道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

堀尾吉晴と浜松城

2021年06月20日 | 歴史探索

20日が投票日の静岡県知事選、当日に所用があったので、期日前投票をするため、会場の市役所本庁へ行った。

本庁の建物は、敷地が旧城内三の丸跡とニの丸跡に懸かって所在する。投票所は往時の三ノ丸側に当たるのかなどと考えながら、投票を了えた。

投票の後、折角だから、久しぶりに城内を散策してみようと、庁舎の裏口から出て本丸に向かった。幸運にもちょうど其処へ、市の歴史ガイドを務めるボランティアの方が、天守の方向から下りてきた。さっそく解説を拝聴した。

清水曲輪南の堀の水源とか、江戸時代の二の丸・三の丸を繋ぐ鉄門の所在地点など、興味ある事柄をいくつかご教示いただいた。貴重だったのは、城の石垣が豊臣政権時代の城主、堀尾吉晴の築造に成るものであるとの知見。徳川家康が在城した当時の浜松城は、台地と谷地が入り組んだ自然の地形を生かし、空堀と土塁・柵を巡らせた程度のもの、天守や櫓など瓦屋根の建築物は殆ど無く、陣城というが相応しい、ちょうど現存する袋井市の高天神城の様であったらしい。

永禄12年、今川氏の被官飯尾氏の籠る引馬城を攻略した徳川家康は、城を改修拡張して浜松城と改め、岡崎城から移った。遠江への進出を企む武田氏に備えるためである。
在城すること17年、武田氏は滅び、家康は小田原北条氏の滅亡の後に、豊臣秀吉の命により関東に移封させられる。代わって城主となった豊臣家臣の堀尾吉晴は、浜松城をより強固な、防御力の高い城に生まれ代わらせる工事に着手、城下の整備にも力を注いだ。浜松城が豊臣政権にとって、強大な敵性大名徳川氏に対する実質的な前衛基地・戦略拠点となっだからである。

石造構築物の石工技術は、タガネなどの工具を作る製鉄技術と共に古代朝鮮から本邦に渡来した。その先端技能集団は朝廷の部民に属し、はじめ灌漑用の井堰施設や港湾、仏教寺院などの国家的事業に限定され使役された。近江堅田の穴太衆という石工集団が古くから有名だが、天台宗比叡山延暦寺の境内や堂塔伽藍の建設は、穴太衆の技能・技術なしには考えられない。
したがって、石工技術は西国に偏り、永く東国における城砦の建設土木は、中世末期まで素掘りの掘と土塁が殆どだった。

浜松城の野面積み石垣は、豊臣時代に堀尾吉晴が城主に成った後に構築されたものらしい。堀尾吉晴といえば、秀吉の信頼篤い幕僚の筆頭、近江での活躍期間が長い

野面積みは、後世の切石積みと比べると、美観は劣るが、極めて堅固で力学的に強固・精緻な石積み技法であるらしい。穴太衆を動員できる城主の登場によってはじめて、浜松城はそれまでの陣城同然の様から、石垣の城に生まれ変わった。その際に、水堀も新たに築造されたことだろう。


たしか老生が小学生の頃は、浜松城は家康が応急整備した城であったため、技術的に粗雑な野面積みで石垣を築くしかなかったと説明されていた。江戸期築城の切石積み諸城との比較で、美観的に当城石垣が劣ることから出た妄説だったのだろう。野面積みは、見た目と違い、石垣としては、決して強度の低い稚拙な技術ではなかった。

その後堀尾家は、関ヶ原での戦功が認められ、次男忠氏が戦略上の意義の消滅した浜松城から、出雲国月山富田城に加増移封される。直後城地を富田から宍道湖の畔、松江に定め、松江城の新築と城下の整備に取りかかった。
忠氏が若死すると、吉晴は6歳の孫忠晴を後見して松江城を完成させ、城下町を整えた。おそらく、浜松において充分果たせなかった築城と城下整備の構想を、松江の地で、思いのままに実らせることができたのだろう。

投票と歴史瞥見が結びついたのは、偏にボランティアガイド氏との邂逅のおかげである。



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