道々の枝折

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アメリカのデモクラシー

2021年07月11日 | 人文考察
トランプ前大統領のテレビ演説に使嗾された過激派暴徒が、議会に乱入する映像が世界を駆け巡った時、アメリカのリベラルな人々はこぞって民主主義の危機を叫び、民主主義の冒涜と非難し、民主主義の崩壊に怯えた。

私は敗戦後に占領軍のGHQ(連合国最高司令官総司令部)が、日本統治の基盤に据えた民主化政策の洗礼を、小学生の時に受けた世代である。しかし教科書は民主的なものであっても、教える教師たちが人権や平等など民主主義を体得していたかというと疑問符を付けるしかない。
小学校の中は旧態依然、戦前の非民主的な教育方法が残存していた。先生も、アメリカに倣って新たにできた教育委員会の委員も事務局のメンバーも、民主主義を知らないのだから無理もない。今から思うと、教師たちの民主主義は、表面的形式的なものであり、彼らの教育観は、旧時代のもので塗り固められていた。人間は簡単に思想や教化を改変できるものではない。

民主教育は世過ぎ身過ぎのためのもの、民主主義の衣は纏っても心の底には、旧思想がしっかり蟠っていたように思う。そのような教師は、民主主義は建前で、本音は権威・権力(教室では教師は権力者である)を笠に着る、権威主義者だったように思う。

前の東京オリンピックの招致が決まった昭和35年から、日本は4年後のオリンピック開催に向け、国の総力を挙げてこの国家的大事業に取り組んだ。首都高速道路・新幹線・競技場などが次々と建設され、それ以前の戦災復興社会と一線を画すようになった。高度経済成長の時代である。日本への国際的な評価も高まりつつあった。「もう戦後ではない」という標語が高らかに掲げられた。

しかしそれは、敗戦で排除されたり凍結されていた戦前の旧い価値観や観念が復権するジャンプ台となった。廃絶されたはずの旧時代の誤ちは、きちんと総括されることなく、至る所で息を吹き返し蘇り始めた。

反動的な考えの持ち主が、免罪符を得たかのように跋扈し始め、民主化への道を歩むこの国をUターンさせる力が、社会の凡ゆる機構・組織の中で発動し始めた。どうも様子が違うことに気がついたのは、経済力の飛躍が喧伝されるようになってからである。大人たちの生活ぶりからも、それまで学習した民主主義と異質の社会に戻り始めたことを、薄々感じさせられた。

高校の時には岸内閣の安保改定があり、国内に安保改定反対運動〈安保闘争)が起こる。安保騒動は、戦後の民主的価値観に立脚する〈リベラル派〉と、戦前価値の復活を企図する戦前エスタブリッシュメントとその関係者など〈守旧派〉との闘争だった。
学問の自由と自治の場と信じられていた大学にも、反動的な思想と体質が連綿として温存されていることに、学生たちは初めて気づかされた。

成人して社会生活に馴れ家庭を持つようなると、この国のインフォーマルな制度は一貫して民主的でない価値観と不合理な伝統で出来上がっていて、それが社会を遍く覆い尽くしていることを知らされる。占領直後にGHQが日本に定着させようとしたアメリカのデモクラシー日本の戦後民主主義とは、全く似て非なるものであることを、実際にアメリカに留学した人たちから、様々な媒体を通じて伝えられた。

その頃から、自他の観察を通じて、日本人には民主主義が馴染まないこと、つまり精神的素質に合わないのではないかと薄々気づき、次第に確信を深めるようになった。
最もわかりやすいのは、国政や地方選挙の選挙活動や投票行動、そして国会・地方議会・官公庁・企業・学校その他日本の社会のあらゆる組織が、〈形式民主主義〉または〈擬制民主主義〉とでも呼ぶべきもので覆われ、そのカバーを捲ると、戦前の非民主的で専制的な〈権威主義〉が貌を覗かせる。

それでもまだその頃は、デモクラシーの本拠地アメリカにこそ本物の民主主義があり、日本の擬似民主主義は一時的、経過的な特殊事情と考えていた。社会生活を重ねながら、真正民主主義?と擬似民主主義の対立構造の中で、物事を考え処理していた。事実、戦前世代の人たちは勿論、自分自身や同僚・上司たちの社会生活や個人生活を見ても、民主主義の感覚を見出すことは少なかったように思う。

実はアメリカの民主主義も、いやそれこそが、資本主義を最も効率的に運用するために存在するもので、民主は虚構ではないかと朧げながら気がついた。トランプ氏が大統領に選出された選挙の経緯が、それを識るよい機会になった。

自由の国のアメリカの選挙民が、必ずしも民主的精神で自立しているわけでは無く、私たち同様欲望に弱く情緒に流され扇動に乗りやすい人たちで、その投票行動を意図的に操作するのはた易いという事実が、開票結果で明らかになった。

私の青少年時代の1950年代末から1960年代にかけて、未曾有の経済的繁栄を謳歌しているように見えていたアメリカは、WASP[white,Anglo saxon,protestant]と呼ばれる白人階層にとってのユートピアであって、デモクラシーはその限られた階層集団にのみ機能するイデオロギーだったのではないかという疑いが年々強くなってきた。近代民主主義が近世の市民革命に始まる市民(ブルジョアジー)のものであったことに思い至れば、この事情はよく理解できる。

アメリカでは建国以来、ネイティブ・黒人・ヒスパニック・アジア系などの非白人に、真のデモクラシーは及んでいなかったという思いが強くなった。アメリカのデモクラシーは、富を特定の階層の白人に集積させる為の民主主義であって、あらゆる人種・民族・階層に及ぶ普遍の民主主義ではない。民主の民とは白人(wasp)の謂であって、非白人までを含めていないことに漸く気づかされた。もし真正の民主主義国家だったなら、広島と長崎への原爆投下は発生しなかっただろう。原爆を免れたドイツは、WASPの故郷のひとつである。

アメリカの法制度もイデオロギーも経済システムも、全ては巨富・大資本の繁栄を優先するためにある。自由で開かれた、弱者に手厚い民主主義の国は虚像だったのである。

外に開かれた社会は、高い専門的能力をもつ傑れた人材を、世界中から招き寄せる為のものだった。傑れた人たちを誘うには、デモクラシーが何よりも効果を発揮する。しかし一般的労働に就労する非白人に対しては、単なる労働力としての最低限の人権しか見ていない。特別な能力を有する非白人に対しては、自分たちの繁栄をより強固で確実なものとする為にあらゆる便益を供与し、彼らをアメリカ社会に定着させようとしているのだが・・・

バイデンとトランプとの選挙戦は、都市生活をする産業資本主義または金融資本主義の白人社会と、コーンベルトの農業資本主義の白人社会との分断を明らかにして見せた。かつての北部工業地帯と南部農業地帯との対立と乖離は、時代と共に形と領域を変化させながら広がっているのだろうか?
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1 コメント

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Unknown (kibori-more)
2021-07-11 06:38:20
おっしゃる通りだと思います
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