道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

稚気愛すべし

2013年11月28日 | 随想

「稚気愛すべし」という言葉がある。大人になっても無邪気で子供のような感覚を保っている人は少なく、それだけに貴重な存在であるように思う。稚気ある人は、傍にいるだけで楽しい人である。変わらぬ友情というものは、互いの稚気によって支えられているものかもしれない。

稚気に富むかどうかの指標はいくつかあるが、そのひとつに動稙物への愛好が挙げられると思う。子供は例外なく生き物が好きだから、動稙物への関心が高い成人は、まだ稚気を失っていないと見てよいのではないだろうか。

幼児は成長するにしたがって、外界に関心が向かう。身近に触れる草花や木の実・虫・小魚・小鳥・犬・猫などから、動物園で飼育されているような大型の動物へと興味の対象が広がる。他の幼児を認識するのもその頃だろう。幼児の脳内では、自分と違う生き物に関心を抱くプログラムが働いているらしい。それは、自他を弁別し、他者への親和と警戒の双方を偏ることなく身につけることが、人間の生存にとってもっとも大切なことだからだろう。人に限らず、高等動物はいずれも自分以外の生き物に関心を抱き、その程度は知能が高くなるほど強いようだ。

稚気には必ず茶目っ気というものが付随する。無邪気ないたずらで人を愉しませようとする、子どもの心に自然に芽生える一種のサービス精神である。

面白いことに稚気ある者同志は、幼児たちがそうであるように、いとも簡単に親しくなることが多い。相寄る魂の働きかもしれない。これを欠いては友情は育たない。 この相寄る魂の働きは情操が調う16、7才の頃が最も盛んである。最も友だちができる年頃である。その働きは以後少しづつ減衰し、加齢と共に加速度がつき、老年になる頃にはすっかりその活力を失う。社会生活が間断なく人から稚気を奪いとる結果であろう。

ペットの愛玩も動物愛と重なるが、ペットの愛玩者が必ずしも動物好きとは言えない。したがって稚気のない人もいる。自己愛の延長として、または自己の存在証明の一環としてのペット愛好というものがあるようだ。

癒しをペットに求める人達、これは若い女性に多いようだが、ともするとペットと飼い主が共依存の関係になりがちで、ペットにとっては荷が重そうに思う。ペットが飼い主に依存するのは当然だが、逆は無理がありはしないか?また飼い主が、可愛さのあまり、ペットを家族同様に擬人化してしまうのも、当の動物にとって嬉しいことだろうか?愛玩犬というものは、愛玩の目的で作出されたものだから、案外満足しているのかもしれない。孰れにしても、飼う側に稚気が具わっていれば、動物はすぐそれを察知してよく懐き、可愛いペットになるだろう。

稚気幼児性とを混同してはならない。幼児性は自己中心性と依存心が結びついているもので、稚気の大らかさがない。稚気は年齢とともに減衰しやすいものだが、困ったことに幼児性は70・80歳の老人になっても衰退しない。大人の幼児性は心奥深くに潜み隠れ、表に顕れず死ぬまで生き続けるものらしい。ヘルペス・ウイルスみたいなものだ。

社会生活を恙なく送っていても、幼児性を引きずる人は存外多く居る。むしろ社会的地位が高く、良識あると思われている人々に多いのが特徴である。両親や保護者の愛情を満身に受け、その幼児性を全面的に容認された挙句、自己中心的な偏りを矯正する機会に恵まれなかったのである。ひと言でいうと「甘やかされた」のである。

幼児性は、育った環境によって形成されるもので、先天性のものではない。幼児期に過保護なまでに大切にされると、その体験は一種の快感となって、当人の脳内の何処かに居場所を占める。肯ぜない幼児がその人の脳内に一生棲み続けることになるようだ。

社会生活では幼児性を露呈させないよう抑え込んでいるが、個人生活の場ではそれが一挙に顕れる。したがって、幼児性は家族などごくわずかの内輪の人たちにしか知られることはない。幼児性は彼を愛する家族に迷惑や被害をもたらしているのだが、本人が自覚せず自発的にそれを排除できないから甚だ始末が悪い

これと違って、稚気はごく自然に表出し外に広まるもので、他者の心を和らげる。稚気ある老人は少数だが珍しいので、稚気を失った無数の老人たちの中では容易に見つけることができる。

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