道々の枝折

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中山道、歴史齧り歩き[関ヶ原宿→今須宿→柏原宿]

2018年05月15日 | 歴史探索

関ヶ原駅への下車は最近3年で3目、昨秋の2回目は冷雨と風に祟られ、関ヶ原の史跡探索どころではなかった。

今日は五月晴れに恵まれた。伊吹山には一片の雲もなく、捲土重来、満々の意欲で中山道3宿を歩く。

①〈関ヶ原〉関ヶ原には大きな歴史事跡が2層に重なっている。

1層は「壬申の乱672年」における不破道封鎖。第2層は「関ヶ原の合戦1600年」。

歴史を探るとなると、時代区分を混ぜこぜにして史跡を巡るわけにはいかない。

3年前の初回は、「関ヶ原合戦」の戦跡巡りに絞って16kmを歩いた。それでも徳川家康の本陣「桃配山」と小早川秀秋の陣地「松尾山」は割愛せざるを得なかった。戦跡を全て見て周るには、おそらく約20km5時間を要するだろう。

駅付近が宿場の中心だが、鉄道と新旧国道が近接しているためか、宿場の遺構は少なく、街並みに昔を偲ばせるものはほとんどない。

②〈不破の関〉

今回は「壬申の乱」の激戦地のひとつ、「不破」にたっぷり時間を割り当てている。

壬申の乱は、飛鳥時代の王位継承をめぐる古代最大規模の戦争だった。戦域は数ヶ国にまたがり、戦線は各地に跳ぶ。交戦期間は約1ヶ月にも及び、参戦兵力の延べ動員数は数10万にのぼるだろう。

各地戦跡を訪ねるには、ピンポイントで探索するほかない。既に決戦地の瀬田は昨年訪れているので、この日の不破は第2ポイントということになる。

〈関ヶ原合戦〉戦域の南西端部、JR東海道線・R21号線と新幹線とに挟まれた(というより在来線と国道が史跡〈不破の関〉を避けた)範囲の、〈藤古川〉の東岸河岸段丘上に〈不破の関跡〉はある。

壬申の乱のときには関はまだ無く、自然の要害を利用した大海人皇子軍3000人が籠る陣地だった。関は乱の翌年、大海人皇子が天武天皇になって後に建設された。

この関の目的が、天武朝の都に事変があったとき、その関係者が畿内から東国へ逃亡・脱出するのを防ぐためのものであったことは、現地に立ち地勢・地形を見て初めて納得できた。乱における封鎖地点を、恒久化することにしたものだ。

歴史は本を見ているだけでは分からない。教科書の歴史が面白くないのは、フィールドへ出かけないからで、観察や実験を欠いた理科が面白くないのと同じである。

不破の関跡を下り、〈西木戸〉〈藤古川〉と進む。大友皇子軍と大海人皇子軍の攻防戦で、川底が血で黒く染まったと伝わる〈黒血川〉を渡ると、〈鶯の滝〉がある。高さ数メートルの小さな滝が、岸璧から二本並んで落ちている。

この辺り一帯〈山中村〉は、中世東山道の宿駅として栄えていた処という。続いて標識に導かれるまま〈常盤御前の墓〉へ行く。

③【常盤御前の墓】

源義朝の愛妾常盤御前は、〈平治の乱1159年〉で義朝が敗死した後、東国に向かった牛若の身を案じて乳母の千種と共にこの地に至ったという。不運にも土匪に襲われ、非業の最期を遂げたと案内板には書かれている。

3間四方ほどの墓域には、高さ50センチほどの、風化で形も定かでなくなったみかげ石の墓塔が2基並び、片隅には40センチに満たない大小様々の墓石が、全部で10基ほど並んでいた。

所伝が事実なら、中央に並んだ大きな墓塔は常盤千種、隅の墓石群は常盤に扈従していた武者や下女・下人のものと推定できるが、生没年不明の常盤御前について、横死を記した史書は無いようだ。

墓の主が誰であれ、墓塔の風化の度合いから、古い時代の身分ある人の墓所であることに疑いはない。

暮塔は著しく風化し角がとれ、文字などまったく見えない。いづれ数百年後には、ふたつの墓塔は砂に還るだろう。

常盤御前16才で源義朝愛妾になり、今若乙若牛若を産んだという。絶世の美女だったことを史書は伝えるが、終焉地と生没年の記録は無いらしい。

④【今須宿】

道は緩やかな上り勾配に変わっていた。行程一番の難所〈今須峠〉に向かう。現在の道は旧とは違い難所ではない。峠から先はやや急な下り坂になり、眼下に今須宿が見えてくる。難所と伝えられるのは東下する場合で、西上するときの坂の勾配は緩い。関ヶ原から琵琶湖へかけての道は、総じて上りは緩く下りはやや急である。今須宿入り口の一里塚を過ぎると、本陣跡や問屋場跡が現れる。宿場内は静まりかえっている。

JR東海道線の踏切を渡りしばらく行くと、〈寝物語の里〉の大きな標石が目に入った。此処は美濃と近江の国境で、幅50センチほどの石組みの溝で段丘面を東西に別けている。江・濃国境は、清冽な山水が流れる石溝の中心線ということになる。

⑤【柏原宿】

近江路に入って最初に驚かされたのは、カエデ巨木の並木だった。樹齢200年は超えているだろう。全部で10本以上ある巨大なカエデは、滅多に見られない。幹の一本一本が、歳月によって彫り込まれた彫刻作品のようである。

カエデ並木を過ぎると、旧い建物の家並みが現れ、柏原宿内に入ったことを知る。

この宿場町は2度目の訪問だ。昨年春に〈佐々木京極家〉の菩提寺〈清滝寺徳源院〉を訪ね、歴代京極氏の墓塔群の中に〈佐々木道誉(高氏)〉の宝篋印塔を確かめ、境内の見事な枝垂れ桜を嘆賞した。

江戸時代、灸の艾(もぐさ)のトップブランド〈伊吹もぐさ〉の製造販売で栄えたという宿は、豪壮な町家が建ち並び、中山道69宿の中でも有数の宿場であった時代の名残りをとどめている。静かで落ち着いた佇まいは、まさに時が揺蕩う空間である。我々は無意識に、そんな空間を求めて旅をするのだろうか?

土産物店や飲食店が建ち並ぶ昨今の観光宿場とは明らかに雰囲気が違う。宿のどこからでも伊吹山が見えるのが佳い。今日のJR東海道線の中では、「降りたい駅No.1」に指定しされてしかるべきだ。秋にはカエデ巨木の紅葉を観に来たい。

此処まで飲食店のない旧街道を、飲まず食わずで歩き通し、足の疲れがどっと出た。ちょうど昼どき、以前食事を摂った喫茶店に入り、ビールで喉を潤し、大盛りざる蕎麦の昼食を摂る。今回の行程では、飲食出来る処はこの一軒のみしかなかった。

店のおすすめは葛切り・ぜんざいの甘味。約10km3時間かけて歩いて来た褒美は葛切りだった。

柏原駅から見る〈伊吹山1377m〉は、午後になっても山頂が見えていた。

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