道々の枝折

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イデオロギー

2021年06月16日 | 人文考察
「新しい資本主義」などという、意味不明な言葉を政党が掲げるのは、「アベノミクス」と同様、国民を煙に巻き愚弄するものである。経済政策の最適ミックスを目指すつもりだろうが、私たち一般人には、政策と国民生活との因果関係が明確に予測できず、その効果に期待は寄せられない。資本主義に新旧などと謂う言葉の使い方は、リテラシーから言っておかしい。

資本主義は、人類の社会が農耕文明に穀物貯蔵のかたちで富というものが現れ、富を拡大再生産できる様々な手段を知った結果、社会に自然発生したイデオロギーである。本質的に宗教や人の作為、つまり観念で創り上げたものではない。

その資本主義が発達し続けて近代になってみると、この自然発生の社会経済制度には、宿痾が潜伏することがわかって来た。経済学は資本主義に潜伏する宿痾の病理解明と治療手段の研究が目的の学問として発展した。

政治制度は人の観念によるものである。政治学は人間の統治行動を研究する学問である。したがって、理論化できない。
理論を体系化できない統治制度ををどんなに詳細に研究しても、それは単なるケーススタディの域を出ることがない知識の集積で、実証科学にはならない。社会科学にはならない。

自由は人間の生まれつきの欲求だが、無制限な自由は社会を破壊することが早くから知られていたから、ルールを定め、個人の恣意的な自由に制限を加える必要がある。いつの時代にも際限のない自由、義務や制限をともなわない自由はない。

自由主義は始め、専制的な王侯貴族など支配者階級の自由を保障するものだったが、近代になって市民階級が力を得ると、支配者の恣意性から市民の自由・人権を守る必要が生じ,逐次進歩発展してきたものである。出自からして、一般庶民の自由を目的にするものではなかった。

民主主義は、人間の本能的欲求から自然発生したイデオロギーではない。人は民主の意識を具えて生まれてくるものではない。互いに克し合う存在だった。
民主という概念は、支配者に優越する神の存在が確信され、その神の下では支配者の王と被支配者の民衆とが、同等に扱われるという思想が生まれなければ、存在し得なかった。

キリスト教における神の絶対性は、民主主義が発芽する温床となった。
民主主義の概念は、神の前、神の下での平等・博愛を謳うキリスト教的民主主義にその根がある。キリスト教の普及によって、神の存在を認識することによって、民主主義は生まれたと見て間違いないだろう。権力者、支配者といえども神の前には民衆と平等同列であるという観念が、民主の概念の出発点である。

あらゆる宗教は、権力者に保護されることで基盤が確固たるものになる。一般に宗教は、強者・権力者に仕える存在として成立し、立場を保ってきたが、民衆救済は二の次である。ひとりキリスト教のみが、不完全ながら弱者救済への視点を守り続けてきた。ユダヤ教の信仰の基盤にイエスの存在と思想が付加され生まれた宗教である。

歴史を閲すると、仏教・儒教・イスラム教・ヒンドゥー教の教えのどれもが、人民救済は目指しても、民主の発想には及んでいない。彼らの神は、唯一無二の絶対神では無かったからである。それぞれの宗教は、権力に協和して、教勢の拡大を図ってきた。

資本はその初め、人民支配のツールであったが、後の産業革命以後の世界で、資本の支配により生じる非人間的要求から人々の権利と自由を守る目的で、今日に至る社会的民主主義が生まれた。宗教改革は、それに大きく寄与した。

近代の諸国家は、資本主義の下における労働力の安定的な供給と消費市場の拡大のために、ほとんどが程度に差はあれ社会的民主主義を採用している。

キリスト教的民主主義の基盤をもたない民主主義というものは、教条的理念でしかない。
エゴイズムへの自発的制限を欠き、真の民主主義から大きな距りがある。擬制民主主義とでもいうべきものである。

資本主義にとって、労働力の安定的供給と消費場の拡大は、絶対的に必要な要素である。資本主義は、労働者=消費者を安定して確保するために、民主主義と協調する必要があった。戦後日本に導入された民主主義は、この目的性が大きい。

日本社会に染み付いた儒教的な思想と価値観の素地の上に付加された民主主義は、キリスト教国の民主主義から見れば、随分と毛色の変わった、異色の民主主義と見えるだろう。

資本主義国家の国民の自由は、資本の増殖、消費の拡大を妨げない範囲での自由であって、それを保障する制度が現代の民主主義である。

共産主義・社会主義もまた、人間の社会生活から自然にもたらされた原理ではない。少数の傑れた人間の頭脳から生まれた、当人たちにとっては理想のイデオロギーである。それは理想的ではあるが人間の本質・本性を見誤っている。したがって、理念・観念の実行段階になると、イデオロギーの発案者と実行者の原理認識の違いが必ず表出する。理念と無縁の人々の手に運営が委ねられる結果、原理主義が生まれる。原理の実行の面において、民衆を抑圧し圧迫する面が強まり、民主的な社会に逆行することは避けられない。理想のイデオロギーは、理念と現実の相剋に悩まされ続ける性質を胚胎しているものである。

自由主義国家の矛盾は、本来相容れない概念である資本主義と民主主義が、互いの原理原則を便宜的に調和させるところに生じるが、比較的軋轢はまだ小さい。

自由主義国家の政党は、産業資本が政党に拠出する政治資金と産業資本の経営団体がつくる協議機関の支持を基盤とする〈保守党〉対各産業部門で働く労働者たちの労働団体の連合体の支援により成り立つ〈革新党〉との二大政党に集約される。保守革新は、人性の集約された対極である。
潤沢な資金に支えられた前者が数で勝り与党に、後者が野党になる対立構造が出来上がる。労資の対立構造は〈民主的資本主義国家〉の標準的な姿である。保守と革新は対手を凌駕すべきものではなく、対置して拮抗すべきものである。保守一辺倒の国、革新一辺倒の国があるなら、それは独裁国家で、自滅するしかない。拮抗勢力を認める寛容性こそ、民度の高い国ということになる。

今日キリスト教徒が国民の大半を占める国家においては、民主主義の精神が存在する。これらの国々では、〈宗教的民主主義〉と〈社会的民主主義〉の立場の違いが明瞭で、それぞれを基盤とする政党が議会の場で対立している。対立軸は信仰心の有無である。

一神教であっても、イスラム教国家には、資本主義と民主主義そしてイスラム教原理主義が三極を形成して、権力が鼎立し、政治的混迷を脱却できない。自律的な解決が困難に見える。

民主主義は資本主義を利する為にあるものである。労働者の存在しない資本主義や産業というものはなく、産業は人手無しには成立しない。人を円滑に雇用するには、民主主義が確立されていなければならない。

労働者の勤労意欲は、家庭生活と社会生活及び消費生活が充足することで維持される。民衆の権利が守られ福祉が充実していなければ、安定的に働く良質な労働力を確保できない。
したがって、資本と大衆の自由を守る〈自由主義〉と大衆の社会生活を守る〈民主主義〉は、〈資本主義〉と共に社会をを支える三本の支柱であるということが鮮明になる。産業資本が円滑に自己増殖する為には、事業の自由と雇用の自由、労働者の就労の自由と生活の自由が保証されなければならない。

民主主義の真の目的は、資本主義を安定的に維持発展(富の増殖)させる為のものである。

①人間の本性は平等・博愛・公平を必ずしも望んではいない。欲望は独占的で肥大する性質がある。
②民主主義は資本主義を発展させる基盤である。
③資本主義の高度化(金融資本主義化)により、先進国では職業の種類が激減し、職業選択の自由度は狭められつつある。独立して自営業を営む途はより困難となり、資本の被雇用者であることが生存の条件となる。
④見せかけの民主主義と背中合わせの自由主義が横行している。
⑤大衆が享受しているのは、見せかけの自由すなわち束の間の自由である。人々の自由は、消費生活の為にあるもの、そしてそれは資本を増殖させるためのものである。
⑥AIの発達が雇用を減らしても、資本には消費が不可欠であるから、肉体労働を伴わない雇用は増加する。AIによる消費市場の拡大が、雇用の減少をカバーする。

トランプが過激派を使嗾し、議会に暴徒が乱入する映像が世界を駆け巡った時、アメリカのリベラルな人々はこぞって民主主義の危機を叫び、民主主義への冒涜と非難し、民主主義の崩壊に怯えた。

民主主義の国アメリカに本物の民主主義があり、日本の民主主義は似非または擬似民主主義と見ていたが、それは間違っていた。
実はアメリカの民主主義も、資本を最も効率よく運用するため制度で、実は虚像の民主主義だったのかもしれない。民主主義を謳歌するように見えた1960年代は、アメリカの中流白人にはユートピアだった。だがそれは、偏に白人の為の民主主義で、他の人種を想定し対象にしていなかったのだろう。

制度もイデオロギーもシステムも、全て資本の増殖=富の集積という、大目的に収束する。自由で開かれた民主主義の国は、有能な人間を世界から集めるための方便であったかもしれない。
強制労働の通用しない時代、自由労働、任意労働を保障することで、巧妙に実質的な搾取を実現してきた。

民主主義といえども、構造的に自壊する性質をもつものである。
多数を恃む怠惰な大衆は、常に切磋琢磨し努力することを強いられる少数派とは根本的に立場が違う。多数の座に安住し、権力に巻かれ服従する人々にとって、民主主義ほど居心地のよい温床はなかった。蒙昧で怠惰な民衆を欺き、選挙での得票数増大にのみ腐心していれば、その政治家は堕落する。堕落した政治家が議会の多数を占めれば、立法府としての適格性を失う。





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