道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

孤独について

2023年06月07日 | 随想
人は成長する過程で、他者との協和、すなわち社会性を身につけることが何よりも重要なことと、家庭や学校で繰り返し教えられる。人づきあいの良し悪しは、社会人としての完成度につながるからである。
それがために人々は、集団的社交を最優先し、個人に対する集団の優越を盲目的に信じるようになる。その結果、生まれつき人との交際が苦手な人たちや上手くできない人たちは、悩み苦しむことになる。

年少の頃から「友達をつくれ!」「友達は大切だ!」「友達を殖やせ!」と言われ、社会に出てまで「友達は財産だ!」とまで言われ続けて育つと、「ともだち」の輪の中に居ないことを内心では極度に虞れるようになるだろう。

インターネット・スマホの時代になって、人と人とがいつでもどこでも任意に繋がることができるSNSの時代、孤独は死語になるかと思うと逆で、現実には、孤独感に悩む人は増えているかもしれない。「ひとりぼっち」の「ぼっち」という接尾語がクローズアップされて来た。「ぼっち」には負のイメージがあり、「ひとり」よりも孤立感を増幅し際立たせる語である。

自主自立を奨励する精神風土の無い、他人志向と協調性を何よりも重要視する社会での「ひとりぼっち」の感じ方は、社会を異にする英語圏の人々の想像を絶するだろう。英語の「alone」とは、意味・感情において「ひとりぼっち」と明らかに受け止め方が異なると思う。
その英語圏で、lean on each other(もたれ合い)とstand alone(自立)とでは、どちらが前を向いているか、明らかである。
「ひとりぼっち」を苦にするのは、もたれ合い社会ならではのことである。

自分と他人との関係を考えてみるに、自分には自分の、他人には他人の思慮(理解・推理・判断・洞察なと)があり、自他の考えがぴったり重なることは、人間本来の特性からいって先ずあり得ない。思慮が異質な者同士は本質的には協和できない。
俗に「反り」が合うという言葉があるが、反りの合う人間同士が知り合うことは極めて稀である。加えて我も人も変わるものである。知り合った時と同じままでは居ないのが普通である。
「親友」だの「刎頸の友」だのは、観念の世界が生んだ空想の産物であって、現実には存在しない。反りの合わない者同士は、どうやっても上手く収まらないものである。

人は反りの合う人とは滅多に知り合えないものと思っていて大きな間違いではない。私のこれまでの体験に照らしてみて、ひとりしかいなかった。僥倖というべきものである。出会ったのは既に初老に近かった。それほどに、この世で反りの合う人と巡り会うことは稀である。つまり、人は変転極まりない人生で、反りの合う人とはほとんど巡り会えないと思っていて間違いではない。

そこで世の中反りの合うフリ合ったフリ擬態が横行することになる。反りが合わないでは集団化するに事が収まらないから、万事皆の反りが合っているという風を装い事を進める。擬態を応酬しているうちに折り合いが生まれるのである。反りが合わない者同士だから、折り合いをつけることが欠かせないものになって来る。そのための多様なツールが世の中に溢れている。
擬態では心底からの友誼は生まれない。擬態同士で親密なつきあいを数多くしていて自分の孤独に気づかないのは、当人の感受性の問題である。

人間は孤独が常態であることを、若い人ほど知らねばならない。独立にはaloneを欠かせない。
よくよく考えれば、この世に生を受けた始まりから終わりまで「ひとりぼっち」が正常である。仲間が多いと見えるのは、互いにそう装いそう想っているからに過ぎない。

反りが合う人は僅少、合わないのが当たり前と考え、世を端然と渡るのが正しいのだろうが、社会生活を営む私たち人間には過去の教育や躾によって、孤独を虞れる心情が漠然と常在している。それは孤独の本質を理解しようとしていないからだろう。

孤独にも二つあり、当ブログの過去エントリーsolitude - 道々の枝折をご高覧いただければ、徒に孤独を虞れなくなると思う。
それはある年配になってから分かることで、若い頃はとにかく孤独を怖がる。反りが合おうが合うまいが集合し、ワイワイやっていると落ち着けるという年頃では、孤独に陥って深刻に考えてしまう人がいて当然だ。

「ひとりぼっち」が人間の本当の姿だと考えたくない人、それを虞れる人は存外多いに違いない。
「ひとりぼっち」が当たり前の世に生まれていながらそれを虞れていたら、年中人と接していないと不安でたまらないだろう。その意味で、日本人の集団主義とは、主義と呼べる信念や思想に基づくものでなく、各個人の孤独への虞れが磁力のように引き合って人が集合する現象の謂である。

人は孤独でなければ考えを纏められない。ものごとをよく考えるには沈思黙考しなければならない。思索には沈黙が必要である。沈黙は孤独でなければ保てない。程度に差はあれ、孤独を否定的に捉える人と社会には、哲学が欠けているということだけは慥かのようである。
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