2016年 第22回 宮日コンクール メモ
一般部門エントリー
ショパンワルツ、エチュード、ノクターンと、弾きなれた曲を弾く。
大きなミスはなかったが、演奏中 奇声?のような音が3回ほど聞こえ、気が散った。2曲目のエチュードの時には曲の流れが一瞬切れた感。
この3曲は、ショパコンで弾いて良い結果を出した。2年前。
しかし、ショパコンでは何せ30年ぶりの演奏でアマチュア部門で出たからの結果だった。
その後もいろいろなコンクールでいろいろな曲を弾いた。
2016年は、安川加寿子記念コンクールに挑戦。初めて一次予選を通過しなかった。
参加者は大学生以上、リサイタルプログラム、古典派 バロック ロマン派 印象派と課題が大きかった。
予選を通過しなかったのは、ベートーベンピアノソナタの3楽章で指さばきが滞ったこと。ショパンは良かったと聴いた。
審査員の一人、青柳いづみ子先生から特別な講評を頂き、今後もピアノを弾き続けるよう励まされた。
・・・そして、宮日コンクール。
私が こうも頻繁にコンクールに出るのには訳がある。第一に鍛錬のため。30年の空白で失ったものの大きさを、コンクールに出たり、現役のピアニストの演奏を聴くたびに痛感する。そのたびにもがいている。だから練習する。ステージを目指して弾く。
第2の理由は、一流のピアニストの先生方から講評を頂きたいから。例えば「ショパンのfはそうではない」とか「ドビュッシーをもっと研究すると良いでしょう」。「細かな音が際立つように」や「低音の出し方を工夫」。なかには「アルゲリッチのようだ」と書かれたことがある。音楽友達とも30年間音信不通で、音楽自体からも遠ざかっていた私にとって、現在のピアノに向かう私はまるでスポンジだ。なんでも吸い取るのが面白くてしょうがない。吸い取って、吸い取って、ようやく絞り出したら最初は澄んだいた何かが変わってきた。だから、今、またもう一度吸い取り始めた。
前回の安川加寿子記念コンクールで「他の演奏者に比べて音が小さい」と言われた。
今回も同じことを言われた上に「きれいな曲を選びすぎたのではないか」と言われた。
なるほど。と思った。
コンクールの特徴。どんな年代を主にターゲットにしれいるかも重要だ。
ほとんどのコンクールが若手ピアニストの発掘と育成だろう。
しかし、昭和30年代のベビーブームと高度経済成長を通り越し、そしてバブルが散った。高齢化と子供の絶対数の率。
そこに、パソコンやデジタルの発達で過去に築かれた芸術の価値感が変わってきた。
でも、日々ピアニストは生まれてる。しかしその道は大きく二分化しているとも。
最近のコンサートやリサイタルを見ていると、一流はピアノだけで生きていけるだろうが、ほとんどがパフォーマンスが加わった総合芸術的なコンサートとなっている。そうでもしないと、客が集まらない。その中で、地域で細々と弾いていけるのだろうか。
年齢も、とうに半世紀を過ぎ、はっきり言って未来はない。が、私は弾いている。
音が出ない理由も、指摘された。認めるには抵抗があったけれど、認めざる得ない現状がある。
演奏する場所に応じて、聴いてくれる人たちに応じて、そして自分のために弾く音をしっかり育てていかないといけない。
2連敗。
とても このままでは終われない。
今日から練習のやり直し、曲の選び直しと思っていたが、ちょっと疲れが出てダウンしてしまった。
明日は、楽譜を整理しよう。いつでもさらりと弾ける曲は今年中に形にして残すように。
そして 昔言われた「強靱でびくともしない音」を、もう一度取り戻そう。