道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

鄙稀れ(ひなまれ)

2022年01月20日 | 人文考察

「鄙には稀な美人」と謂う。これを短くつづめて鄙稀れ(ひなまれ)とも謂う。
辺鄙なところに美人は少ないという都会人に独特の偏った思い込みである。
AIの顔認識システムでも使って、無作為に街行く女性の顔を判定するなら、客観的な信頼性の高いデータが得られるだろうが、現代でも相変わらず根拠の不明な直感的認識が、鄙稀れ説を支えている。

我が国には、大昔から(地方)を蔑み(中央)を尊ぶ弊風がある。古代中国の中央集権制を模倣し、天皇制を確立して以来、天皇の御所があるは莫大な投資のもとに壮麗な建築物が立ち並び、都市の機構が整備された。其処は文化・経済・行政・外交の中心だった。
相対的に、地方は草深く見窄らしい、納税と労役を果たすだけの耕作農民の生活圏だった。美装は見かけない。都の人たちが鄙の人たちを見下すのは、その頃に始まったものだろう。

有史以前から中国には一夫多妻制の弊風があったらしく、孔子もその習俗を容認していたらしい。我が国の朝廷にも後宮があり、全国各地から選り抜きの美女が集っていたであろうことは間違いない。漢字と儒教の文化と共に、中国王朝の「佳麗3000人」と謳われる後宮をも、大和朝廷は模倣した。専制政治は世襲が欠かせないからである。

後宮に入る女性たちもその身辺近くに仕える女性たちも、多くが美女だったことだろう。都(中央)に美女が犇めき、田舎(地方)には妙齢の美女が稀少になるのは、歴史的にも社会的にも必然だった。
妙齢の美女が都に偏在するのは、専制国家の特徴と言えるかもしれない。

遺伝の法則は無作為・公平であるから、自然状態なら、美人の因子は全国に均等に撒かれているはずだ。僻村にも都邑にも、美人は人口に一定の比率で生まれるのが自然である。
美人が都に偏在するのは、人為、すなわち社会的な選抜が行われるからであろう。それは専制制度によるものばかりではない。

自由で民主的な現代でも、都市の美人比率は高い。年頃になると、美人が都会を目指すからである。就職であったり、進学であったり、結婚ということもある。様々な事由で美人は都会を目指す。都会でこそ、美人はその本領を発揮できるからである。草深い辺鄙な在所では、美貌も宝の持腐れになってしまうと思うのだろう。

大昔から、田舎に生まれた美人は、年頃になると自発的にも他発的にも、都会へ出た。富貴の多い都市が美人を招くのである。美人であることのアドバンテージは、華やかな都会でこそ活かせるものである。幸福になるかどうかは保証されないのだが・・・

以上が鄙に美人が稀になる理由であり、鄙稀れの固定観念が定まった事情かと思う。

ところが一筋縄ではいかないやつがれ、独自に辺鄙の地に鄙稀れが絶えない理論的根拠をもっている。

40代以降60代までの渓流釣りや山歩きを通じて、山間地域へ頻繁に出入りし、現地の自然と人文に触れる機会が多かった私は、日本の山間僻地に美人が多く出生する人類学的根拠?を見出した。

美人が高い比率で出生するということは、美男も同様ということである。山里に美男・美女が多く生まれることの不思議を度々経験し、その要因について考えを巡らして来た。

ここからは、例によって私の荒唐無稽な独断的考察による推論であるから、読者は一笑に付されるかもしれないが、今しばらく、お付き合い願いたい。

日本列島の75%は山地、67%が森林である。圧倒的に山地が多く平野は少ない。

日本の歴史は、縄文早期に列島に土着して当初は海辺で漁撈をもって繁衍し、その後の人口増加に伴って当時の幹線交通路の河川を遡り、山地に生活の場を見つけ、狩猟と採集、時には栽培を生業とした人々と、その後長期にわたって波状的に来着し、沖積平野で水田稲作の生業を営んだ人々との、生産と生活とDNAの態様を異にするふたつの人間集団が存在したことがわかっている。

早い時期に生活適地の山間部に住んだ人々と、遅れて平野部に住み稲作に従事した人々との間には、生活形態の違いと同様に、身体的特徴に差異があったらしい。
外見的に見て、縄文系は背が低く彫りの深い立体的で中頭(才槌形)の頭骨の人々、弥生系はより長身の、平面的な面立ちで短頭の頭骨(絶壁形)の人々であったと伝えられている。
山地の人々と平野の人々が共存した期間は千年以上に及ぶ。その間に、双方の物流・交易が発展し人的交流が盛んになっていった。

社会というものは、生産力の高い、経済力のある方へ人が流れる。山地を生活の場にする人々は、時代を経るに従って平野に降り、農耕の生活に同化して行った。既にそれ以前から、通婚も始まっていたに違いない。

人には自分の身体特徴と異なる異性を好む性向が生まれながらに備わっている。審美的な意識とは別の情動で、磁石のように惹かれ合う。生物学的には、近親婚を避ける仕組みが遺伝子に組み込まれていると考えられている。

身体的特徴を異にするふたつの集団の混淆は、山地に定住する人々と平野に定住する人々が濃厚に接する地域(仮にplain front と呼ぶ)で活発となる。遺伝子的に懸隔性の大きい男女の結婚は、容貌の好ましい子どもを生む。山地と平野が接する拠点地域は、美男・美女をより多く産する地域と認識されるようになったのではないかと考える。

縄文時代の狩猟の生活に適した山地といっても、峻険な山地に集落は営めない。生活を営むに適した、標高 1500mを超えない、平坦面の多い高原、扇状地、河岸段丘などの地形が、山地民の生活領域である。そのような山地と沖積平野とが接する地域でなければ、両集団の濃密な接触は生じない。美男・美女を多く生む地域は、その様な地域に形成される。

山間地の小都市の商店や旅館・食事処などで、美人に会った都会人は「鄙稀れ!」と愕きを隠さない。愕くには当たらない。現地は古来、美人の発生源だったのである。

今日、美人県と言われる青森・岩手・秋田・山形・宮城・新潟などは、いずれも県内にプレーンフロントが比較的多く散在する県である。県域全体、網羅的に美人が生まれるのではなく、それぞれの県内の前記地形的条件を満たす特定地域に美人が比較的多く生まれ、それが長い年月をかけて県域全体に拡散した結果、美人県と呼ばれるようになったのだろう。

中部地方から西の地域に美人県(美人比率の高い県)が少ない理由は、2つの要因が考えられる。
ひとつは自然的要因で、地質・地勢・地形的にプレーンフロントが形成されなかったこと。
もうひとつは社会的要因で、西南地方の漁業生産力が高かったことである。

長い海岸線と漁獲量に恵まれた山陽・山陰や九州の縄文集団は、高い生産力を保ち、人口増加により海辺民から山地民へ移行する必要がなかったと見る。また、在地の縄文集団は海辺での高い生産力に支えられ、弥生集団との間に積極的混淆が進まなかったのではないかと推測することができる。それが、美人県と言われるまでに美人の密度が高くならなかった理由ではないか。決して西南日本に美人が少ないなどと言っているのではない。

荒唐無稽な着想と非科学的な考察にお付き合いくださいまして、洵に有難うございました。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 先進国の国民 | トップ | 病と態 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿