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道々の枝折

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壬申の乱(その3)

2019年03月11日 | 歴史探索

その3

.近江路(琵琶湖東岸)での戦い

77日、大海人軍の村国男依らは、息長横河(おきながのよこかわ、現在の滋賀県米原市梓河内付近)で官軍の将・境部薬(さかいべのくすり)を討ち取り勝利する。

79日、村国男依らの大海人軍が、琵琶湖東岸の鳥籠山(とこのやま、滋賀県彦根市の現大堀山)で官軍の秦友足(はたのともたり)を打ち取り勝利する。

713日、大海人軍の村国男依軍はさらに南下し、安河(やすのかわ、現野洲川)畔で官軍を破り、社戸連大口・土師連千嶋の2将を捕らえる。以後17日まで掃討作戦が展開され、大海人軍は栗太(くるもと)まで進んだ。

7 22日、官軍は瀬田川西岸に残存兵力を結集し、村国男依率いる大海人軍に決戦を挑むも大敗する。大友軍は、既に指揮系統が乱れていて、兵士は戦意を喪失していたと思われる。

大海人軍は粟津岡(あわづのおか)に軍営を置いた。

この日、羽田矢国・出雲狛の北近江方面軍が三尾城を落とし、大津宮に迫る。

大海人軍の大倭方面軍が山前(やまさき)に集結し、大友皇子の退路は完全に遮断された。

723日、大友皇子は山前にて自害する。大海人軍は、粟津(あわづ)で大友軍の将を処刑した。

7 24日、大海人軍は主力を移動し、左・右大臣を逮捕した。

7 26日、大海人軍は不破に凱旋する。内戦は大友皇子ひとりの自害で終結した。大海人皇子とその妃鸕野讚良(うののさらら)にとっては、天智天皇の期待した大友皇子ひとりを倒せば、万事事足りる戦いであったのだろう。戦う前から、近江朝廷の実権は、大海人皇子が握っていたと見ても、さほど外れてはいないだろう。

825日、大海人は右大臣中臣金を斬刑に処した。その他の大友側要人は流罪。極刑はいない。

敗者の側に、反乱に対する備えが全く無かったことが、この戦争の帰趨を決めた。

乱後に処刑された大友側の重臣や将官の数が極めて少なかったことや、後の政権に重用された者もいたことは、近江朝廷側に大海人側へ内応する者がかなりいたことを推測させる。

壬申の乱での戦闘は、戦域各地における小規模な部隊の局地戦が多かった。互いに奇襲や夜襲が多かったことが、それを物語っている。

本来なら、大兵力が伯仲していた息長横河(おきながのよこかわ、現米原市梓河内)の戦いが一大決戦場になるはずだったが、決戦前夜に総大将が内紛で殺害された官軍は、戦意を阻喪し敗北する。

その後官軍は敗退を続け、瀬田橋で最期の決戦を挑むが、それまでの近江路各戦場での敗残兵では大海人軍に抗す術もなく、退路を塞がれ軍は壊滅、大友皇子は山前で自害した。

この時代の戦争は、官軍と言えども農民兵が主体であって、専門的に訓練を受けた兵士の組織率は至って低かった。部隊の運用も後の時代より拙劣であったことだろう。個々の戦闘は双方合わせて数百人規模であったと見られる。美濃・尾張で徴募された官軍が20,000人というのは、当時の日本の人口から見て、誇張であろうと考えられている。

.天智(中大江皇子)と天武(大海人皇子)

当事者が皇位継承権を有する皇太弟天皇の長子、それぞれに与する大小豪族や重臣などの思惑も重なり、この乱が皇位継承に絡む権力争いである面はたしかにあったろう。

だが大海人皇子の政権奪取にはもっと壮大な、国の根本的な立て直しを図る一大構想があったと推察される。それは兄の天智天皇では成し遂げられなかった、律令制中央集権国家の完成であろう。

舒明天皇と皇極天皇(寶女王・斉明天皇)との間にできた中大兄皇子大海人皇子のふたりの皇子は、歴代天皇の中でも突出して実行力とカリスマ性そして政治的な策謀に長けた兄弟だったと推察される。

兄の中大江皇子は、「乙巳の変」で中臣(藤原)鎌足と謀り、当時絶大な権力で朝廷を支配していた有力豪族で廷臣の、蘇我蝦夷・入鹿の父子をクーデターで滅ぼした。

弟の大海人皇子は、兄が生前に計らって敷いた、長子の大友皇子を中心とする政権を、クーデターにより壊滅させ権力を手に入れた。

この兄弟は、情勢の判断・臣下の掌握・迅速な行動・果断な指揮、どれを取っても、王に相応しい能力を生まれながらにもっていた。

勿論、中大兄皇子の勝利とその後の政権維持には、中臣(藤原)鎌足という重臣あってのものであろうし、大海人皇子は后の鸕野讚良皇女と、朴井連御君をはじめとする若く有能な舎人(豪族の子弟)たちの存在を忘れる訳にはいかない。

いづれにせよ、二人に共通するのは、政局を見る目と臣下の信頼の篤さの2点に絞られる。言い換えれば情勢分析部下の掌握に長けていたということだろう。

共に覇気に満ち、智謀深く、果敢な性格であったことは、事績を見れば明らかだ。歴代天皇の中では際立って進取の気象に富む、革新的性向の強い人たちだった。ふたりとも狩が好きだったことも、闘争心の旺盛な、行動力に富んだ気質であったことを推測させる。

. 乙巳の変と壬申の乱

兄の中大江皇子が起した「乙巳の変」は、王権を蔑ろにし専横の限りを尽くす蘇我の蝦夷・入鹿父子を、中臣鎌足と謀って誅殺したクーデターだが、これには明らかに正当性がある。謀殺であっても暗殺ではなく、衆目のある宴席で堂々と殺害が実行された、目的の明らかな王権力の行使だった。したがって彼らは記録を隠したり飾る必要はなかった。変の後に朝廷内に乱れを生じなかったことも、このクーデターに不満を持つものがいなかった証左とみてよいだろう。

半島遠征と敗戦後の唐・新羅の侵寇に備える西国防衛体制の強化や、667年の「近江遷都」によって、西国はじめ国内は疲弊した。半島遠征に従軍した地方豪族や中央豪族たちの不満は大きく、民心も動揺し、近江朝廷は人心の離反を食い止めることができないでいた。

その状況を変えたい願いを、大海人皇子と畿内の豪族及び皇子の本拠地、美濃・尾張の豪族たちは共有し、変革の機運を見計らっていたと見る。

「壬申の乱」は、政権内の皇族が出家して近江の宮廷を去り、吉野に退去して僅か半年後の蜂起である。

その間、大友皇子が率いる近江朝廷は、なんら警戒も諜報活動も行なっていないように見える。大海人の謀反は寝耳に水であったと推測できる。

大海人の吉野脱出を見逃し、それまで手の内にあった高市皇子と大津皇子の逃亡を許し、彼らが途中で合流して不破道を閉塞するまでの4日間を無為に過ごしたのは、要するに近江朝廷の常備軍が臨機即応できなかったということだ。不破攻撃に向かった官軍の進軍はあまりに遅い。大海人の調略が効いていたも見ることができる。

中大兄皇子の元で、その右腕として政治に手腕を振るってきた大海人皇子と、弱冠25歳の大友皇子との政治力、情勢判断の差は大きい。近江朝廷には、大友皇子を補佐するに足る人材が居なかったということである。

若い甥(20台半ば)は、妻の父であ老獪な伯父40台半ば)を全く警戒していなかったか、人心収攬の術に欠けていたのであろう。

藤原鎌足(669年死去)亡き後の近江朝廷には、大海人皇子の狡知に長けた謀略と卓越した戦略に対抗できる人物が、居なかったということだろう。天智天皇が生前に後事を託して任命した大臣・御史大夫の5人には、大友皇子を補佐するに足る能力が全くなかったということである。それ故に、壬申の乱は長期化せず、たったひと月半で終息したと思う。

.大海人皇子の作為

大海人皇子には乱の収束後、この乱が計画的反乱でなく天皇崩御の直後に迫った身の危険を避けるための、正当防衛であったことを広く世に知らしめる必要があった。生命の危機を避けるため吉野を脱出し、安全な本貫地美濃の安鉢磨郡湯沐邑を目指す苦しい逃避行を、日本書紀はアピールする。

実際は逃避行ではなく、美濃での挙兵と不破道・伊賀道・鈴鹿道の封鎖及び倭古京(飛鳥)の攻撃など、攻撃指令をしながら兵を糾合し、豪族たちや官の役人たちの協力や参軍を呼びかけながら、予め定めた湯沐邑の本営【野上行宮】に着陣する、綿密に練られた作戦行動だった。

天智天皇の勅命で編纂された古事記・日本書紀が「乙巳の変」の際に蘇我蝦夷邸で焼失した国史の復刊であるとしても、そこに記された壬申の乱の記事「天武記上128」が、従軍した大海人側の舎人たちの家伝など勝者側の資料によるものであるのは当然だろう。それらの記事に文飾と編集が施された可能性は否定できない。

敗者大友皇子側の資料は絶無であり、客観的立場にあった寺社なども、記録や論評を控え見て見ぬ振りをするしか無かったことだろう。

客観性すなわち信頼性のある資料の少なさと、江戸期の国学、明治期の皇国史観の時代を経て敗戦まで、この事変をとりあげる研究者は少なかった。やはりある種のタブーに触れる恐れがあったのだろう。

「壬申の乱」は、周到に計画された反乱である。反乱軍側が政権に勝利して皇統を継いだのだから、皇位簒奪と見られる。そう見られないように、日本書紀では行為の正当性を入念に主張している。座して近江朝に滅ぼされるより、已む無く反撃した正当防衛であることを、多様な表現で書き上げている。

「壬申の乱」に先立つ27年前の、中大兄皇子と中臣鎌足を首謀者とする「乙巳の変」で、蘇我蝦夷・入鹿父子を粛清したのは、やはり周到に準備され謀議を尽くした上で実行されたクーデターである。「乙巳の変」は、臣下が専横の限りを尽くしているのを皇太子と忠臣とが協力して誅伐したドラマチックな事件だった。誰の目にも蘇我父子の専横は明らかだったから、正義は勝者にあったと見られ、後世に疑念を招く余地はなかった。

考えてみれば、中大兄皇子と大海人皇子は極めてエネルギッシュな兄弟で、兄は姻戚の豪族を粛清して王権を確立し、弟はその王権を打倒して新たな権力、律令中央集権体制を完成させた。乱後の政権構築は順調で、大海人皇子は確固たる政権基盤を築いたうえで即位し、天武天皇として【飛鳥浄御原宮】(あすかのきよみはらのみや)に入った。

壬申の乱は、日本の古代のエポックメーキングといえる事件であり、今日に至るまで、日本人の社会に重大な影響を与えている。日本の国号天皇の称号も、天武天皇の時代から始まっている。

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