道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

ブリーフィング下手

2021年06月07日 | 人文考察
日本の民主主義は、欧米先進国のそれに似せているが、民主の概念そのものに馴染まない私たち国民の稟質ゆえに所詮モノマネ、本家本元との違いは如何ともし難く、戦後76年経っても民主主義は自分たちのものにならない。

他国にあって本邦に欠けているものはいくつか挙げられるが、その最たるものは、政府の広報・報道のキメの粗さではないか?

日本政府には〈内閣報道官〉という歴とした役職がある。省庁の高位の官僚が就任するが、これが機能していない。内閣官房長官の黒子・裏方・補佐役にしか見えない。広報官が表舞台に出ないのである。どうしてそうなのかわからない。

〈内閣官房長官〉が報道官の役に任ずることが殆どだが、彼の本務は文字どおり内閣の秘書官であって広報の専門家ではない。内閣総理大臣の首席秘書である。専門化された欧米の報道官とは、職務の性質が違う。

官房長官は、外国の報道官のように、洗練された報道をすることの訓練を受けていない素人である。彼の報道は、専ら上意下達的に情報を伝える高圧的な内向き広報しかできず、海外のプレスの要求水準を満たせない。

日本政府には、真の報道官が不在である。政府の考えが国際的にスムースに伝わらない弊害は大きい。永年の習慣で、政府の意思を真率かつ明確に示すより、なるべく隠そうという体質の故だろうか?

日本政府の官房長官のブリーフィングの仕方は、外国のプレス担当官たちと較べると甚だ異様である。
先ず愛想がない。政府の高官と雖も、民主主義の国々では、報道官は国民にも外国人の報道関係者にも好印象を与えることが当然である。報道関係者に対しても、明るく誠実に接しなければ落第である。国内の報道機関に見せている仏頂面は、海外のプレスには不評である。

日本の官房長官は、木で鼻をくくったような態度で内外記者団に接する。その顔付きには、愛想も柔軟さもない。共産主義国家の中国、全体主義国家の北朝鮮の広報官に準ずる態度である。
要するに、報道記者たちに対するホスピタリティが欠けているのである。

これらの東北アジアの国々の報道官のブリーフィングに誠実さや親切さ、ユーモアが見られないのは、かつてこれらの国々が儒教の洗礼を受けたためかもしれない。民主の考えに馴染めないのである。ブリーフィングという、簡潔に要点を整理して正確な内容を短時間で伝える形式そのものが、上意下達と稟議制度や大袈裟な会議に慣らされた私たちの伝統社会に馴染まないのかもしれない。

先進民主国家の報道官や広報官たちのブリーフィングを見よ。彼らは並べてソフトで爽やかで簡潔明瞭に伝達事項を伝える。質問にも真率に答える。はぐらかし誤魔化しは一切無い。政権の意向を正確に国民や外国に伝えようという意志というか熱意が見て取れる。日本の官房長官の会見や談話には、それを感じとることはできない。

政治の先進性ということになると、日本では外交のマナー、形式ばかりが取り上げられる。それは外向きの態度、よそ行きの形である。国内の報道機関へのブリーフィングのマナーにも気をつけないと、先進民主国家のそれとの乖離は広まり、中国や北朝鮮の報道官の態度とほとんど変わらないものになってしまう。

特に現総理大臣の菅氏が官房長官を務めていた時は酷かった。余裕のなさの表れだったのだろうが、批判的な質問をする記者を徹底して嫌い遠ざけた。質問に対して応答しないなどは言語道断である。それを指弾しない〈内閣記者会〉も問題であるが、なんと言ってもブリーフィングの国際標準からの乖離は甚だしかった。まるで全体主義国家の報道官のブリーフィングである。後任の加藤官房長官は表情は柔らかいが、報道の質では、前任者と五十歩百歩だろう。

日本の政治全般が、国民に真摯に向き合うのではなく事実を蔽い隠す意図で組み上げられているように見える。この政治の雰囲気が顕著になったのは、民営化を推し進めた小泉純一郎氏が首相になった時からである。それは安倍政権で全盛になったと理解している。事実を国民に伝えようとしない政権というものは、国民を虞れ挙句には攻撃的にすらなる。
まつりごとは「寄らしむべし 知らしむべからず」と心得ている限り、民主政治は遠ざかる。

記者会見の度に見る、木で鼻をくくったような冷たく横柄な態度、隠そう、逃げよう、無謬で通そうという姿勢には、愛想が尽きる。

菅氏は長男が勤務する東北新社の総務省官僚接待で、世間を騒がせた。コロナを利用して揉み消しを図っているようだが、事業の許認可権を握る役所の大臣が、子弟を所管企業に就職させるなど、モラル意識の欠如も甚だしい。

菅さんは総理になったら、強面どころか、絵に描いたやうな村夫子風で、発言はたどたどしくなった。派閥の微妙なパワーバランスの上に乗っている間は、これが続くだろう。

この人は、強権のあるなしで態度ががらりと変わる。権力のない時は腰の低い好々爺を装い、権力を握ると冷酷な強権執行の権化となる。二面性はこの人の特性であろう。
万一解散総選挙で、国民から信任されるなら、首相としての態度はガラリと変わるだろう。

日本の内閣官房長官は、随分重い役席のように国内では見られているが、英語名はChief Cabinet Secretary、直訳すれば〈内閣主任秘書官〉で、大した役席ではない。アメリカの国務長官Secretary of State〈国家の長官〉の重さとは比較にならないほどに軽い。我が小さく彼が大きく見えるのは、実務内容のスケールの違いがあるからである。

〈内閣官房〉はスタッフである。政策実行機関でない。それが前の安倍内閣で、〈官邸スタッフ〉が〈省庁ライン〉を差し置いて政策実行を担ったから、責任の所在が曖昧になり、政策は何もかもが龍頭蛇尾に終わった。官房長官は職掌に官僚人事が加わって以来、目付機能を膨張させ権力が増したように見える。

前の戦争の時も、本来スタッフで、作戦計画を所掌する参謀本部の少壮参謀が、ラインの長たる軍団の司令官を差し置いて作戦を直接指揮し、多数の兵の屍を荒野に晒す結果を招いた。

日本人は、ラインとスタッフの職分の埒と枠、つまり越えてはいけない境を守れない。機能組織というものを、頭では分かっていても肌で理解していない。
フォーマルな職分が、インフォーマルな軍学校の第何期という先輩後輩の上下関係のしがらみ(柵)に捉われる特異性がある。これでは欧米軍隊ではあたりまえの機能組織をつくり運用ことは不可能だろう。

これは永かった封建的身分制度の弊害である。身分の上下が能力より優先評価される組織は機能組織ではない。身分の高いものが、自分より低い身分の職掌分野に容喙することを防げない。

能力を人事の基礎に措く組織は、職務権限・職掌範囲に重きを置く。そうでなければ、いつでも人材が代替可能な組織としての機能を失うからだ。

総理が〈外交の安倍〉などといって、官邸官僚の立案のもとに素人外交を展開するのを、外務省は防ぎも補いもできなかった。外交の当事者たり得ない資質の人物に外交をさせる愚は、二度と繰り返してはならない。

勇将の下に弱卒無しはあるが、弱将の下の勇卒というのはあり得ない。弱将の下には弱卒しか寄り付かない。そのような組織は組織の体を成さない。

アメリカの政治組織は現実に即して機能的である。日本のそれは、律令時代から本質的に変わっていない。日本の大臣は、エキスパートではない。〈大臣(おとど)〉という身分的地位に辿り着いた者にすぎない。これでは機能組織はつくれない。省庁再編など、果たせるはずもない。

菅さんの「総理大臣と官房長官は一体」との発言が、内閣が機能組織で無い事、其処の当事者の自己の任務に対する認識の倒錯を物語っている。職務職能の違いを理解していない。聞きようによっては僭越の謗りを免れない言葉である。





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 義理と人情 | トップ | ササユリ2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿