道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

On one’s own account

2013年11月19日 | 随想

国家も企業も、その意思を決定し、それを内外に示すのは、意思決定機関の頭領個人である。政府や経営体の意思決定は組織の機関としての決定だが、最終的には決定権のある最高役職者個人の決裁に依るもので、そこに個人としての意思は働いている。合議の結果による決定でも、合議体の代表者個人の意思は強く反映する。誰もが団体の意思決定に、個人の意思が投影されることを認めないわけにはいかない。極言すれば、組織や団体の意思というものはない。個人の意思が組織や団体を動かしている以上、国家の意思や企業の意思も、究極的には個人の意思に収約される。

総理大臣としてとか、社長としてとか、言葉の上での個人と役職の使い分けは、本来許されるものではない。役職そのものに意思がない以上、職務上の意思は100%個人のものである。大きな権力には重い責任がつきまとう。権力者は、役職に転嫁できない重い責任を、あくまで個人として担っていることを、常に念頭においていなければならない。それ故に「nobless oblige」という言葉がある。

我々は、自分が所属する組織を身内化するのが好きである。組織を表に出し、組織に埋没することで、安心を得ているのだろう。また、集団志向の心理には、個人的能力の突出を認めたくない心性も潜在する。平等に安心と価値を認め、能力の偏在というものを信じない、いや信じたくないのである。集団の意思・集団の行動・集団の精神を何よりも信奉し、集団への奉仕を尊重する。本来は個人の意思に属することでも、集団の意思転嫁する。これは、個人主義的な民族には観られない、集団主義的民族に普遍の特徴である。

改めて言うが、集団や組織の意思とか論理と言うものは無い。あるのは、どこまでも集団内の最高権力者の意思である。どこの世界でも、組織はその頭領の意思で動くものだ。畢竟人の人生は、多くの個人の考えにリンクしながら動いてゆくものである。

集団主義の下において、集団の頭領に従うかどうかは、自分の判断と運命に賭けるしかない。判断を誤るかまたは運が悪ければ、破滅に至ることもある。運はどうにもならないが、判断は百パーセント自分のものである。「自己のアカウントon one's own account」で生きる者は、自分の判断を信じて、行動するほかはない。「自己のアカウント」を持たない人生は、必ず何か自分以外のものに、固執するかまたは依拠せざるを得ない。果ては信奉に至る場合も多い

人がコミットしていたものを知れば、彼が「自己のアカウント」で生きようとした人かどうかは歴然と判明する。


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