道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

旧弊踏襲

2018年09月20日 | 随想

政治が3.11以来前へ進まない。根本的な問題点を隠蔽し、解決策を明示しないで、もっぱら場当たり的な弥縫策で取り繕っているのだから当然だ。あの事故が、日本国民の身体と社会に与えたダメージを、東電も政府も正確に検証せず、国民全体の共通認識にまとめ上げることを避けてきた。3.11で明らかになった問題点は、何一つ改善されていない。改善させない力が、政治の背後で働いているようだ。日本社会には不信感が沈潜し、進歩向上する活力が失われている。

敗戦の時は違っていた。GHQの監視と統治の下で、隠ぺいはほとんど不可能だった。国家と社会と個人の間に、それぞれの置かれた情況に対する共通認識と理解があった。政治は、危機意識を抱えた善良で優秀な官僚たちの熱意ある誘導のもとに、再生の為の政策を推し進めた。政官一体となって目標をしぼり、復興の実現に向けて邁進した。勿論、お定まりの利権にともなう疑獄事件は頻発していたが、それも検察の鋭い特捜機能が発揮された結果だった。

それが今はどうだろう。海外の経済大国の変化の速さに対して、101日のごとき遅々とした歩みしかできない。喫緊の問題が発生しても、行政機関の権益が複雑に絡み合って邪魔をするのか、レスポンスが悪く問題解決は遅れがちになる。切羽詰まらなければ、問題を先送りして決断を避け、今を凌ぎたい本音がある。急な変革を望まない民族的な体質は、政治の怠慢を容認し続ける。果断な行動を好む体質の、狩猟民族ルーツの国々と較べ、あらゆることが遅滞して進まない。

為政者や官僚ばかりが怠慢なのではない。それを許すわれわれ国民がある。事を糺すことにエネルギーを費やすより、現在が平穏であれば、その微温湯に浸っていたい気持ちが共通する。現状を肯定し変革を先送りしたいのは、民族の体質かも知れない。

国も組織も家庭も、本当は、進歩派と守旧派が相拮抗している状態が望ましい。一方に偏るのはよくない。確実に安全な中道を歩むには、非効率であっても、両極端を縫うようにジグザグで進むしかない。初めから中道と判る道は無い。観念でない実際の中庸とは、そのようでなければ保てない。初めから誤ることなく真の中庸を歩める者など、この世に存在しない。

英国の民主主義は、保守党と労働党との対立・拮抗によりバランスを保って来た。2大政党が交互に政権交代する国でしか、民主主義は実現できない。効率は悪いが、一党独裁の偏りを排するには、それしかないのである。

これに対して、旧来の前例を踏襲することで安定を図る不合理な方法がある。先ず初めに、為政者が観念的に予め進むべき方向を指針し設定する。その方向の延長線上を進むことが施政であると考えている。現実に目を向けることを、根本的に缺いている姿勢だ。

我が国は、太平洋戦争に負けるまで、徳川幕府の時代と帝政日本の時代を通じて300年以上もの間、基本的には旧来の身分序列や社会階層を継続させ、自らの封建的体質を変えないで来た。日本の封建制は、上から無理に押し付けられ強制されたものでなく、人民の側にもなじみの良い制度だった。この方法は、少しづつセンターラインがズレていって危険ライン側に入っても、変化率が小さいので誰も気づかない。前例踏襲は、軌道が変わっていることに気づき難い。

前例踏襲は、三河松平氏以来、徳川氏の骨の髄まで染み込んだ体質である。徳川だけではない。この国は、島津も毛利も、旧弊踏襲では徳川に負けていない。ひとりやふたり開明的な主君が現れたところで、所詮徒花である。

明治維新は、思想・心性の上で同根の兄弟による、単なる政権奪取に過ぎなかった。改革に見えたのは、長い鎖国の間の近代文明への立ち遅れを早急に是正する為に採用した新機軸の数々が、人々の目にそう映っただけのことだ。根本的なところは、何も変わらなかった。戦後の55年体制も、政党が企図しただけでなく、国民の総意がそれを是認したから、半世紀以上も続いている。

占領軍GHQのリベラルな将校たちが、いかにこの国を理想郷にしようと革新的で壮大な実験を試み、本国にもない進歩的な制度を採用しようと画策しても、日本人の心性までは変えられなかった。したがって戦後のGHQによる諸改革は、そのほとんどが、あるものは企図したものと形は似ても中身は似て非なるものに変質し、またあるものは旧弊に退行したり頓挫した。彼らの願いが命脈を保っていたのは、昭和20年代までで、30年代に入ると、日本は再び旧の姿に戻り始めた。民族の心性というものは、占領軍の強権をもってしても、変えることはできなかったのだ。

家康は江戸を開くに当たって、旗本・御家人などの武士ばかりか、商人・職人など町人も江戸に連れて行った。彼らの中から町役人たちを選び、行政の末端を担わせた。現地の人材を用いずに郷党を重用したのは、徳川氏ひとりの気質というより、日本人の全てがもつ、特性だろう。

明治になって、東京の巡査を始め吏員の多くは薩摩出身者、陸軍軍人は長州出身者、海軍軍人は薩摩出身者と、職を棲み分けた。その結果として、悲惨な敗戦がある。まさに、守旧の300がもたらした必然である。

富国強兵の軍国主義から技術立国への切り替えで経済大国になったものの、旧弊踏襲はまたしても経済政策を誤らせ、経済運営を破綻させた。国民は改革を放棄し、守旧体質の長期保守政権を支持し続けて損害を被り続けたが、誰もそれを呪ってはいない。民族の属性に逆らっていないからだ。二つの国家的破綻の遠因は、明治維新で権力機構に対立軸がなくなったことにあるのではないかと思う。

武家と公家はもともと反りが合わない、水と油の関係だった。江戸幕府と朝廷とは、表面はともかく一度も融和したことはなく、対立を内在させた関係だった。形式的に通婚を重ねることによって、それは表に現れないよう保たれていた。

鎌倉幕府と朝廷も対立していたが、鎌倉と畿内との経済力の差は大きく、武家政権の独走にはブレーキが効いていた。建武の中興で天皇親政を図り一極化した時には、自律的に統治能力を失っている。それを二極構造に立て直したのが足利幕府だったが、守護大名など興隆する武家勢力を抑えきれず応仁の乱に至る。

戦国時代を終わらせたのは信長だが、天皇の権威には服さなかった。光秀の反乱に敗れ一極支配は成功しなかった。これを間近に体験した秀吉は、朝廷と親和的な政権を運営した。

国の統一は、徳川幕府になって初めて実現した。江戸幕府は幕末に至るまで朝廷の権威を巧みに利用しながら、実質的には圧倒的な経済力で支配した。

それに対する反発の高まりが尊王攘夷であり、倒幕運動である。攘夷は思想としてよりも、感情論として庶民にわかりやすい。倒幕派の、徳川を苦境に追い込むための手段として、尊皇攘夷は声高に喧伝された。

水戸藩において「大日本史」が編纂されて以後、江戸期を通じて国中に広まった水戸学によって、尊皇思想は武士の常識、教養となっていた。この国には、緩やかな反体制思想の素地が、幕末までに整っていたのだろう。

幕末に異国と親しく交易(密貿易)しながら攘夷を称える、薩摩藩や長州藩の機会主義というものに評価は与えられない。案の定、機会主義の人たちがつくりあげた国家は、急速に隆興したかに見えたが、80年足らずで瓦解した。

やはり旧いものに依拠する姿勢は、それが民族の体質であったとしても、意識して改めなければならない。また、改革にあたっては、換骨奪胎の便宜主義を排し、前例のない独創性を評価すべきである。見かけは新しくても、中身が旧いのでは、更新されたことにならない。

時代とともに世界は変わる。先例重視を脱却し、自分たちの頭で考え抜いて世界の変化に蹤いて行くのでなければ、国の将来は安泰にならない。

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