永く日本人を律してきたものは「義理と人情」(義理人情)で、何処の誰がセットにしたものか、本来位相の異なる精神活動を対置し、人々に両立を強制したから、私たちの先祖はこれの調和に苦しみ抜いた。このふたつの道義の同時両立は根元的に無理があり、またその必要のないものである。
「義理と人情の板挟み」という言葉が、この道義の不条理を示している。「義理」も「人情」も個別には徳性である。だが、両立させよというと、人を板挟みにして苦しめる悪しき規範となる。
儒教由来の義理(仁義)の観念は、社会的に権威ある者とっては、恩顧のしがらみを弱者に押し付けるに都合の良い規範であり、他方庶民の間においては、人間相互間の有形無形の貸借での精算において、暗黙の掟として作用する。欠いてはいけないものと教えられる。
本家本元の現代中国人は、すっかりこれを欠く属性を発揮しているのだから、皮肉なものである。
歴史的に見て、切腹や心中、バンザイ突撃など、日本人の自裁や集団自決は、この両立が難しい道義に起因するものが殆どである。日本人の悲劇の素因は「義理と人情」にあると見てよいだろう。
私は中学生の頃、当時アメリカで出版されていたティーンズ雑誌「True Story」の日本語版を愛読するうちにすっかりアメリカナイズされ、それまで身に染み込んでいたこの不条理な「義理と人情」を、ロックンロールやロカビリーのリズムに乗せて綺麗さっぱり頭の中から追い払ってしまった。
それまでの私は、明治生まれで忠君愛国主義の祖母の下、「義理と人情」の物語や演劇・映画(長谷川伸原作の股旅物がわかりやすい)に浸り切って育ったのだが・・・
私より一回り上の世代に、「太陽族」と呼ばれた青年男女が出現したのはその頃である。〈ドライ〉という言葉で、刹那的で享楽的な行動を体現した彼らは、〈ウェット〉と呼ぶ旧来の義理人情を嗤い蔑んだ。当時の若者は「義理と人情」を、情緒的で湿っぽい古い世代の価値と捉え、それを軽視することで反抗を示したのだろう。
旧来の価値観と無縁の生き方を、世間の大人たちはドライと呼んだ。生来ウェットな私は、高校生になると努めてドライに生きようと願い、ドライを装い振る舞った。若者は年長の世代を仰ぎ模倣するものである。
しかし太陽族は、本質的にドライではなかった。石原慎太郎が小説〈太陽の季節〉の中で描いた青春群像のモデルであった石原裕次郎は、義理と人情の人で、後に渡哲也が加わった石原軍団は、格別に義理を重んじ人情に篤い集団だった。
太陽族などというものは、戦後湘南に住んだ一部の社会的優越者の子弟の放埒な生活ぶりを、表面的に観察して小説に仕立てた架空の群像に対して、マスコミが勝手に命名したものである。それは戦後の日本社会の、ジェネレーションを構成するものではなかった。
後から分析してみれば、太陽族の本流と目された石原慎太郎も裕次郎も、「義理と人情」を脱していた訳ではない。彼らの生き様を見れば、ドライはポーズで、内面はウエットそのものである。上流階級の子弟らしい驕りと甘えが感じられる。
日本人の湿っぽい情緖性は、稟性であるから、敗戦や政治的変革如きで変わることはない。日本人らしさは、この情緖性に因るものである。
日本人として日本社会と調和して生きようとすれば誰でも、この情緖性の軛(くびき)を逃れる訳にはいかないだろう。