道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

シンパシー

2018年02月08日 | 随想
いつもの散歩道を吹く空っ風は身を切られるように冷たいが、時に一瞬熄む時がある。その時に感じた陽光には、ひと月前と違う温もりが籠っていた。厳冬期には姿を見せないカルガモたちも、今日は落ち込み下の浅瀬に5羽が遊弋している。
数日前から北陸の豪雪の報道がテレビで繰り返し映し出されている。国道8号線の千台を超える大渋滞はトップニュースだ。37年ぶりの豪雪だという。
 
日本海から坂井平野に強い湿った西風が吹き込み、海抜1000mを超す加越山地に衝ると、山裾から4km足らずを並行する8号線あたりに大量の雪が降る。地形に因る典型的な局地気象だ。
 
その凄さを連日テレビで観ていれば、雪の降らない太平洋側に居る私でも、外出を控えたくなる。物流そのものへの直接の影響もさることながら、同情と共感が全国的に拡がり、この週の購買意欲を低下させるかもしれない。
 
共感(シンパシー)というものは人間に特有の感情で、この感情の強弱は人間性の水準を示す。人間性は情操に根拠を措く性能で、情操が豊かでなければ、シンパシーを感じる力は薄弱にならざるを得ない。
  
昭和の中頃、30年代までは情操教育という言葉がしきりと叫ばれていた。エコノミックアニマルという蔑称が外国から奉られるようになった頃から、次第にこの情操教育という語を耳にしなくなった。情操が学校教育でどうにかなるものでないことに気付き始め、そこに限界があることが認知されたことと、家庭でも情操を大切にしなくなったこととが重なったのだろう。情操よりも、知識、技術、ノウハウを重要視する世の中に変わり始めたのがその頃だった。
 
欧米に追い付き追い越すことに官民全力を挙げ、情操教育どころではなくなった。実際に暮らしが豊かになり、仕事が忙しくなるにつれて、日本人の情操は確実に乏しくなったように思う。
 
敗戦後の国中が貧しかった時代、不思議なことにかえって情操は豊かに保たれていた。皆が多かれ少なかれ痛みを抱いていたから、他人を思いやる心があったのだろう。情操と経済力は背馳するのだろうか?
 
世界的な経済最優先の思潮、マネー万能の現代社会が、人々の感性を日々乾涸びさせているのは事実だろう。それが、私たちに情操を養う余裕を失わせているかもしれない。
 
多様な生物の存在に関心を持ち、それらの生活に共感し・・絵画や音楽を鑑賞して心を浄め・・詩や小説・演劇に感情の共鳴を覚え・・過去を懐かしみ未来に想いを馳せる・・これら諸々の人間らしい心の動きを、日常生活の場に取り戻さなければいけないと切実に思う。
  
「衣食足って礼節を知る」でなく、「衣食足り過ぎて情操を喪う」ということににならないよう、注意しなければならない。
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