tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

自慢のスイーツを限定販売!ならスイーツコンテスト「報告イベント学園前」(2012Topic)

2012年03月26日 | お知らせ
イベント企画会社「YUMIふぁーむ」代表の荒木友美子さんから先日、こんなメールをいただいた。《お陰さまで、1月28日(橿原市)開催の「第3回ならスイーツコンテスト」、チケットの入手も出来ないほど大盛況のイベントになりました。奈良の北部の皆さまにもお越しいただきたく、第3回ならスイーツコンテスト~報告イベント学園前~を、3月31日(土)、4月1日(日)の2日間、近鉄学園前の近鉄「楽・元気プラザ」に於いて開催いたします》。

《参加パティシエ自慢のスイーツやグランプリ、準グランプリの作品紹介や限定販売、そして地産のファーマーズ・マーケットも出店いたします。スイーツコンテスト参加の方を、微力ながら“ならスイーツプロジェクト”が応援し、皆様と共に楽しみ、奈良の魅力を発信していきたい!との思いの企画です》。

荒木さんは、平城遷都1300年の2010年、第1回スイーツコンテスト(せんとバレンタイン なら Sweets)を奈良マーチャントシードセンター(奈良もちいどのセンター街)で開催され、大好評を博した。

翌年、同じ場所で第2回、そして昨年の第3回は橿原市に舞台を移して開催し、いずれも大盛況となった。荒木さんのご活躍ぶりは、毎日新聞奈良版でも大きく紹介された。以下、今回のイベントについて、YUMIふぁーむの報道資料を貼っておく。文字通り、スイーツファン垂涎の好企画である。


“第3回ならスイーツコンテスト”~報告イベント学園前~

日時 平成24年3月31日(土)4月1日(日) 10時~17時
会場 学園前 パラディⅡ6F 近鉄「楽・元気」プラザ

奈良の地産素材を使い奈良の魅力あるオリジナルスイーツを発信する「ならスイーツコンテスト」。第3回は、奈良市から橿原市に会場を移し、八木にあるクラシカルで素敵な洋館(国の登録有形文化財)での開催に、創意工夫のスイーツが集まり、夢のような一日を大盛況のうちに終える事ができました。

好評につき、前売り試食チケットは1週間も前から完売となり、当日チケットも購入出来ず、心残りな方も多くいらっしゃいました。そして、橿原市での開催ということもあり、エントリーのお菓子には中南和の食材の魅力を盛り込んだものがたくさん発表されました。

そこで、“第3回ならスイーツコンテスト”~報告イベント学園前~ にお越しいただき、「ならスイーツ」を楽しみにしてくださっている皆様はもちろん、ご存じでない方も 北部・南部の魅力を共に楽しみ、もっと多くの方(県外)に奈良の魅力を発信したい!との思いで企画します。

コンテストのグランプリ、準グランプリ作品をはじめ、参加パティシエ(プロ・地元女子大生など)創意工夫の“限定販売のお菓子”が並びます。パティシエのお菓子に対する想いPR等の交流の場として、イートインコーナーではお菓子と「大和茶のアレンジティー」も一緒にお楽しみください。地産のファーマーズ・マーケットも出店します。 

正直いって奈良でスイーツという発想は、私には全くなかった。しかし、第1回のコンテスト会場に足を運び、あまりの人出に肝をつぶした。奈良に住む若い女性の目は大阪や京都にばかり向けられていると思っていたが、ちゃんとした仕掛けをすれば、地元に足を運んでくれるのである。第3回も「八木(橿原市)で大丈夫かなぁ」と心配したが、これも全くの杞憂だった。むしろ中南和の魅力的な食材を使ったスイーツが、たくさん並べられたのである。

今回の「報告イベント学園前」は、八木で好評を博したスイーツがずらりと並べられる。このようなイベントは、西奈良こそが最も似つかわしい。開催場所の「パラディⅡ」は一部工事中なので、入口は看板の表示に従ってお入りいただきたい(予約はご無用。会場は6階)。ぜひ、足をお運びください!

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奈良県が韓国語による「観光ガイドブック」を制作!(2012Topic)

2012年03月25日 | お知らせ
県国際観光課のKさんから、こんなメールをいただいた。《このたび、韓国向けに奈良県観光ガイドブックを作成しました。訪日個人旅行取り扱い最大手の現地旅行会社「株式会社旅行博士」のスタッフと共に実際に奈良を取材し、韓国人の趣向にあった素材を厳選して掲載したものです。韓国では訪日旅行形態の7割が個人旅行であり、ガイドブックの掲載地域も公共交通機関を利用して周遊できるエリアとしています》。県のHPから概要を拾うと

◆配布開始
平成24年3月23日から
◆配布場所
韓国内で訪日個人旅行を中心に取り扱う主要旅行社、日本政府観光局ソウル事務所 等
◆作成部数
1万部
◆サイズ
A5版 36ページ
◆掲載内容
○関西スルーパスが利用できる駅周辺の観光名所、飲食店、土産物店
※関西スルーパスは(株)スルッとKANSAIが発行する周遊パスで、関西を訪問する多くの韓国人旅行客が利用。
○奈良周遊モデルコース
○奈良グルメ
◆掲載地域
奈良公園周辺、商店街、ならまち、平城宮跡・西大寺、生駒、長谷寺周辺、飛鳥、今井町、當麻寺周辺



日本に来る韓国人旅行者の「7割」が個人旅行((Foreign Independent Tour)とは、知らなかった。時々、奈良公園などで韓国人のグループを見かけるが、団体旅行のフリータイムを利用して来ているのだとばかり思っていた。個人が7割なら、ガイドブックを作る意義は、大いにある。

県は忠清南道と友好提携しているし、奈良市は慶州市と、明日香村は扶餘(プヨ)郡と姉妹都市提携している。奈良墨は朝鮮(高句麗)からもたらされたものだし、大仏造立の総指揮をとった国中連公麻呂か百済からの亡命者の孫だったし、大仏殿の造営には、新羅系渡来人の子孫が総監督を務めている。當麻寺の落慶法要(684年)では、百済の僧・恵灌(えかん)が導師を務めたそうだ。このような「ゆかり」だけでも、たくさんある。このガイドブックで、韓国の旅行者を奈良に引きつけていただきたいものである。
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奈良県のさかな アンケート募集中!(2012Topic)

2012年03月24日 | お知らせ
朝日新聞奈良版(3/22付)に、こんな記事が出ていた。見出しは《「県のさかな」制定へ 14年、県内で「海づくり」全国大会》である。《水産資源の維持や海の環境保全をうたう「第34回全国豊かな海づくり大会」が2014年、県内で初めて開かれることが決まった。県は大会を記念し、「県のさかな」を制定する。農業水産振興課によると、大会は魚業関係者らが出席して式典と稚魚の放流をする。時期や場所は未定だが、荒井正吾知事は「初夏から秋にかけ吉野川流域で行いたい」と話している。これまで滋賀や岐阜といった海なし県でも開かれている》。
※トップ写真は東吉野村特産の天然アユ。同村観光協会のホームページより

《「県のさかな」は県民のアンケートをもとに、有識者でつくる「県のさかな選定委員会」が審査し、知事に報告。5、6月ごろに知事が決めるという。2010年の統計では、県内で漁獲量が多いのはアユ58トン、フナ32トン、アマゴ23トンの順。養殖では金魚203トン、アマゴ26トンなど。アンケートは同課(0742・27・7409)のホームページや県庁などで回答できる。4月26日締め切り》。


アマゴ。十津川村観光協会のホームページより

海なし県の奈良県が「県のさかな」を制定するというのは面白い。他府県はどんな魚を選んでいるのだろうと検索してみたところ、各府県が制定した「県の魚」というページがヒットした(これが「県のさかな」に該当するのかどうか分からないが、シンボル的な魚が出ていて興味深い)。私の生まれ故郷の和歌山県はマグロだった。日本有数のマグロ基地・勝浦漁港を抱えるので、これは当然といえば当然。福井県の越前ガニ、三重県の伊勢エビ、広島県のカキ、山口県のフグ、高知県のカツオと、この辺りも定番である。

奈良県ですぐに思い浮かぶのはアユ(鮎)である。これには逸話もあって、『日本書紀』によると、神武天皇が丹生川(今の東吉野村・丹生川上神社中社のあたり)に厳瓮(いつべ=御神酒を入れる瓶)を沈めて国土平定の占いをすると、アユがたくさん浮かび上がってきて口をパクパクさせた。これを吉兆として天皇はたいそう喜んだそうだ。占いで浮かび上がってきた魚なので、アユ(香魚)は「鮎」と書くようになったという(当ブログ「神武天皇聖蹟顕彰碑」ご参照)。


ホテル野迫川でいただいたアマゴの塩焼き(11年11/16撮影)

確かにアユは美味しいし、秋の農業祭などでは吉野郡の各町村が競って串焼き(炭火焼き)を販売する定番の魚ではあるが、すでに群馬県や岐阜県が制定しているので、後発県としてはあまり面白くない。むしろ、面白いのはアマゴであろう。クーカルで奈良を訪れた一流シェフたちは、アマゴという美味しい魚の存在をたいそう驚き、競って料理に取り入れていた。私は2011年の「美味しかった食材」のトップに、野迫川村のアマゴを選んだ。これは絶品であった。



あとは、大和郡山市特産の金魚がある。他府県がすべて「食べて美味しい魚介」を選んでいるのに対し、これは唯一の観賞魚であり、奈良の伝統産業でもある。「全国金魚すくい選手権大会」も、17回目を数えた。

ともあれ、「奈良県のさかな」はアンケートをもとに、選定委員会を経て、最終的には知事が決めることになっている。皆さんは、ぜひご自分の意見をアンケートとしてご提出いただきたい。
※詳しい県のサイトは、こちら。アンケート用紙(PDF)は、こちら
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奈良まほろばソムリエ(2012)の結果発表(Topic)

2012年03月23日 | 奈良検定
改訂新版 奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック
網干善教 監修
山と溪谷社

このほど、奈良まほろばソムリエ検定(第6回)の最上級資格である「奈良まほろばソムリエ」の合格発表が行われ、当ブログご読者である上辻さんから、こんなコメントをいただいた。《今年のソムリエの結果が出ましたね。合格率が22.7%と過去最低になりました。シビアな結果です》。

《私のブログに来てくださっているsyozenさん(橿原市にお住まいの74歳の男性の方です)から、見事、最高点の87点を取って合格したという報告をいただきました。syozenさんの得点状況は、マークシートで54点、論述で33点だそうです(すごい…)》。syozenさんは、マークシートは30問中3問間違えただけ、論述は40点満点の33点と(83%)、驚異的な結果である。ソムリエ試験の詳しい情報は、上辻さんがブログに書かれているので紹介する。

今年の奈良検定、最高級のソムリエ級の結果が発表されました。

◎受験者数: 277名(過去最高)
◎合格者数:  63名(過去最低)
◎合格率 :22.7%(過去最低)
◎平均点 :62.0点(過去最低)

となりました。受験された方には厳しい結果となったのではないでしょうか。僕は当日、受験できませんでしたが、後にマークシート問題(配点:60点)を解いてみたところ、19問(38点)しかできませんでした。おそらく、受験していても平均点ほどしか獲得できずに終わったと思います。

今回の検定結果を踏まえた、4回分の試験結果を簡単にまとめてみました。次の表のとおりです。


これを分析するに、
①合格者数は受験者数に関わらず、おおよそ60~70名弱。
②平均点は、おおよそ64点前後に落ち着いている。

論述問題(配点:40点)には採点者の裁量が与えられていますから、ある程度の合格者数・平均点に収まるよう、得点調整がなされていると思われます。このことから、ソムリエに合格するためには

①採点者の裁量の入る余地のないマークシート問題は、可能なかぎり満点を目指す。

②採点者の裁量の入る余地のある論述問題は、他の受験生との相対評価になるため、他の受験生よりも1歩進んだ知識や着眼点を披露する必要がある。

以上、2点を満たさなければならないものと推察されます。来年(といっても10ヵ月も先になりますが)、合格を目指す僕を含めた受験生の皆さんは、やはり心して試験準備をしなければいけないですね。

確かにマークシート問題は、難しかった。上辻さんのブログから拾い出しても

【Q8】橿原市と明日香村の境界にあり、横穴式石室に唐墓の石槨に似た漆塗りの家形石棺2基が縦一列に安置されている古墳はどれか。
 (ア)打上古墳
 (イ)植山古墳
 (ウ)小谷古墳
 (エ)菖蒲池古墳

【Q10】明治時代、佐紀盾並古墳群の測量図を作成し、母国イギリスに日本の古墳を紹介した外国人は誰か。
 (ア)アーネスト・フェノロサ
 (イ)ウィリアム・ゴーランド
 (ウ)ゴットフリード・ワグネル
 (エ)エドワード・S・モース

【Q15】登山口の付近に鎮座する山口神社が多いなか、山の頂上付近に鎮座するものはどれか。
 (ア)畝火山口神社
 (イ)當麻山口神社
 (ウ)鴨山口神社
 (エ)耳成山口神社

など、難問揃いである。(正解はそれぞれ、エ、イ、エ)。論述問題にしても、「春日大社の創建」「高畑サロン」といった、ピンポイントの深い知識を問う問題が出され、これに対して200字もの答案を書くには、相当踏み込んだ勉強が求められる。

今回、ソムリエに初挑戦された鹿鳴人さんは、見事合格された。鹿鳴人のつぶやきから拾うと、

なんとか合格していました。いろいろ応援いただいた皆様ありがとうございました。思えば5年前、1回目は2級合格。2回目1級は1点足りず不合格。(中断)3回目4回目は不参加。5回目友人に誘われて1級を再度受検、合格。そして6回目ソムリエをはじめて受検、無事合格という長い道のりです。

最初からみれば足かけ6年ということになりました。奈良商工会議所の結果発表です。今回ソムリエは、277人受検して合格は63名ということです。やはりかなり難しかったと思います。

過去最高の難関を突破された皆さん、おめでとうございます! 悔し涙を飲まれた方は、ぜひ来年、再チャレンジしていただきたいと思います。合格率は、3割台→2割台→3割台→2割台と、隔年で変動していますから、来年は期待できます。結果如何にかかわらず、勉強の成果は、ちゃんと身についています。そして合格の暁は、奈良まほろばソムリエ友の会にご入会ください!
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神武天皇聖蹟顕彰碑 around 奈良県

2012年03月22日 | 記紀・万葉
「神武天皇聖蹟顕彰碑」は、紀元2600年(昭和15年)奉祝の事業として、当時の文部省の肝いりで、神武天皇ゆかりの地に建てられた碑である。「紀元二千六百年奉祝会」が文部省に委嘱し、「神武天皇聖蹟調査委員会」による推考・答申に基づいて選定され、全国に19ヵ所、そのうち奈良県内では7ヵ所に碑が建つ。

来たる3/24(土)、仲間と作る「第9回古社寺を歩こう会」の主催で、これら7ヵ所全てを1日で回るバスツアーを行う。今日はそれに先だち、7つの碑の解説を以下に掲載しておく。ツアーに参加する人もしない人も、「古事記完成1300年」の今年には、頭の片隅に入れておいていただきたい知識である。記紀の登場順に紹介する。

1.神武天皇聖蹟菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑 宇陀市菟田野宇賀志 八坂神社(村社)の近く
顕彰碑の裏面にはこう書かれている(表記を読みやすく改め、カッコ内に振り仮名をつけた。以下同じ)。「神武天皇戊午年(つちのえうまのとし)年頭 八咫烏(やたがらす)の郷導(ごうどう)に依り 道臣命を皇軍の将として菟田穿邑に至り給えり聖蹟は此の地方なるべし」。
※トップ写真は「菟田穿邑顕彰碑」。撮影は3/10(以下同じ)


県の『なら記紀万葉 名所図会 古事記編』。電子ブック版は、こちら

伊波礼毘古命(いわれびこのみこと=神武天皇)は、八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀に至った。県の『なら記紀万葉 名所図会 古事記編』の「2.八咫烏、引道(みちび)きてむ」によると《険しき深山に分け入り、道を穿(うが)つようにして進みながら、ようやく一行は宇陀へたどり着く。この宇陀の穿(うかち)という地には、兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)という兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして「今、天つ神の御子がお見えになったが、お前たちは御子に仕えるか?」と尋ねると、兄宇迦斯は八咫烏めがけて鏑矢を射放ち、追い返してしまった》。

《兄宇迦斯は伊波礼毘古命一行を迎え撃とうとしたが、十分な軍勢が確保できず、ひとまず帰順する振りをする。大きな御殿を建てて、その内部にはいった者を圧(お)し殺す「押機(おし)」という罠を仕掛けて、伊波礼毘古命を待ち受けた。しかし弟宇迦斯が兄の企みを事前に密告。そこで道臣命(みちのおみのみこと 大伴連らの祖先)と大久米命(おおくめのみこと 久米直らの祖先)の2人が、「汝が建てた御殿だろう。まずは自らが中に入ってみせてみよ」と御殿に追い詰める。追われた兄宇迦斯は自ら作った罠にかかり、命を落としたという。以来、この地を「血原(ちはら)」というようになった》。



2.菟田高倉山(うだのたかくらやま)顕彰碑 宇陀市大宇陀守道 高倉山頂
顕彰碑の裏面には「神武天皇戊午年9月 菟田高倉の頂に登り給いて域中の虜軍(敵軍)の形勢を瞻望(せんぼう=遠くを見渡す)し給えり聖蹟は此の地なりと伝えらる」

Wikipedia「神武天皇」によると《9月、磐余彦(いわれびこ=神武天皇)は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒の器をつくって天神地祇を祀り、勝利を祈願した》。


高倉山頂には顕彰碑のほか、こんな碑も建っていた

3.丹生川上(にふのかわかみ)顕彰碑 東吉野村(丹生川上神社中社摂社 丹生神社北側)
碑の裏面には「神武天皇戊午年9月 天下平定の為 平瓮(ひらか)及び厳瓮(いつべ)を造り給い丹生川上に陟(のぼ)りて天神地祇を祭らせられ又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給えり聖蹟は此の地付近なり」。

上記2の「天平瓦と御神酒の器をつくって天神地祇を祀り、勝利を祈願した」というくだりは、『日本書紀』に出てくる(丹生川上神社[中社]の公式HPが、その全文を紹介している)。川べりに、このくだりを分かりやすく紹介する案内板があった。そこには《昭和15年(1940年)2月7日、文部省による神武聖蹟調査の第1回目の決定があり、「丹生川上の地」は小川村(現東吉野村)丹生川上神社の付近であると発表された》。


丹生川上顕彰碑。周囲は鬱蒼とした林なので、碑はこんな色になっていた

《日本書紀によると、戊午の年9月、神武天皇は、大和平定のため、夢にあらわれた天神の教えのとおり、天香具山の社の中の土を取って平瓮(ひらか)と厳瓮(いつべ 御神酒を入れる瓮)をつくり、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀られた。神意を占って「厳瓮を丹生川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが真木の葉の浮き流れるようであれば自分はきっとこの國を平定するだろう」と言われて厳瓮を丹生川に沈めた。しばらくすると魚はみな浮き上がって口をパクパク開いた》。占いで浮かび上がってきた魚なので、アユは「鮎」と書くようになったそうだ。

《椎根津彦がそのことを報告すると、天皇は大いにお喜びになられ丹生の川上の五百箇の榊を根こそぎにして諸々の神をお祀りされた。このときから祭儀のときに御神酒瓶が置かれるようになった。丹生川は、今の高見川で、高見・四郷・日裏の三川が合流したところの深淵は、神武天皇が夢にあらわれた天神の教えによって厳瓮を沈めたところだと伝えられ、『夢淵』と呼ばれています。東吉野村》。


夢淵のあたり

4.磐余邑(いわれのむら)顕彰碑 桜井市吉備(春日神社の北側)
碑の裏面には「神武天皇戌午年11月 兄磯城(えしき)を討ち給い 皇軍の虜(あた=敵)を破るや大軍集まりて磐余邑に充満せり聖蹟は此の地方なりと推せらる」。

國學院大學の「万葉神事語辞典」によると《「磐余」の旧名は片居(かたゐ)、片立(かたたち)で、式内石村山口神社には磐余山がある。地名は、「大きに軍集(いくさびとつど)ひて其の地に満(いは)めり。因りて号(な)を改め磐余と為す」の「満(いは)む=充満する」を由来とする。あるいは磯城(しき)の八十梟師(やそたける)が「屯聚居(いはみゐ)」(人が居住していること)の土地を、神武天皇の勝利により磐余邑と名付けたことから「磐余」の呼称が生まれたとも言う。神武天皇は「日本の磐余の立派な男子」を意味する国風諡号、神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)天皇と称せられた》。


春日神社

5.神武天皇聖蹟鵄邑(とびのむら)顕彰碑 生駒市上町 出垣内バス停東南の丘(県立奈良北高校の北側)
碑の裏面には「神武天皇戊午年12月 皇軍を率いて長髄彦(ながすねひこ)の軍を御討伐あらせられたり時に 金鵄(きんし)の瑞(みず、ずい)を得させ給いしに因り 時人其の邑を鵄邑(とびのむら)と称せり聖蹟は此の地方なるべし」。

成田亨氏のHP「月の光」によると、『日本書紀』には《天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)12月4日、磐余彦尊(いわれひこ)の軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つことになった。しかし戦いを重ねたが、なかなか勝利をものに出来なかった。そのとき急に空が暗くなって雹(ひょう)が降り出した。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできて、磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄(とび)は光り輝いて、その姿はまるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった》。

その続きはWikipedia「神武東征」に出ている。《長髄彦は神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)の元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひ)は昔 天磐船(あめのいわふね)に乗って天降ったのであり、天津神(あまつかみ)が2人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だろう、と言った。神日本磐余彦と長髄彦は共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物であることがわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めようとしなかったので、饒速日命は長髄彦を殺して神日本磐余彦に帰順した》。


狭井神社の北側は「大美和の杜」

6.狭井河之上(さいがわのほとり)顕彰碑 桜井市茅原(狭井神社の北)
碑の裏面には「神武天皇 伊須気余理比賣命(いすけよりひめのみこと)の御家ありし狭井河之上に行幸あらせられたり聖蹟は此の地付近なりと推せらる」。

神武天皇の皇后は三嶋(大阪府三島郡)の溝咋(ミゾクヒ)の娘・比賣多多良伊須氣余理比賣(ヒメタタライスケヨリヒメ)、別名富登多多良伊須須岐比賣(ホトタタライススキヒメ)、『日本書紀』では媛蹈鞴五十鈴媛命である。『古事記』によると、《是(ここ)に其(そ)の伊須氣余理比賣命の家、狭井河の上に在りき。(神武)天皇、其の伊須氣余理比賣の許(もと)に幸行(い)でまして、一宿御寝(ひとよみね)し坐(ま)しき》とある。

Wikipedia「ヒメタタライスズヒメ」によると《神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、在地豪族を懐柔しようとした。天照大神の子孫である神武天皇とヒメタタライスケヨリヒメ(比賣多多良伊須氣余理比賣)が結婚することで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになる。(中略) 皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹き製鉄の時に用いられる道具であり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある出雲(現 島根県安来地方)地域であったことを物語っている》。

《『古事記』では、三輪大物主神(スサノオの子孫大国主の和魂とされる)と勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)の娘である。勢夜陀多良比売が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子がヒメタタライスケヨリヒメである》。

《ホトを突かれてびっくりして生まれた子であるということでホトタタライススキヒメ(富登多多良伊須須岐比賣)と名づけ、後に「ホト」を嫌ってヒメタタライスケヨリヒメに名を変えた》《神武天皇との子は、上から順に、日子八井命、神八井耳命、綏靖天皇(第 2代天皇)である。神武天皇の死後、神武天皇の子である手研耳命(タギシミミ)と結婚するも、タギシミミの反逆において子供たちに夫の謀意について知らせて反逆を防いだ》。

7.鳥見山中靈畤(とみやまなかのまつりのにわ)顕彰碑 桜井市(等彌神社の南側)
碑の裏面には「神武天皇御東征の鴻業を遂げさせ給い 橿原宮に御即位後4年2月 鳥見山中に靈畤(まつりのにわ)を立てて皇祖天神を祭らせられ大孝を申(の)べ給えり聖蹟は此の地付近と伝えらる」。


等彌神社から、丘を少し登る

奈良検定テキスト(『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』)によると等彌神社(桜井市桜井)は《上ツ尾社と下ツ尾社があり、上ツ尾社が本社で大日孁貴尊を祀り、下ツ尾社では品陀和気命と天兒屋根命を祀る。社記によると元は鳥見山中にあったが、天永三年(一一一二)五月に大雨があり、山崩れのため、社殿が谷に埋没した。この年悪疫が流行したので、九月五日、山の尾の現在の場所に遷座したとある。鳥見山は神武天皇神話の伝承地であり、旧社地は「庭殿」「白山」「祭場」などの伝説地でもある。能登宮とも称し、中世は多武峰妙楽寺の支配下であった》。



また同社のご由緒によると《上社(上津尾社)より鳥見山々頂へ道が続いている。この山は神武天皇御即位の後四年春二月鳥見の山中に霊畤を立て大孝を述べ給うた大嘗会の舞台で毎年五月十三日鳥見靈畤顕彰会により、お山の拝所で大祭が斎行されている》。

『古事記』の登場人物で、最も奈良県に関係が深く、また全国的によく知られているのが神武天皇である。その足跡が現在も顕彰碑として残されているのである。ツアーに参加されない方も、ぜひ顕彰碑のいくつかを訪ね、神話の世界を体感していただきたい。
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