夜の鉄橋で泣き叫ぶ幼児の自分がいた
真夜中の鉄橋を渡ろうとする老若男女がいた。
叔母の夫、私の母そして4歳の私である。所は今の韓国南部のR市近くの鉄道線路に架かる鉄橋の渡りはじめの場所である。
それまで母の手に引かれとぼとぼと歩いてきたのだが、この鉄橋にかかると突然恐怖に襲われたのだ。鉄橋下を流れる水の音、枕木の間の漆黒の闇がとても怖かったのだ。
泣きわめくばかりで歩こうとしない私を叔母の夫が背負ってくれて漸く一行は鉄橋を渡りきることが出来た。
話は約一年前にさかのぼる。当時4歳の私は前述のR市の駅前で貨物運送店を営む伯母夫婦宅にいた。郷里の萩から山陰線の下関、関釜連絡船そして鉄路を経てR市駅前の運送店までの記憶は全くなく気がつけば伯母夫婦に猫可愛いがりされている自分がいた。
(鉄橋渡りで私を背をってくれたのはもう一人の叔母の夫である)
私は父が45歳、母40歳の5男で末子として生まれた。萩地方では末っ子の男子はXX家の「オトンボ」と呼ばれることがある。「オトンボ」=オトド(左大臣)が鈍ったものと後年教えられた。つまり兄弟姉妹の内一番可愛がられ、場合によっては我が儘に育てられたのである。
そんな私が何故海を渡って朝鮮半島の南のR市の伯母夫婦の養子含みで行かされたのか? 5歳で母を亡くし、18歳で進学のため上京した私はこの「何故」をあまり意識したことはなく、今やその事情を知っていたであろう人たちもほとんど鬼籍に入っているので、 確かめる機会を失ったまま現在に至っている。
ただこれは私の想像の域を出ないが、私なりのストーリを記述してみたい。
私の生まれた昭和6年、西暦1931年の日本津々浦々は1928年のアメリカ・ウオール街の株式大暴落に始まった世界大不況の波をもろにかぶっている最中であった。
その少し前に山陰地方の小都市萩市の西外れに国鉄(当時)の小駅「玉江駅」が設置されたのは大正14年(1925年)であった。
駅発足当時、駅前広場にムシロを敷き座り込んだまま数日に亘って乗降客の人数、風体などを観察している年の頃35~6の男がいた。
何のために?市場調査、今風に云えばマーケッティングである。何のためのマーケッティング?
駅前に商店を開いて商売になるか?
商売になると見込んだその男性は土産物、飲食店らを兼ねた店を開いた。田舎の駅前にある変哲もない商店であるが、今様の「道の駅」の趨りでもある。
この男性こそ私の父である。しかし折からの世界恐慌の波はこの田舎にも容赦なくかぶさって来た。開業間もない小規模商店の金繰りが厳しいのは当たり前である。
(これから以下の文章は私の推理である)
創業資金と日々の資金繰りの一部を南朝鮮R市で駅前運送店を営む伯母夫婦に頼ったと思われる。この伯母夫婦には子供がいなく、夫婦に子供が出来る見込みもなかった。そこで養子の話が出、当時4歳の私に白羽の矢が刺さったと思われる。
末っ子のオトンボを近い親戚とはいえ遠地に養子に出すなど両親には相当な抵抗があっただろう。とくに母親にとっては身を切られる思いであったとおもう。
店をやっていくためにやむを得ずの経緯と今は理解できるが、ふと気がついたら伯母夫婦の家で甘やかされ腫れ物に触るように育てられている私がいた。
この甘やかされていたという感覚は男兄弟の末で兄たちにいじられていた私は4歳児ながら、今までとは違うというはっきりした記憶がある。
しかしそうこうしながら割と楽しく暮らしていた私が病気になった。急になったか、除除になったか、病名は何であったか記憶にないが、可成り重いものであったらしい。
萩に連絡が行き、母親がすっ飛んできたらしい。
一刻も早く連れ帰るという母の強い希望で、真夜中にかかわらず釜山(プーサン)行きの急行停車駅まで歩いて行くことになったのである。そして冒頭の怖い鉄橋にかかったのである。
この後は関釜連絡船の船室にいる自分まで記憶が途絶えている。
(続く)