた。それと同時に当時イングランド銀行に次ぐ信用を持っていたとされるオーバーレンド・ガーニー商会が危機に陥り、5月の始めにイングランド銀行に救いを求めてきましたが帳簿検査の結果、援助を断られ、5月10日に倒産した。翌5月11日はBlack Fridayと呼ばれ、ロンバート街は公衆の渦に埋もれたとされます。
その日一日だけでイングランド銀行は400万ポンド以上もの貸付を行ったとされ、一方準備は300万ポンドにも減少したとされます。そういった中、同日、政府は議会で事情を説明し、“免責法“の書簡を同行に送ったとされ、他方バンクレートは12日に10%に引き上げられました。今回に於いては書簡の効果は大きく、恐慌は沈静に向かい、“限外発行“はされませんでした。つまり1857年恐慌とは違って実際には超過の銀行券発行は無かったと言う事です。
尚、5月10日に於ける欧州の金利はパリが4%、ウイーンは5%でベルリンは7%であったがこの事は又欧州による金融の政治利用があったとされます。(クラパム)
又それに付きイングランド銀行が金利を10%にしたことは効果があったとされます。
その高金利は戦乱が落ち着く8月まで続きました。
参照:西村閑也 国際金本位制とロンドン金融市場 に欧州各国の金利一覧が載っています。
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