お気に入りのレストランや料理店に「常連」とか「お馴染み」と認められることは、誰でも嬉しいことだろう。現下はInstagramがその無邪気な虚栄心を後押ししている面もある。店との縁が他の人より深いことを拡散することは、自尊心を擽るものがあって、人を快活にするのではないかと思う。
店の側が、来店した有名人の色紙や写真を壁一面に貼り付けているのは、宣伝効果を考えてのことだろう。これも虚栄心の発露と思われるが、顧客からは必ずしも歓迎されているとばかりは言えないようだ。常連の中には、馴染みの店を人に知らせたくないという人も少なからず居る。
固定客を有り難がるのは、商店も飲食店も変わらない。ビジネスは顧客あってのものだが、物販店と飲食店では、客と店との関係性に本質的な違いがある。
それは、飲食店の仕事が、職人技であることに由る。他者が作った商品を仕入れ販売する商人とは、仕事の内容と意識において違いを生む。
職人とは自分の手技で生きる人、つくったモノの良し悪しに責任を負う人。職人は仕事中は喋らない。
饒舌で愛想のよい職人というものは、腕の方が疎かになりがちと見て、ほぼ間違いないだろう。
つくったモノで評価される人たちは、技に全力を集中するから、必然的に寡黙にならざるを得ない。腕の達者な職人は、例外なく口数が少ないものである。作業の全てに頭を使ってモノをつくっているから、言葉を脳裡に浮かぺる暇はないに違いない。
現代は凡ゆる産業で年期を入れる徒弟奉公という就労形態が消え、昔の職人気質の人は滅多に見かけなくなって来た。
技能を習得して一人前に成るのに10年を要するのは、洋の東西を問わず何処でも同じらしい。優れた技能の習熟と、それが他者に認められるには、どこの国でもどの民族でも、同じ程度の年期が必要であるらしい。
若い頃の10年は、重みにおいて、後の10年とは違うようだ。
学校というところは、技術や技能、知識の習得期間を短くするための社会的な要請に基づいて産まれたものだろう。月謝を納めて学習に集中する。
無給または薄給だが、技倆と知識の豊富な優れた親方から直接技能を学ぶことができる徒弟奉公は、よくよく考えてみると、弟子の側が親方を選ぷ為の自然に発生したシステムだったように思う。
これはと思う親方の門を叩いてその道の一流の人に直接付くには、この方法しかなかったはず。無給または薄給だからこそ、徒弟が親方を選べるチャンスがある。どちらのシステムがよいかは、人によるかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます