マクロ経済そして自然環境

経済的諸問題及び自然環境問題に感想、意見を書く事です。基本はどうしたら住みやすくなるかです。皆さんのご意見歓迎です。

景気政策史-34  1890年前後の若干の政治社会的背景

2008-11-30 16:24:14 | 景気政策史

前回投稿でベアリング恐慌について述べましたが、読者の方も気がついたかとも思いますが、これまでの恐慌処理と若干違った局面があったと思われることです。それは、


①1847,1857,1866年の各恐慌においては1844年法の停止の申し入れが有った時、そのまま、大臣の書簡を受け入れたにも拘らず、今恐慌においては同行総裁は、“そのような書簡への依存はイングランドに於ける多くの不健全な銀行経営の原因であった“としてそれを断った。

②但し、損失があった場合にその一部を政府に負担して欲しいとの申し入れをした事。

③ベアリング商会の事後処理の過程で改組した同株式会社へ家族の私財産が投入された事。これは過去の恐慌時の処理を全て具に当たって見ないと断定しきれませんがこれまでのクラパムの叙述の中ではそのような部分が見当たらない事。

④処理の為の他行等の“基金“が作られ結果的にそれにより処理が行われた事。

⑤フランスからの金の借入の他、ロシアから金を購入した事



 等が過去の問題処理と明かに異なっていると言う事です。特に英銀行総裁が1844年法の停止につき“不健全な銀行経営の元“とした事は注目すべきと思われます。
(但し、政府の“保証“を求めた事との関連で言えば若干評価は難しいかもしれませんが)


ここで考えなければならないのは常識的に解るように“経済政策“はその時の社会・政治情勢から影響を受けざるを得ないと言う事です。若干、当時の政治状況を振り返ってみれば1890年と言う年は

イ)ドイツでは既に1871年から男子普通選挙権が導入され、ビスマルクが1890年下野し、同年の選挙で社会主義政党である社会民主党が19%の得票を得ていた事、又前年の1889年には第一回メーデーが行われ社会主義の国際組織である第二インターナショナルが作られ又

ロ)イギリスに於いても1884年には、社会民主連盟やフエビアン協会が作られ、1889年にはガス労働者の組合が12時間労働からストライキにより8時間労働を獲得していたと言うような大きな社会状況があったと言う事、


 又イデオロギー的にはリカードやマルクス等の“労働価値説“に基づき、“不労所得“への批判が強まっていた事等が背景としては無視できないものがあると言わざるを得ないかもしれません。


 又、過去の恐慌のときにロシアから資金を求めたと言う記述はクラパムにも見当たりませんが、当時の欧州の外交関係から言うならイギリスは概ね、ロシアの南下政策に対抗してきたが、1890年は独露再保障条約の更新の年であったが、独逸はビスマルクの下野とともに、その更新を拒絶し、それによりロシアはフランスに接近し1891-1894年で露仏同盟を結ぶこととなったわけで、その力関係からロシアがイギリスに接近を図ったとも見られます。

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景気政策史-33 1890年“ベアリング恐慌“とその対処-2

2008-11-23 17:02:07 | 景気政策史

 大蔵大臣ゴッシェンが前回投稿のようにイングランド銀行総裁に答える一方、並行してベアリングの状態が明かになるにつれ、イングランド銀行内部で主たる銀行、商社の会合が行われる事と成った(アンドレアス)、又ゴッシェンは“ベアリングの事は1866年恐慌はこれに比べれば取るに足らない“と考えていたが、“大商会は一つになって必要な保証を与えなければならない“とし、又“政府の援助がなければこの事は不可能だ“とした。彼は総裁に“大蔵大臣書簡“(1844年法の停止)をだしてもよい旨伝えたが、それに対して総裁は“そのような通達への依存はイングランドに於ける多くの悪しき銀行業務の原因となった“として拒否した。

並行してフランスから金(300万ポンド)が来、又ロシアから150万ポンドが来た。更にバンクレートを6%に引上げた。

一方、イングランド銀行内部で開かれた主要銀行の会議は“公衆の利益が危機に瀕しておりベアリング家にとってはその負債を払う事が不可能であった事を考慮して-実際には支払い能力はあったが-同家の援助を行う決定をし、イングランド銀行が“債務の為に支給し“その代わり全ての不測の損失は3年間継続する“保証基金“によって“各自の保証金額に比例して保証される“ことが申し合わせられた。(この部分の詳細はクラパム、アンドレアスが詳しい)保証基金は1700万ポンドにも達したとされます。

又並行して大臣は“ベアリング商会の手形の割引によって蒙るかもしれない損失の半分を負担する約束をした“とされます(ポンド・スターリング)但しこれについてはクラパムによれば文書にした時には表現はやや“曖昧“にされたと言います。

それらの結果、“銀行取付は一軒も無く、又国内の金の流出も起きなかった“とされます。

保証基金は3年間の予定で存続されたが、これらにつき総括すれば



①“保証基金“の創設は全く例外であり一般的には持ちいれられなかった。

②1883年以来引退していたT.Cベアリングは改組された同社の取締役になりその財産を正大に新会社の自由に委ねたとします。
又クラパムによれば“家族の個人財産が次々に注ぎ込まれた“とします。

③1844年法の停止を回避した事 その理由はそれが上記のように“悪しき慣行になる“とされた事。

④更に、上記の通り政府から保証を取り付けたことがあると思いますが、読者の方もお分かりの通りこれが慣行になるなら正しく“民営“の根幹の問題になるということでしょう。

保証人については損害は発生せず、結果的に“直接的政府の支出“は無かった事になります。(クラパムの記述による)

その結果1894年には一切の支払いが新会社に移行したとされます。



これらを勘案するに“個別会社等への政府の何らかの直接的保証“は今まで見たように19世紀のこれまでのイギリス金融史には無かった事でありますが、これに付き1825年恐慌に付き、1826年早くに、商人達から救済の為、Exchequer Bill(国庫証書)の発行を求められた時、議会で議論されたが拒否されたとし、これに付き、“危機の時の対応はイングランド銀行か政府かとされ、同行が責任を持つべき“(Fetter)。とされた時以来であると思われます。

但し1793年恐慌の時には救済のため国庫証書が発行されましたが、クラパムによれば“割引“されたとしますが、同証書は一時期“流通した“との表現も有り、それ自体“紙券“の役割をした時もあったようです。

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景気政策史-32 1890年“ベアリング恐慌“とその対処-1

2008-11-16 14:42:31 | 景気政策史

 前回投稿で19世紀末のイングランド銀行の金融政策と不況の関係について若干述べましたが、世情、19世紀末の恐慌として取り上げられるのが1890年に起きた“ベアリング恐慌“です。これは恐慌史のうえでも1873年恐慌の次に起きたものとして取り上げられるものです。又一般的にはアメリカ、ドイツ等の工業の隆盛に伴い又イギリスを徐々に凌駕するにつれ景気循環の波も移行していったとされます。


 1880年代後半からブームが訪れ、北米への投資や、南アフリカでの金鉱等への投資が進んだとされます。そしてその中でも注意を引いたのが南米への証券投資であり89年のイギリス海外証券投資が全体で1億2千2百万ポンドに及んだうち4千万ポンドが南米の投資に向けられたとされ(ドイツ恐慌史論:石見徹)その多くがアルゼンチンに向けられたとされ、それが“セデユラス“という“土地担保付債権“に向けられたとされます。

これは確定利付き債権であり、極めて名高い二件のイギリス商店により欧州に導入され販売されたとされます(アンドレアス)そこにおいてアルゼンチンの財政状態に不安が起こりそこからイギリスで危惧され優良な証券の価格の下落が起きました。


 イングランド銀行の利率は通常の“秋の流出“-穀物輸入の関係等による通例の流出-とスペインの金の需要によりバンクレートが6%になりその間、一時は欧州第6番目の有力者と呼ばれたベアリング商会がその引き受けた南米の事業会社の証券の発行に失敗があったとされその証券はロンドン金融市場で販売する事が困難に成ったという事で、転売不可能になった証券を大量に抱え込み困難に成ったとされます。

“ベアリング商会“は以前の投稿で18世紀末に“イングランド銀行論“を著したF.ベアリングが始祖になるイギリスでも名門とされる会社であった訳でありますが
、それがシテイーの中で不安が広まる中、11月8日にベアリング商会はイングランド銀行に自らの置かれている状態につき開陳しました。その中もし当商会が支払いを停止すれば大きな被害が出るのは明らかであった。そこで同行総裁リッダデールが大蔵大臣ゴッシェンと接触を持ちました。


 
 当初、ゴッシェンは“一商会の為には介入する事“は出来ないとしましたが“支払い能力があるならあらゆる支援を惜しまない“としました。

                     

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景気政策史-31 19世紀末イングランド銀行金融政策と不況-2

2008-11-09 13:56:12 | 景気政策史

 前回投稿でイギリスに於いて不況時に対外関係から高金利にせざるを得ない状況から国内産業に負担を架す事-公定歩合と連動していた産業企業の当座貸越利率の上昇を齎す事無しに貨幣市場及び割引市場の利率を引上げる事(ポンド・スターリング) - に対し種々の実験を始めたとしましたが、                                                          
 
 それはセイヤーズ:イングランド銀行によれば
“公定歩合を引上げる事はその目的は対外的な資本収支状態に影響を及ぼし金準備を強化するか又は少なくともそれを防衛する事“であり“直接にせよ預金通貨の供給収縮により商業や産業活動を抑制する事は同行の目的ではなく、市場操作はロンドン手形市場における金利を引上げる事だけに向けられていた“とし“公定歩合の操作がロンドンの外にどのような影響を持つか国内経済の調査をした“とし、支店において商業銀行の当座貸越利率がどの程度公定歩合と結び付けられていたか調査した“とします。これから判断される事は対外金利の影響は多く“手形市場による“ものと考えられ、それは産業、商業向けの当座貸越利率とは必ずしも連動していなかった事を示すと思われます。

セイヤーズは1900年代の事としていますが“公定歩合条項“の事に触れていますが他方で一部地方での“最低約款“-最低利率以下の利率変動を無視する事-を述べています。



そこにおいて“貨幣市場、割引市場“に影響を与える方策としては、ポンドスターリングでは

①市場からの借入
 イ)通常のやり方は“イングランド銀行が貸手に対して担保として証券を預託するという事により行ったとされます。
 ロ)多額の残高のある保有者と特別の取り決めを行い、通常利子を支払わなかったものに対し一部分を利子つきで又貸する。
等によったとされます。

②証券の直接売却することにより市場から資金を取り除いたとされます。
 手形の割引対象の期間を調整することにより市場に影響を与えたとされます。


又直接的に金準備を増加する方策として
 金市場に対する間接的影響により金保有の増大手段とした。
 英銀行の金買取に関する“最高買入価格“、“最高売却価格“には1844年法には規定が無かったことにより買入価格を操作したとされます。
又、地金デイーラー等に対し無利子貸付をする事等も行ったとされます。

これらの金操作(gold devises)は、ライヒスバンク(独)でも“金輸入業者に無利子前貸し等が行われたとされ、欧州各国で普通に行われていた“とされます。(ドイツの通貨と経済:ドイツ・ブンデスバンク編)
これらは当然“金の公定価格“に影響を与えずに操作する方法という事ですがどの程度の効果が有ったかは議論の有る所のようですが金利を上げずに金保有を増やす為の一手段であった事は事実であろうと思います。



これらの方法が上記高利率の元で産業、企業に負担を懸けないようにする工夫とされましたが19世紀末にはロンドン証券市場には多くの証券が流通していたとされ、日本政府でも1870年、1873年にロンドンでポンド建国債を発行したとされ、1870年代には既に国際電信ネットワークが有り、1875年にはおもな16ヵ国の国債残高は6億ポンドとされ、1905年には12億ポンドの残高があったとされます(100年前の日本国債:富田俊基 知的資産創造 2005 4月号)

これらの事は当然、国債等証券の価格と市場利子率の相関関係に影響が出ていた事を想起させ英銀行が高金利政策を取る事に対し問題で有ったであろう事は当然予測させるものです。2008.11.16訂正

参照 酒井一夫他編:比較金融史研究

未定稿 2008.11.20


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景気政策史-30 19世紀末イングランド銀行金融政策と不況-1

2008-11-02 20:55:56 | 景気政策史

前回投稿でバジョット原理とその適用について述べましたが1873年恐慌の後、1882年、1884年、1890年と恐慌が続きます。(前掲:山口)クラパム、ポンドスターリング(12章からはビクター・モーガンの著述)は1882年、1884年恐慌には直接触れておらず、この間は、主として同書等によって著述していますが、補完可能な限り努力するのは当然ですが、ここで19世紀末のイングランド銀行の金融政策と不況の関係について述べたいと思います。

①公定歩合の“無効性“と金融緩和政策
 これは1870年代頃より言われるようになったものであり、公定歩合と市場利子率との密接な連関が失われ公定歩合を引上げても市場利子率が上昇せずしたっがて外国短資の流入も失われ国際収支対策として公定歩合引き上げが無効になったとされるものです(前掲:西村)これに付きこれは

イ)1870年以降国際収支が金利の上下に敏感に反応するようになったという事
ロ)公定歩合の上下が市場金利の上下を引き起こさなくなったという事
を意味するとされ何故公定歩合の上下と市場金利の上下が連動しなくなったかという事に関しては議論が有るようですが、モーガンは“株式銀行の預金の急速な増加と銀行間の激烈な短資の運用の競争が割引率を押し下げた“としています。

そのような中、イングランド銀行は公定歩合政策を補完するものとして公開市場操作を用い、それによって公定歩合の引き上げが市場利子率の引き上げとなりそれが大規模な短資流入、金の流入となりそれによってイングランド銀行の金融緩和政策を可能としたとされます(西村)
(尚同行の公開市場操作についてはクラパムの2巻が詳しい。)

②公定歩合政策と国内産業への考慮
上記のように依然として準備金を守る政策として公定歩合政策が使われたわけですが、それにつきモーガンは“高い利率を有効に保つ事が困難である事、及びイングランド銀行が国内産業が窮地にあるところへ更に高利率という負担を負荷するのは乗り気でなかった“として同行が種々の実験を始めたとします。

未定稿 2008.11.20



注:本稿は投稿に当たって万膳を期していますが、不正確、誤謬等発見した場合はそのつど注を記して改訂しています事をご承知於きください。




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